「むべこれやこの たんかといふらむ」
大学の文芸部で発表したものです。
「短歌 すなわち五七五七七の計三十一音からなる和歌の一形態 中には定型を外れるものも存在するが おおむねは三十一音
その善し悪しの判定は 鑑賞者各人の感覚に依るところが大きい 音調と言葉選びが主な評価対象となろうが 技巧面や情緒性など 我々素人目には判じ難い要素も多々ある 基礎の出来ていないものが奇を衒うと失敗に終わってしまうのは世の常であるからして ここについての思索は控えておく
音数が限られている以上 そこに表現され得るものもまた有限である 嘗て 和歌を含む仮名文の表記に濁点は用いられていなかったという つまり 短歌において使用される文字は五十一通り 正確には 現代仮名遣いにおいては や行い段え段とわ行う段は空白 或いはそのままあ行を当てはめる為 四十八通りである 結果 短歌における全ての可能な文字列とは 三十一の四十八乗通りとなる これは十の五十三乗程度 恒河沙を超える数であるが 有限は有限である
仮に最も優れた短歌というものが存在するなら それは三十一の四十八乗分の一の確率で生み出される 或いは有限のうちの一つであるのだから 取り出されるとするほうが良いかもしれない 無論 先ほど述べたように評価が個人の感覚に依る以上 普遍的最優秀などあり得ないわけだが
世の歌人と呼ばれる人々は この三十一の四十八乗の中から秀逸な文字列を取り出すことに長けた人々である 西行も啄木も白秋も 皆類い稀なセンスを以て秀逸な三十一の四十八乗を取り出したのだ 最優秀ではなくとも優秀ではあったはず さながら 砂漠の真ん中で比較的奇麗な砂の一粒を拾い上げるかのような
私にそんなセンスはない
ここに ひらがな三十一音の文字列をランダムで生成するプログラムが存在する 三十一の四十八乗分の一を無作為に取り出すシステムだ 私はこのプログラムを“歌人”と名付けた 私はこの“歌人”に作歌を委ねることにした これは 否 彼はきっと私に代って素晴らしい歌を作ってくれることだろう
『ほのやぬあんねせけせはらかのうくいわをくこえまなくをきのねけて』
試しに“歌人”を走らせると 吐き出されたのはそんな詠草だった 私は首をかしげた これはおおよそ歌と呼べる代物ではない 理由は至極明快で 無作為に並べられた文字列からは 意味を読み取ることができないからだ 無意味な文字列を歌と呼ぶことはできず もはや日本語の体裁すらも成していない
その後“歌人”を二十度走らせてみた 中には単語レベルでは意味を読み取ることができるものも存在した しかし 三十一音全体を通して意味を成すものは一つとして詠まれなかった
冷静に考えれば それもそのはずであろう この世の可能な文字列全てに意味があるはずはない 十の五十三乗を超える文字列の中に 全体で意味をなすものが 果たして如何ほどあろうか 文字列から意味を汲み取るのは人間であって プログラムではない “歌人”は意味のある文字列のみを取り出すことなどできるはずはないのだ
だがここで 一度視点を変えてみる そう 文字列から意味を読み取るのはいつだって人間である 例えば先ほどの“歌人”が取り出した文字列 一見無意味ではあるが そこに鑑賞者である私が独自解釈で意味を読み取り それを賦与することは可能である
仮にヤヌアという名の友人が私にいたとする 遠く視線の先にかすかなヤヌア氏の影を私が見とめると その様を指して私は仄ヤヌアと名づけた
そしてヤヌア氏と私は 二人だけに通じる特殊な言語をしばしば用いるのだ 「んねせけせ」というのはまさにそれで 日本語に当てるなら「釣り上げた」という意味になる 尚この特殊言語は体系化されていない
私はヤヌア氏の腹を見る そこには 以前にヤヌア氏との話の中で出てきた 池のウグイが乗っていた
つまり上の句『ほのやぬあんねせけせはらかのうくい』から 遠くにみえる友人がウグイを釣り上げたと報告してきた という意味を私が個人的に読み取ることは自由なのだ それが 私以外の誰にも伝わらなかったとしても
読み手が意図した歌意と鑑賞者が読み取るそれは必ずしも一致しない まして“歌人”はそれを意図しない よって“歌人”が西行の「なげけとて~」の歌と一字も違わぬものを取り出そうが それは“歌人”にとって 先の「ほのやぬあ~」の歌と等価値である “歌人”は意味のある文字列のみを取り出せないのではなく “歌人”にとっては取り出されるすべてが等しく無意味なのだ
先程 可能な文字列全てに意味があるはずはないと述べたが すなわちこれは誤りである 先の歌の解釈はいささか屁理屈にすぎたかもしれないが 言語に規定されうる人間の認識と理解というものは それこそ有限のうちに収まりきるものではないと思われる 日本語話者という視座から一度身を引けば 音の連なりから如何な意味を見出すかは個々人の感性にのみ依るところとなる
“歌人”が取り出したものは間違いなく短歌であると私は主張しよう だがしかし やはり普遍性は持ち得ないため これを世に出すことはひとまず控えておくこととする
ところで 自由律というものがある
五七五七七の定型にとらわれない自由な音律で以て詠まれる歌ことだ 俳句であれば 尾崎放哉の「咳をしても一人」などが有名であろう
これの存在を知った時 私は唖然とした そんなものが許されるのであれば いったい何が短歌を短歌たらしめているのだろうか と 私にとっての五七五七七という定型は 短歌を構成するうえでの最重要要素であったからだ それが崩れてしまうということは つまり1+1が2ではなかったのだと宣告されたようなものであった
では定型にとらわれないのであれば 一体何を以てして短歌とするのか それは偏に 韻文である ということ 散文に対する韻文 音韻の配置に規則性を持たせることで 音調が整えられている文 俗にいう 声に出して読みたい日本語というやつであろうか 五七五七七という定型はすなわち この韻文の中の一形態でしかなかったというわけだ 故に破調の一種としての自由律
自由律の存在は 韻文であればそれはすなわち歌である ということの証明たり得るわけだ では韻文 音律とはなんだ もちろん頭韻脚韻といった押韻を用いるのは一つであろう しかし 世の短歌俳句すべてに押韻が用いられてるかといえば 無論そうではない 最終的に音律の判断は鑑賞者の聴覚に依る美的センスで行われる そう ここで取り上げられるのは またしても個人の価値観でしかないのだ
現代短歌というのは 斯くも足元が覚束ないものなのか 先ほどの“歌人”による「ほのやぬあ~」の歌も 私を含む誰かが美的音調を感じ取れれば やはりそれは短歌たり得てしまうのだ 世にはびこる全ての文言が 鑑賞者の価値観ひとつで短歌となってしまう 私が一つ判断を下せば 便所の落書きもまた短歌となる 歌とはなんだ 美とはなんだ
しかし その事実に気付いてしまった以上 私はそれに迎合することもまたかではない 芸術の多様性とはすなわち審美の多様性 人類の価値観の多様性である 私はこれを以て 短歌界の躍進の一助になればと考えている
せめてもの形式的配慮として 句読点を排し 作品を鉤括弧で括ることとしよう」
作歌の課題として、以上の三首を提出いたします。
「却下だ」
「どうしてですか」
「自由律っていうのは、決して文字数無制限って意味じゃないからだ。それに、お前の理屈を借りるなら、それが短歌ではないという判断もまた俺の価値観ひとつで可能というわけだ。俺は今度の課題で、俺が短歌だと認められるもの以外は受け取らないこととする。というわけで、お前のこれは受け取れない」
「なるほど」
「お前自身が最初に言ってるじゃないか。素人が奇を衒ったって碌なことにならないって。わかったら、ちゃんとした短歌を作ってこい」