第五話
駅舎から出ると、冷たい風がわたしの身体に吹き付けた。コートの合わせをしっかりと手で押さえ、わたしは荒れた舗装の石畳の道を進む。がらがらと引く旅行鞄ががたんと跳ねた。
「さみしいところ」
わたしは母が入院する病院がある、帝都から汽車で三時間ほどのところにある、ベネスタという街にまでやってきた。木々が多く、空気がきれいで療養に向いているという点を除けば、特にこれといったものもない、うら寂れた田舎町だった。灰色にくすんだ冬空の下に広がる休耕中の農地には、さびた色をした家屋がまばらに立っていた。そのむこうには森がある。鬱蒼とした針葉樹の森は、深い闇の色を抱えている。わたしは道をまっすぐに進む。病院はこの先にある。
「糞ったれ」
そうつぶやきを吐き捨てる自分がうらめしかった。わたしは認めるしかなかった。結局わたしは泣いたのだ。わたしは母に自分を見てもらいたかった。歌姫となったわたしを見て欲しかった。わたしは母にどんな言葉を求めてこの道を歩いているのだろうか。
そして病院に着く。蔦にからまれた石造りの古めかしい病院は、なぜかひどくわたしと母が会うのに似つかわしい場所に思えた。
「母さん……」
来院を告げて案内された病室に入ると、ベッドの上に痩せさらばえた母の姿があった。記憶にある母の姿は、豊満な身体の女丈夫で、わたしはその変わり果てた姿に一瞬怯んだ。
「昨日から意識はありません。呼吸と脈はありますが、もって数日というところでしょう」
わたしを案内した医師が、申し訳なさそうな表情でそう告げる。病室には消毒液の臭いに混じって、末期の病人に特有の饐えた臭いが漂っていた。意識がない。そう聞いて漏らしたこの息は、安堵なのか焦燥なのか。わたしは覚悟を決めるしかなかった。
「母さん」
ベッドの横に椅子を引いて座る。骨ばった手に触れる。わたしを何度もひっぱたいた手だ。もうその手はわたしを叩くことはない。冷えた手。憎しみも凍りついてしまうほどに、その手は冷たく痩せていた。
「ダミアよ、母さん。あなたの娘のダミアよ」
肉が削げ、眼窩の落ち窪んだ目は固く閉ざされ、わずかに胸を揺らす呼吸の漏れる音だけが口元から聞こえてくる。わたしはじっとその顔を見ていた。
――あなたの目を見つめていると
わたしはとても悲しくなる
あなたのなにも
そこから知ることができないから――
気づけばわたしは歌っていた。他になにをすればいいかわからなかったからだ。歌は母と別れてからのわたしの人生だった。わたしは歌った。歌う歌は『あなたの目を見つめるとき』。
――でもそれを知ったところで
わたしになにができるというのだろう
あなたの指が
あなたの口が
あなたの瞳が
わたしをもう捕らえてしまっているのだから――
ひどくさびた声だと自分で思った。哀調の恋歌にかすれた音が混じるのは、声が泣いているからだ。母の前で歌うのは初めてのことだった。母の目は閉じている。
――あなたの目を見つめていると
わたしはとても悲しくなる
朝に夕に
わたしにほほえむあなたが
わたしを解き放ってくれるのはいつ?
夕に朝に
わたしにほほえむあなたが
わたしを解き放ってくれるのは――
そのときだった。母の目がゆっくりと開いた。そしてなにかを探すように右に左に瞳が動く。黒い瞳にわたしの顔が映る。わたしは母の瞳に自分の姿を見た。嗚咽が漏れた。
「――母さん」
母は目を細め、そして閉じた。閉じた目はもう開かなかった。わたしの涙だけが残った。
次の日、母は死んだ。