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第四話

 朝もやのチュルリー通りで、わたしは歌を歌っていた。


 ――想い出

   わたしは幸せを探していた

   街の角に

   窓の影に

   雑踏の音に

   ガス灯の下に――


 帝都の中心街へ続くチュルリー通りには、仕事へむかう朝行きの人々が足早に歩き、路面電車(バコスタ)の乗り場に列を作っている。


 ――夕方になると、わたしは幸せを探しに行く

   家路の人に

   月の光に

   夜の闇に

   夢の中に――


 夜の煌びやかな衣装もなく、華やかな化粧もないわたしの姿は、夜劇場(カーヴェ)の夜を彩る歌姫(フェルノール)のダミアでなくて、ただ街角に浮き草のように漂い、身一つで歌い暮らしていた、かつての娘子ダミアのものだった。

 わたしの歌声にいくらかの人が足を停め、いくらかの硬貨を置き、そしてまた歩いていく。


 ――想い出

   あなたはどこにいってしまったの?

   想い出

   朝もやの中に消えてしまったあなたは――


 カンカンと路面電車(バコスタ)の鳴らす鐘の音が朝もやに響く。たくさんの人を乗せ、路面電車(バコスタ)はガタゴトと走り去っていく。人がいなくなり、また集まり、そして路面電車(バコスタ)に乗って、またいなくなる。


 ――想い出

   朝もやの中に消えてしまったあなたは――


 わたしは美しい声を持っていた。母に愛されていなくても、それがわたしの取り柄だった。だからわたしは歌った。一人になっても歌い、歌うことで生きてきた。それが今までのわたしの人生だった。

 街頭で歌い、夜店で歌い、歌評会(フェルチェスト)で歌い、後援者(ベスモンテ)を得て、夜劇場(カーヴェ)で歌う歌手(フェルテ)となり、そしてわたしは歌姫(フェルノール)のダミアとなった。

 わたしは街頭に戻ってみた。母に捨てられたあの日の自分を振り返るために。わたしの歌に、あの日の感情が残っているのかどうかを確かめるために。


 ――想い出

   朝もやの中に消えてしまったあなたは――


 カツカツと靴を鳴らす音がして、あたしの前で止まった。目をむけると、毛皮のコートに身を包んだ裸婦(パティ)のエカテーナが腕を組んで立っていた。


「おはよう、ダミア。朝から素敵な歌ね」


 エカテーナは笑顔であいさつをすると、懐から財布を取り出して、わたしの前に百ドゥカティ札を差し出した。


「なんのつもり?」


「良い歌を聴けば心づけ(シャル)を渡すのが、礼儀というものでしょう?」


 その形の良い眉を上げてエカテーナが言った。わたしは差し出された紙幣を一瞥して皮肉を返す。


「頂いた心づけ(シャル)を他人に与えるのは、礼儀を失しているのじゃないかしら?」


 エカテーナは肩をすくめると、含みのある笑みでわたしを見た。


「あなたのお母さん、あなたを置いて若い男と駆け落ちしたんですってね」


 カッと頭に血が上った。わたしは無言で(きびす)を返し、この場を立ち去ろうとした。その背中に声。


「女が母親を嫌うのは、母親が女であるからよ」


 立ち止まる。振り返るとエカテーナがいつもの挑発的な笑みを消して、無表情にわたしを見つめていた。


「あなた、わたしみたいな裸婦(パティ)が嫌いでしょ? 男に(レーメ)を売って、こんな時間に朝帰りをしている女なんてさ」


 そう言ってエカテーナは自嘲気味に首を振ると、遠い目で朝もやの街を見やった。


「あなたはいいわね。羨ましいわ。あなたの歌は素晴らしいもの。あなたはわたしが嫌いでも、わたしはあなたの歌が好き」


 わたしはとまどい、エカテーナをじっと見つめた。彼女は問わず語りで話し続ける。


「わたしは芸のない女。踊り子(カルメル)のように踊れるわけでもなく、歌手(フェルテ)のように歌えるわけでもない。それでいて女給(ペルメ)よりは“見栄え”のいい身体を持っていて、女を売って贅沢な服を着て生きている」


 エカテーナが毛皮のコートをはだく。その男に(レーメ)を与えるという豊満な肉体は、あでやかな光沢の真っ赤なドレスに包まれていた。


「そんな女を女は許せないのよ。だけれどわたしは許してもらうつもりもないわ。だからわたしは女なの。わたしを責める人には逆に問い返してあげるわ」


 そしてエカテーナはわたしにむかい手を伸ばし、指輪の宝石を見せる。


「それがなんなの? ってね」


 彼女の成功を物語るように、その宝石は白く輝いた。そしていつも彼女が見せる挑発的な微笑み。わたしは彼女を知った気がした。彼女はわたしの歌声を憎んでいた。


「わたしの母親も女だったわ。男をとっかえひっかえ、娘にとっては“ろくでなし”なね。母娘そろって“ろくでなし”なんて、ちゃんちゃらおかしいわね。責める気にもならないわ」


 エカテーナが肩をすくめる。その目にあるのは嫉妬だった。彼女にはない歌声をわたしが持っている。それは母親と同じ道を歩くしかない彼女の人生の否定だから。だから彼女は自分を愛さなければならなかったのだ。


「まだ、見舞いに行っていないそうね」


 彼女はそう言いながらこちらに近づいてきて、わたしの手に百ドゥカティ札をねじ込むと、耳元でささやいた。


「あなたはいつまで娘でいるつもりかしら?」


 そして通り過ぎる。わたしが振り返ると、彼女は背中をむけて歩きながら、片手を上げて言った。


「わたし、あなたの歌が本当に好きよ。お母さんにも聴かせてあげたら? じゃあ、また夜にね」


 歩き去るエカテーナ。わたしはしわくちゃになった百ドゥカティ札を見つめる。気がつけば朝もやは晴れていた。朝行きの人々が路面電車(バコスタ)に乗って去っていく。

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