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第二話

 わたしは帝都の夜を飾る歌姫だ。

 皇宮の東側を南北に走るペリューズ通りの北の端に、不夜(ヴェルモール)と呼ばれる街区がある。ここはいくつもの夜劇場(カーヴェ)がひしめきあう帝都随一の歓楽街であり、名前の通りに眠らぬ街だった。

 夜劇場(カーヴェ)とは歌と踊りと美しい身体の女たちで夜の紳士たちをもてなす劇場である。わたしはその夜劇場(カーヴェ)のひとつ、『エル・ミナ』の揃える歌手(フェルテ)の筆頭である歌姫(フェルノール)だった。


「それは心配な話だな、ダミア。キミが望むなら何日か公演(レビュ)の演目を変更して、キミが見舞いに行けるように調整するのも構わないが」


 わたしに届いた手紙の噂を聞いた『エル・ミナ』の支配人ダン・ヴェスペールは、支配人室にわたしを招いて話を聞くと、普段の(いかめ)しい表情を潜めて、親切にもそう提案をしてきた。


「いえ、ダン・ヴェスペール。これはあまりにもいまさらな話ですし、きっとわたしが一角(ひとかど)に稼げるようになったから、見舞金のひとつでももらいたくて寄こしてきた手紙ですわ。お金はもう送りましたもの。だからわたし、いつも通りに公演(レビュ)をこなしますわ。ええ、こなしますとも」


 わたしの返事に目を細めたダン・ヴェスペールは、深くため息をついて椅子に身を沈めた。


「キミがそう言うなら、そうしよう。しかしダミア。後悔はしてからでは遅いぞ」


 わたしはうなずく。手紙の差出人は弟だった。母が病気だという。


「なにをいまさら、って感じよ。十年も音沙汰なかったくせにね」


 夜の公演(レビュ)を終えたわたしは、『エル・ミナ』の近くにある行きつけの夜食堂(ビューレ)で、女給(ペルメ)のミュリエールと夜食をとりながら、弟が送りつけてきた手紙について話をしていた。


「十年よ? わたしを置いてあの人が家を出たのは、わたしが十五のとき。それからわたしが歌ひとつでここまで来るのに十年よ。その間、手紙のひとつも寄こさなかったくせに、突然病気だからって。だから手切れ金のつもりでお金だけ送ってやったわ」


 あちこちの夜劇場(カーヴェ)から公演(レビュ)上がりの芸人や女給たちが集まる夜食堂(ビューレ)は、賑やかな喧騒に満ちている。その喧騒の外れの角隅の席が、わたしたちの指定席だった。ミュリエールは、はっきりとした目鼻立ちに泣き黒子(ほくろ)の印象的な美しい女性だ。気立てのよい人で、わたしをはじめとする芸人たちとは、普段ほとんど付き合いのない女給(ペルメ)たちの中で、わたしが唯一友人と呼べる相手が彼女だった。


「かわいがるのは弟ばかり。それで最後には勝手に新しい男を作って家を出て、わたしのことを顧みることなんて一度だってなかったくせに。わたしがあの人の愛情を感じたことなんて一度もなかったわ」


 吐き捨てるように言う。愛情。そんなものはわたしにとってガラスケースに飾られた宝石のような、自分には遠い、眺めてそれを羨むだけのものでしかなかった。わたしの両親は貧乏だった。わたしを育てられなかった両親は、生まれたばかりのわたしを里子に出した。わたしが両親の元に戻ったのは七つのときだ。けれど、このときにはもう弟がいて、二人の愛情は弟の方に移っていた。わたしは継子(ままこ)のように扱われた。愛されないわたしは、ひがんで里親の元に帰りたいとよく泣いたのを覚えている。そのたびに母はわたしをひっぱたいた。


「ひっぱたかれたことはよく覚えているのに、キスなんてされた覚えもない。弟と、外の男とはよくしていたようだけどね」


 喉に流した濃い目の葡萄酒(ブドゥエ)が吐く息にじっとりとからむ。いつからか両親の仲は悪くなった。母が男をつくったのだ。そしてその若い男と駆け落ちをした。弟は母について行った。父親は酒浸りなって死んだ。わたしは一人になった。


「それから歌だけを頼りに、この十年よ。わたしはあの人に一度も頼りはしなかった。なのにあの人は、いまさらわたしになにを求めるっていうの?」


 そう言ってグラスの葡萄酒(ブドゥエ)を飲み干す。カッと走る熱がわたしの喉を焼いた。黙ってわたしの話を聞いていたミュリエールは、手にしていたフォークとナイフを静かに置いた。


「反対に考えたら? 十年も離れていたから、急に会いたくなったんだって。だから弟さんに手紙を書いてもらったんじゃないのかしら。あなたも気になるからお金だけは送ってあげたんでしょ?」


 ミュリエールは優しい顔で、険のあるわたしの言葉をやわらかく諭す。


「わたしも手紙を書けるものなら……。ねぇ、一度でいいから会いに行ってみなさいよ」


 ミュリエールの瞳に哀しみの色が浮かんだ。わたしは彼女に子供がいるのを思い出した。感情に駆られてこんな話をしてしまった、自分の迂闊さとバツの悪さに目を伏せる。彼女には子供がいる。けれど彼女は子供に会うことができない。だから彼女は女給(ペルメ)なんて仕事をしているのだった。

 夜食堂(ビューレ)の別の一角に視線を動かすと、女給(ペルメ)たちが集まって騒いでいる姿が見えた。店内の灯りに照らされて、嬌声を上げて笑い合う彼女たちの顔に深い影が差し込んでいる。その影は、ミュリエールの瞳に浮かぶ色と同じ色だ。女給(ペルメ)の女たちはみんなこんな影を持っている。女給(ペルメ)とは身に芸のない女が、娼婦に落ちる一歩前の職業だった。


「ああ、わたしがこんな仕事をしているって知れたら、子供はどんな気持ちになるのかしらね」


 女給(ペルメ)の仕事は、公演(レビュ)の客の接待だ。店から固定給のでない彼女たちは、お客の心づけ(シャル)(ブティユ)で稼ぐ。(ブティユ)とはお客の飲んだ酒瓶一本につき一割の歩合をもらう仕組みのことだ。お客を気持ちよくさせてたくさん飲ませるのが彼女たちの仕事だった。中にはお客の目を盗んで中身を勝手にグラスに注いだり、そこらへんに捨ててしまったりするような、タチの悪い女給(ペルメ)もいた。だから女給(ペルメ)は決して褒められた職業ではなかった。


「あんな男に騙されて、わたしって……。女なんてバカなものね。愛で動いて、愛に泣かされてさ。本当、愛だなんてさ……」


 ミュリエールも昔は堅気の暮らしだった。若くして結婚をして、二人の子供を産み、慎ましい生活をしていた。けれどそのまま年を過ごすには、彼女は美し過ぎたのだろう。ある日、彼女は美しい青年に出会った。恋は彼女を走らせ、二人はこの帝都まで駆け落ちをした。けれど男の正体が“ヴェルロ”であると知れたときには、すべては手遅れだった。ヴェルロとは女に働かせて稼がせたお金で、生活をする男のことだ。


「だからね、一度でいいからお母さんと会っておいた方がいいわ。きっとむこうも後悔しているわよ」


 ミュリエールがわたしの手を取って言う。彼女の手は少し固く、かさりと荒れた感触があった。けれどあたたかい手だった。

 彼女のような母親もいる。わたしがあの人にお金を送ったのは、こんな幻想がわたしの中に残っているからだろうか?

 だからといってわたしの母親が、彼女と同じ母親であるとは限らなかった。

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