悲しみ
見晴らしのいい若葉色の丘。
その丘から見える、沢山の人々が行き交う活気あふれる街が一つ。
商人が街行く人に声をかけ、小さな公園で家族が笑い合い……どこにでも見られる光景が広がっていた。
どこにでも見られる、といったがそれは少し過去の話で、戦争が増えつつある近年では珍しい光景である。
そんな光景を見つめる青年が一人、丘に唯一存在する大樹の枝の上で眺めていた。
青年の灰色の瞳は何の感情も表さず、まるで人形のような目をしている。そこへ、街の方から一人の少年が走ってきた。
大樹の上にいる青年に気づくと、満面の笑みを浮かべる。
「初めまして!」
新たな出会いに少年は心を躍らせていた。危険人物だという警戒心は皆無。平和な街で育った少年だったので、それは仕方ないことだろう。
少年の明るく楽しげな声に反応した青年は、ゆったりとした動きで視線を移した。
「僕、レオンって言うんだ! 貴方の名前は?」
純粋な好奇心で満たされたそのオレンジ色の瞳を、青年はじっと見つめる。
何も映さない瞳に少年、レオンを映した青年は薄い唇を軽く開き声を発した。
「俺、は……――」
◆
人間との戦争が続く中、俺はこの世に造られた。
人間と対立する魔の者の生物兵器として。
俺の体は魔の者の王、魔王とその第一部下の吸血鬼の血液で造られている。
製造目的は人間を滅亡させこの世界を魔の者の物にすること。人間を殺すためだけの俺には感情がなく、ただただ主人の為に日々働いている。
「ヴェル」
鳥籠のように360度鉄柵で覆われた檻の中で蹲っていると、主人に呼ばれる声が聞こえた。
ヴェルとは俺の名前。主人は俺の管理を任されている40代の人間男性である。檻の鍵を開け俺の両手足を檻に縛りつける枷も外す。
「さあ、今日も行っておいで」
枷を外された俺は立ち上がり、主人に唇を重ねられる。
ねっとりとした舌が俺の下唇を舐め上げ、僅かに開いていた俺の唇の隙間から主人の唾液が侵入してきた。今朝何を食べたのか、自然と考えてしまう。
「行ってまいります」
さわさわと俺の肌を撫でつける主人の手に口づけを落とし、昨日から知らされていた街へと転移をするべく空中に指を滑らせる。
俺の指が通った空中には黒い文字が浮かび上がった。これは、魔法を使用するために必要なもの。
魔法とは、魔の者だけに許された力。人間である主人には仕えないが、一応魔の者の血で造られている俺には使用することができた。
今から使う魔法は、一度行ったところへと一瞬で移動できるという効果を持つ。所謂瞬間移動。
いつまでも肌に触れてくる主人に頭を下げ、魔法を発動させた。
◆
主人は知らないだろう。
俺には一つ、感情があることを。それは"嬉しい"といった感情。
瞬間移動をし、俺が姿を現した場所は、活気あふれる街だった。
レオン、という少年と出会い"嬉しい"という感情を覚えた大切な場所。
今日俺は、この街を殲滅する。街人は一人残らず殺さなくてはいけない。もちろん、友達であるレオンも。
主人の命令に逆らうつもりはない。だが、レオンも殺さなくてはいけないと理解した時、なにやら胸が騒いだ。それは一瞬のことだったので、気のせいだったのかもしれない。
若葉色の丘の上に立ち、空中に文字を刻んでいく。
それは、一発で街を破壊できるほどの破壊力を持った強力な火の魔法。全てを灰へと変える地獄の業火。
「……」
魔法を発動させ、残ったものはボロボロになった建物と、人間の死体。
無意識に手加減してしまったのか、普通は何も残らないはずなのに……。己の手を見て、首を傾げた。
若しかしたら、これでは生きている人間がいるかもしれない。その可能性を感じて、俺は街へと降りることにした。
友達と走り回った街道は、黒くくすみ人間の焼け焦げた匂いが広がっていた。
人間の生存反応は見られない。一人残らず殺せたようだ。そう安心しながら歩いていると、ふと視界の端に見覚えのある人物が入ってきた。
崩れ落ちた建物の下敷きになったのだろう。
下半身を瓦礫に潰され、レオンは息絶えていた。あの時純粋な好奇心で満たされていたオレンジ色の瞳は、何処を見るでもなく薄く開かれていた。瞳孔が完全に開き、その瞳は黒く見える。
誰に差し出したのか。前に伸ばされたその手をとった。
「……?」
キシリ、と胸の奥が音を立てた気がした。痛い、のかもしれない。
レオンの手を掴む手の甲に、透明な液体が降ってきた。雨が降り始めたのか、と空を見上げてみてもそこには青く澄み渡った青空が広がっていて。
ではこの液体は、と思ったところで頬を流れる何かに気がついた。
そっと頬を流れる液体に触れてみて、思い出す。
これはいつしか死にたくないとあがいていた人間の目から流れていた、涙、というものだということを。
造られた存在の俺に、そんなものが流れるのか。
「レオン」
何故こんなものが流れるのか、レオンに問いかけたくても、もう返事が返ってくることはなくて。
キシキシと余計に胸の奥が音を鳴らすだけだった。
そして唐突に、俺は思った。
ああ、これが――悲しい、という感情か。