創作怪談 詰め合わせ
海から子供の声
私がその旅館に泊まったのは夏の終わり。そろそろ海に冷たい風が吹く季節でした。
その海辺の旅館は、潮で黒ずんだ木造の壁が海からのまばゆい光に照らされて、かなり年季が入っている感じでした。客は多くても十人前後しか泊まれないこじんまりしたところで、数人ほどしかいないと思われる従業員や、年配の女将さんなどはとても親切で、言うことはありませんでした。
季節柄でしょうか、泊り客が老夫婦一組と、女性客の自分一人しかいないのは、とてもありがたいことでした。東京の喧騒と、仕事に疲れた体を、ここでゆっくり癒したかったのです。山でも良かったのですが、温泉に入るよりも、美しい海が見たかった。
初日のことです。
十時ごろに起きて遅い朝食をとると、浜に出ました。海を抜けて吹き込む秋風は少し冷たいけれど、いいお天気でした。サンダルで砂を踏んで海を見れば、どこまでも広がる水平線が日差しにきらきら光っています。周りは肌寒いはずなのに、ゆっくりさざめく海原はどこか優しげで、体を温かく包んでくるようです。
(これだ、これが欲しかったんだ)
私は浜に腰を下ろし、しばらく海をぼうっと眺めました。
何分かたった頃。
不意にどこからともなく、ぼうっと子供の合唱する声が、わいてくるように聞こえてきました。
(うわ、懐かしい)
(自分も小学校の体育館で、クラスのみんなと歌ったっけ……)
子供の声が束になってホールにわんわんと響いてくる、あの独特の空間。声変わり前の少年の声は、どこか女性の低い声に似ていますよね。
いま聞こえている歌は、声があまりに反響してメロディもよく分からず、歌詞も聴き取れないので、曲目は分かりません。近くに小学校でもあるんだろうか。周りをよく調べたわけでもないので、たぶんそうだ、と思いました。
合唱は数分続くと、不意に消えて、元のように、さざなみだけが聞こえてきました。
二日目のこと。
また遅く起きると、今度は旅館の周りをまわってみました。延々と続く浜と平行に、一車線の道路が長々と伸びて、その向こうは切り立った岩壁になっています。他には、なにも見当たりません。
バスでここに来たときも、旅館以外は特になんの建物も見えませんでしたが、あるいは、岩の向こう側に、学校でもあるのかもしれない。でも、そこまで行って確かめる理由もないし、そもそも壁を上がって向こうを覗くことなどとても無理そうなので、そのことは忘れることにしました。
再び、浜に立って水平線を眺めると、昨日より海はいっそう輝いて見えます。今日も天気は良く、そればかりか気温が高くて、気持ちがいい。穏やかに寄せては返す波のきらめきを見るうち、ふと口元が緩んでしまいます。
(ああ、来て良かった)
そう思ったときでした。
「ら、ら、ら、らぁぁぁぁ……」
また子供の合唱の声。
やっぱり、どこかに小学校でもあるんだろうな。
ところが、そう思って聴いているうちに、おかしなことに気づきました。
聞こえてくる方角です。
あまりに響くので最初は気づきませんでしたが、耳を澄ますと、それは後ろから来ていないんです。明らかに、前からなんです。
でも、そんなことありえないでしょう? 前には広大な海しかないんですから。船でも停まっているなら、そこから聞こえている可能性もありますが、周りをぐるっと見回しても、ただ光る海原ばかりが、延々横たわっていて、なにもありません。
でもそうなると、なにか嫌なことになります。海から子供の合唱の声が聞こえている、ってことになるんです。
でも、そんなこと、あるわけないし、バカげてる。だいいち、気持ち悪いじゃないですか。
そこで考えました。
(いいや、やはり錯覚だ)
(きっと陸の上のどこか――
たとえば、後ろの切り立った岩の向こう側とかに学校があって、そこの歌声が、どこか岩場かなんかに反響して、それが、あたかも海から聞こえているように思えているだけだ)
(そうだ、きっとそれだ)
(いっけん不思議なことなんて、種をあかせば、たいていそんなものなのだ)
(そう、それに違いない……)
そうやって、自分を半ば無理やり納得させたとき、合唱は昨日と同じように、ふっと消えてしまいました。
ところが、その晩のことです。
お風呂のあと、夕食の膳を持ってきた女将さんに、ふと聞いてみました。
「あのう、変なことを聞きますが……
この辺りに、小学校とか、ありますか?」
とたんに女将さんの皺だらけの小さな顔が、蒼ざめて引きつりました。
「い、いえ、ありませんが」
変だと思いながらも、この二日に浜で聞いた子供の合唱のことを話しました。聞くうち、彼女の顔色はますます悪くなりました。
「ちょ、ちょっとお待ちください」
言って引っ込み、すぐに旅館の、こちらもかなりの年配の白髪頭の主人が出てきました。
同じく、その深い皺の刻まれた顔は血の気が引いて蝋面のようにまっ蒼で、彼はあっけにとられる私の前に正座し、重苦しい口をひらきました。
「たいへん申し訳ありませんが……」
その次の言葉に、目を丸くしました。
「どうか今すぐに――お帰りください!」
そしてご主人はゆっくりと、そのとんでもない、そして恐ろしい話をしはじめました。
「……この旅館は、わたくしどもが先代から引き継いで、もうかれこれ五十年ほどやっとります。
私が継いで十年目――つまり、今から四十年前ですね――その、ちょうど今ぐらいの時期、秋口のことでした。そこの街道を小学校のスクールバスが走ってきたんです。乗っている二十人ほどの男女織り交ぜた児童は、全員合唱部で、これから街の公会堂で市のコンクールに出る予定でした。
ところが、です。
バス会社が悪かったんですが、運転手は無理なスケジュールを組まされて、その日、寝不足でした。それで、この旅館の先に急カーブがあるんですが、そこを曲がりきれなかったのです。
バスはガードレールを破って、崖から海に突っ込みました。警察に引き上げられたのは、落ちて数時間も経ってからです。
時間になっても来ない、と公会堂のスタッフが学校に連絡をいれて、警察が動くまで、合唱部の子供たちも、引率の先生方も運転手さんも、みんなこの海の底に転がるバスの中で、何時間も放置されたんです。
引き上げられ、変わり果てたわが子を見て泣き叫ぶ親御さんの声が、ここまで聞こえてきました。長時間潮水に浸かって、その顔や体に、恐ろしい腐乱が始まっていた子もいたそうです。
学校中から期待のかかった優勝候補でしたから、出場の機会をこんな形で奪われた子供たちは、さぞや無念だったろう、と誰もが口々に言いました。遺族の方々や教員たちをはじめ、多くの関係者がその崖を訪れて、花をそえ、不幸な子供たちの冥福を祈りました。
ところが――」
ご主人はいったん口を切り、上目で私を見て言いました。
「ことは、これで終わらなかったんです……。
その頃は季節柄、お客さんは少なかったんです。
悲惨な事故のあったその日に、泊り客の方のお一人が、妙な噂を立てました。
この若い女性のお客さんは、会社の慰安で来ていらしたんですが、「浜に一人でいたとき、海のほうから、子供の合唱する声が聞こえてきた」と、こう言ってゆずらんのです。それも事故の数時間後、事故車と遺体の引き上げが終わって警察が帰ったあと、辺りが暗くなり始めた頃だったそうです。
その声は、そろそろ黒ずんできた海原の向こう――つまり水平線からじゃなく、もっと自分のすぐ近く、目の前の黒い海の奥から湧きあがるように響いてきた、と言うんです。
時期的に、あまりにも不謹慎でしたから、連れの女性が「きっとなにかの間違いでしょう」と、たしなめたんですが、彼女は絶対に聞き違いじゃない、確かに大勢の子供の歌声だった、と言い張って、こいつに(と女将を示して)話しちまったんです。
とんでもなく気味悪いと思ったそうですが、うわべだけは笑って同意しまして、相手をなだめたんだよな(女将うなずく)。
ところが、ですね。
その晩遅く、その若い女性は、姿を消しちまいました。旅館中、総出で探したんですが、てんで見つかりません。
ただ、おかしなことがありまして。
この女性が寝ていた布団が、海水でびしょびしょに濡れて、水が長い帯になって廊下を通って、そのまま浜辺に続いとったんです。
うちのもんたちがたどると、水の帯は砂を黒く染めて、まっすぐ海へ入って、消えていたんだそうです。
これだけでも気味悪いんですが、さらにわしらがぞっとしたのは、寝床や廊下の、水がしたたってる場所の脇に、濡れた小さな足跡が、いくつも点々とついていたことです。どう見ても裸足の子供が歩いた跡で、それらはみんな一様に海に向かって進んでいました。
でも、お泊りのお客さんの中に子供はいないし、子供といったらあなた、その数時間前に近くの海に消えた、たくさんの命以外には、なかったんですよ……!
また警察が捜査しましたら、旅館から西へ数百メートルは離れた岩場に、その女性の遺体が流れ着いていたんです。
酷い事故のすぐあとに起きた事件だけに、警察はなにか関係があるんじゃないかと思ったらしいんですが、犠牲者の方が残した、かなり普通じゃない証言があるばかりで、なにも見つからなかったんです。うちの者たちにも、お泊りのお客さん方にも怪しいところはなくて、亡くなった方には自殺する動機も何もないんです。
結局、『犠牲者が夜中に泳ぎに出て、潮に流され、そのまま溺死した』という憶測に落ち着きまして、すぐに事件は忘れ去られました……」
主人の話はさらに続き、聞くほどに、私は恐ろしさで震えあがってしまいました。
そのあとの話では、それから十年後の同じ秋ごろ、今度は同じく自殺の動機もなにもない会社員の男性客が、浜で子供の合唱を聞いたと言ったそうです。女将さんがうっかり十年前の悲劇を話したら、その男性は「くだらない。幽霊なんて迷信ですよ」と、難なく笑い飛ばしました。
しかし、その男性も十年前と同じく、夜中に一人で海に入り、近くの岩場で変わり果てた姿で発見されたのです。
彼が寝ていた布団は、やはり海水でぐっしょり濡れていたそうです。
そしてご主人が言うには、その男性が亡くなってから、今日でまた十年目だそうです。昨日から自分も女将さんも、お客がいつ「子供の声を聞いた」と言い出すか、それはもう気が気ではなかったそうで、そんな折に出た私の一言が、彼らの恐怖に火をつけてしまったのです。
「だから、」
ご主人は深刻に言いました。
「二度あることは、必ず三度あります。どうか急いでお荷物をまとめて、お帰りください。もうすぐ最後のバスが出ます。夜中になる前に、ここから街の駅まで行ってしまえば、きっと大丈夫です。
決して、冗談で言っているのでは、ありません。どうか、わたしらを信じてください」
そこでご主人は、急に申し訳なさそうな目になりました。
「さぞや、不思議に思われていることでしょう。それなら、なぜ今日を休みにしないのか、と。
いえ、わたくしどもも、そうしたいのは山々でした。
雑誌をご覧になって、ご予約いただいたのですよね。その雑誌には、いつも載せていただいていますが、今回は見送らせてもらったのです。そのはずだったのです。
そりゃ当然です、少々の赤字など気にしてはいられない! 人命がかかってるんですから。
ところが、これでいい、とほっとしていたら、ご予約の電話が何本もかかってきたのです。電話口でお客様に言われて、あわてて雑誌を見ると、新刊に、写真入りで、うちの記事がばっちり載っているじゃありませんか。うちの者の誰も頼んだ覚えはありません。
雑誌に聞くと、封筒で掲載希望の手紙が写真入りで送られてきた、というのです。毎シーズンのことですから、こちらに問い合わせず、そのまま載せてしまった、ということです。
封筒には差出人の宛名も何もなく、ただ、やたらに潮の匂いがした、と言うのです。受け取った編集の方は、一瞬、海の中から来たか、と思ったほどだったそうです。
それを聞いて、私らは本当に心の底からぞーっとしました。
これで、逃げられないと分かりました。
店を閉めることは出来ず、たとえ閉めても、きっと別の何かが起こるはずだ、と確信したのです。
それで、びくびくしながらも、お客様にお泊りいただいたわけです。
ですから、お客様には、なんら落ち度はございません。こちらの勝手な都合でこんなことになりまして、本当に申し訳ございません。
まことに恐縮でございますが、どうか、このままお帰りください。もう、あんな恐ろしいことは、二度と繰り返したくないのです。
お願いします。どうか、このとおりです……」
「そんな、どうぞ、お顔をあげてください」などと、気のきいたことも言えませんでした。
ただぞっとしてその場に固まり、お二人が帰ると、すぐに大あわてで、カバンに化粧品だのタオルだのを詰めて、浴衣を着替えました。
まったく、なんという休暇になってしまったのでしょう。うかうかしていると、大勢の子供の霊に殺される、というのですから。
旅館を立っときに、女将さんがお守りを握らせましたが、こんなものが役に立つんでしょうか。
でも、あとでこれを必死に握りながら、神や仏さまに祈ることになるのですが……。
バス停で待っていると、今にも目の前の海から子供の声がしてきそうで、身がすくむ思いでした。
到着時刻を十五分ほど遅れ、青黒い闇を切り裂くように、バスがぬっと現れました。それは私には、翼の生えた救いの神に見えました。このまま私を乗せて飛び去って欲しい、とさえ思いました。
乗り込むと、乗客は私一人だけで、心細さが身に染みました。なるべく海から離れたいので山側の席に座り、窓の向こうに流れてゆく黒々とした不気味な海を、ただ眺めていました。
そのときです。
周りのエンジン音の唸りに混じって、何か冷え冷えとしたものが聞こえているのに気づきました。
あっと窓の外を見ると、それは明らかに、流れゆくどす黒いみなもの方から、ここまで響いてくる音でした。
「ほうぅぅ、ほうぅぅぅ……」
泡立つように反響する、女性の低い声のような、性別不明の不気味さを持つ声の塊。子供たちの合唱でした。
しかも次第に大きくなり、こっちに近づいているのです。
この走行中のバスの、広い窓のすぐ向こうに、途方もない数の何かがいるのが、直感で分かります。いまや、子供たちはこのバスのすぐそばに立ちならび、車内の私をじっと見つめている。そんな気配を、肌に感じたのです。
合唱の声はますます大きくなり、いつの間にか車内いっぱいに反響して、耳が割れそうになりました。
「運転手さああん!」
声を限りに叫びましたが、返事はありません。彼には聞こえていないのでしょうか、ただ黙々とバスを運転する制帽の頭が、椅子の上に覗くだけです。私の声が届いたとは、とても思えません。
そのうち、合唱がわっとすぐ間近に迫りました。
恐ろしさに、そっちに背を向け、うつむいて固く目をつぶり、必死に念仏を唱えました。いただいたお守りを右手にしっかりと握り締めながら。
すると、子供たちの声の間をぬって、なにか気味の悪い音が、私の背後のそこかしこで聞こえてきました。
ぴちゃり……ぴちゃり……ぴちゃり……。
水の滴る音。
それが車内のあちこちでしている。
今、びしょびしょに濡れた何かが、私の後ろに、群れを成して立っているのです……。
あまりの恐怖に全身が凍りつき、両手で顔を覆って丸くなっていると、何かの手がシャツのすそを、くいくいと引っ張りました。
「ひいいっ――!」
心臓が止まりかけて思わずと叫び、顔をあげて振り返ってしまいました。
そこには、信じられないものがいました。
私の真後ろにいるその少年は、青黒い顔のまんなかが大きくぽっかりと陥没し、残っているたった一つの大きな目玉だけが、ぎょろりとこっちを見つめています。破れた服から突き出す腕や足は、肉がぼろぼろに落ちて白い骨が無残にむき出し、全身がぐっちょりと濡れそぼって、顎からも、ひじからも、ぽたぽたと水が滴り落ちています。
悲鳴をあげることもできず、ただそれを凝視する私は、さらにあるものに気づいて息を呑みました。朽ち果てたおぞましい顔をした何十人もの子供たちが、彼の後ろにずらりと立ち並び、私を見下ろしているのです。
それはまるで、舞台に立つ合唱団のように――。
彼らはみな、元は制服だった布切れを朽ち果てた体に張りつ付け、その顔は腐敗してボロボロに崩れ、全身が海水でぐっちょりと濡れていました。
顔全体が残っている子も、頬や額が水を吸って蛸の頭のように無残に膨れあがり、凄まじい怪物のような形相になっています。
ほかにも顔の下半分が無い女の子、首が捻じ曲がり、潰れた顔に挟まる鋭い恨みの目でギロリとねめつける少年など、すさまじい化け物と化した子供たちが、次々に私の目に入りました。完全に首なしの子もいます。
誰もが青黒い肌をし、全身から冷たい海水を、ぴちゃり……ぴちゃり……と滴らせ、床を黒く染めているのです。
腰を抜かし、気を失いかけたそのとき、何かが私の腕をつかんで引っ張りました。恐ろしく細い指の感触に、あっと前を見ると、目の前にくすんだ灰色の髑髏がありました。
完全に骸骨になった子が、どす黒い海藻を目の穴に絡ませ、骨の指で腕をつかみ、私にぐっと迫っていたのです。
あらん限り絶叫して、気を失いました。
気がつくと、病院の一室に寝ていました。
すぐそばの窓からさす日差しが明るく、翌日の昼になっていました。部屋には若い警官がいて、私を見て安堵の笑みを浮かべました。
彼らの話によると、あの晩、パトカーで巡回していて、あの私が乗っていたバスとすれ違いました。
バスがのろのろ運転で不審な動きをするので、マイクで呼びかけましたが、バスはそのまま山側の岸壁にぶつかって停まりました。すでに気絶していた私は床に放り出されましたが、低速だったおかげで、腕にかすり傷を負う程度で済みました。しかし運転手は重態だそうです。
どうやらあの子供たちは、私を連れて行こうとしたときに、パトカーが近づいたので、姿を消したようです。
私は、すぐに町の病院に運ばれ、命拾いしたのです。
午後にも駅へ行き、日が暮れる前になんとか家に帰れました。
しかし私は、これ以来、もう海に行くことはなくなってしまいました。
たとえ遠く離れた東京の海であっても、あの恐ろしい海岸と水でつながっていると思うと、恐怖で身がすくんでしまうのです。
きっとあの子たちは、また十年が過ぎるその日まで、海の底でこの世を呪い、嘆き、今もみんなで、地獄の歌をうたっていることでしょう。
南無阿弥陀仏。
顔のずれた女
これは、私の隣のクラスにいた石田くんに起きた、不思議で恐ろしい話です。
都内ではわりと進学校の回葉高校の二年生だった石田くんは、隣室の私から見てそんなに目立つような人ではなく、トイレでの女子の噂話に上ることもなく、私も彼と話すことはおろか、その姿をろくに見たこともありませんでした。ただ、この事件のあとで集合写真を見てみると、その卵の尖ったほうを下にしたようなつるりとした顔に、短く切りそろえた髪をひょいと被せたような、やや小柄で目立たない感じの少年で、そういえば体育の移動のときなど、通りがけに教室の窓から、この顔を見かけたかもしれない、と思う程度でした。
そんな石田くんに降りかかったあることは、一時、学校中を騒然とさせました。それはいっけん誰の身にでも起きうることではなく、日ごろ気にする必要など全くなさそうな、きわめて特殊なもののようでいて、ある意味、いつ私たちの目の前にそれが現れるか分からないという、異様な不気味さを兼ね備えた、不可解な事件でした。
石田くんはその日の夕方、友達二人と話しながら下校していました。さびた鉄線の絡む木の塀の向こう側を、赤い夕日を背に広い河がゆっくりと流れていく細い脇道を、いつものようにバカなことを言い合って笑いながら行くと、いつもの鋭角になっている交差点に来ました。すると彼は不意に右を指して、「今日はこっちから行こう」と言いました。いつもは、このまままっすぐ行って街道に出た先で別れるので、この家の塀が急に右に滑り込んで鋭角の入り口を作っている細い横道は、自然に通り過ぎているのですが、石田くんはそこを指差して、今日はそっちへ行くと言うのです。三人の誰もそっちへ行ったことはなかったのですが、少し遠回りでも街道に出れないことはなさそうなので、ほかの二人は特に何も考えずに同意しました。
こんなささいなことでも、普段とちょっと道を変えただけで、気分が上がるものです。三人はけっこう楽しくなって、子供に返ったように、飛び跳ねるように互いにギャグなどをかましながら、うきうきと進んでいったそうです。右に広大な畑が続き、その向かいには住宅が並んで、道は左にカーブになって、このまま街道まで続いていそうなのが分かると、皆なにか勝ったような気持ちになりました。
ところが曲がり角のところで、三人は左を見るや棒立ちになりました。二人の友達の話によると、角にある白塗りの綺麗な家の窓に、一人のとんでもなく可愛い女の子がいて、彼らに笑いかけていたそうです。窓の中から胸から上が覗いていて、肩の白い服が学校の制服っぽかったので、自分らと同じ高校生かと思いましたが、知らない子だったそうです。しかし二人は、その愛らしい笑顔に釘付けになりました。流れるような長い黒髪の間に浮かぶ、綺麗に整った丸顔の中で、豊富なまつげを持つ目が山なりに曲がり、口元が実に自然に緩んで、優しくにっこりと笑っています。それはまさに、天使のように麗しい微笑みでした。
思わず見とれた二人でしたが、同時に照れてしまい、片手で挨拶すると、さっさとその場を離れました。
あとからついてきた石田くんに、「可愛かったなー、あの子」と呼びかけた二人は、彼の顔を見て驚きました。まるでおぞましいものでも見たように目をむき、眉間に皺が寄り、顔色が真っ蒼なのです。彼は言われて、飛び出そうな目を向け、ゆっくりと押し殺すように言いました。
「……どこがだよ。あんなの、身の毛もよだつような化け物じゃねえか」
石田くんの話を聞いて、二人はさらに驚きました。彼が窓の中に見たのは、二人が見た愛らしい天使とは、全く似ても似つかない凄まじいものだった、と言うのです。それが長い髪をした女子高生らしい子だったところは同じでしたが、その顔はまるで違いました。顔が悪かったとか、そんなレベルではありません。あるいは元は二人の見たような愛らしい顔だったかもしれませんが、その構造が問題でした。
まず、二人とは初めから印象が違いました。二人が見た少女は最初からこっちに微笑んでいましたが、石田くんが見たとき、その子は向こうを向いて、流れる髪をたらす後頭部だけが見えていたのです。ただ、雰囲気が妙なので、なんだろうと見ていると、不意に彼女がくるっ、とこっちを振り向きました。
その顔を見て、石田くんはあまりのことに全身が凍りつきました。顔の中央、額から顎の下まで、どす黒い亀裂が縦一直線に走り、それを隔てた顔の右側と左側が、上下に数センチほどずれているのです。右目に対して左目、鼻と口の右半分に対してその左半分が、それぞれ一、二センチほど下にずれてしまっており、一番下の顎も、やはり左側が下に突き出して、半円の端のような逆レの字を描いています。どう見ても、顔が縦に割れて、左右がずれかかった状態なのです。能面などのお面を中央から縦に二つ割りし、それらをまたくっつけて、少しずらしたら、こんな感じになるでしょうか。
そんな凄まじく壊れた顔で、左右にずれた目の中の黒い瞳が、冷たく無表情に石田くんをじっと見つめていたのです。口元は固く結び、笑みなどは微塵も浮かんでいません。
それは、なにかの事故にあった死体のように見えましたが、振り向いたりしたので、相手は生きているわけです。なのに、とてもそうは思えない。生きた人間の雰囲気が微塵もない、そうだ、あれは絶対にこの世のもんじゃない……と、彼は最後まで言い張っていたそうです。
二人には美少女に見えたのが、彼には化け物にしか見えなかったというのは、かなり異常なことなので、二人は帰ったあとで電話で話し合いました。結論は、誰かのいたずらではないか、というものでした。ただ、顔のずれた女の件は、そういう被り物でもすれば騙せるでしょうが、それ以外に、大きな問題がありました。
いったいどうすれば、同じ場所にいる人間たちそれぞれに、違ったものを見せることが出来るのか。何かの複雑なトリックでも使えば出来るかもしれませんが、特にミステリー好きでもなかった彼らは、それをどうしても思いつきませんでした。
結局、俺たちが見た可愛い子が本当で、石田くんが見たのは、単に幻覚みたいなものだったのだ、という煮え切らないもので終わりました。
でも電話を切る間際、相手が急に「いや待て、そのとき夕暮れだったから、逆光なんかで彼にだけそう見えたんじゃないか?」という、新仮説を立てました。なるほど、そういうこともあるかもしれんな、と同意しましたが、これだと、結局全ては石田くんの気のせいだった、という元の説の駄目押しにしかなりません。
いささか心苦しいですが、それでも二人はなんとか納得できたので、その日は寝ました。
ところが翌朝、二人は朝のホームルームで仰天することになります。昨日の夕方、石田くんが死んだというのです。先生の話では、思わぬ事故で亡くなったということでしたが、驚きで静かにざわつくクラスの中で、昨日彼と下校した二人だけが、蒼ざめた顔をそっと見合わせました。
詳しい話を女子のサロンで私が耳にしたのは、それから数日たってからでした。クラスからクラスへ渡ってきた、ただの噂話の域を出ませんが、あまりに悲惨な事故で新聞にも載っていたので、私が聞いた中身は、だいたい真実に近いと思います。
その話とは、こうです。
あの日、街道に出て二人の友達と別れてから、石田くんは夕闇の迫る街路をビルに沿って歩いていました。彼が通り過ぎたあとの路上に水をまいていた、ある店主の証言が、実際に週刊誌に載っています。その人によると、石田くんは彼を過ぎて数メートルほど行くと急に立ち止まり、くるりと後ろを向いて、そのまま何をするでもなく、彼のいる方角をただじっと見つめていたそうです。なんだろうと振りかえっても何もなく、彼が前で顔を見ているのに気づくようでもなく、石田くんはただ、何かを思い出しているような顔で、しばらくそこにじっと立っていました。
そのとき、あの恐ろしいことが起きたのです。
そこは建設現場の脇でした。石田くんの上に、一瞬何か黒いものが降り、すぐにドン! という周りの空気も割れんばかりの凄まじい破壊音を立てて、路上へ落ちました。
事故でした。
太さ二センチほどの太いワイヤーが、とんでもない高さからビルと平行に落下し、同じく平行に立っていた石田くんの頭上に落ちたのです。鋼鉄の線は彼を頭からすぱっと一刀両断し、彼の股下に落下してアスファルトの路面に叩き付けられ、数センチも潜りました。あまりの事態に店主はわけが分からず、しばらく立ちすくみました。
そして、彼は見ました。目の前で、石田くんの顔の真ん中にぴっと黒い縦線が入り、そのままゆっくりと顔の左右がずれてゆき、やがて真っ二つになった体が、バナナの皮をひらいたようにそれぞれ左右に倒れて、そのまま血の海に沈んで止まるのを。
店主が気づくと、辺りは悲鳴の渦でした。あまりのことに彼はその場に膝をつき、気を失いかけたそうです。石田くんのずれていく血まみれの顔の中で、前から差し込む淡い夕日で虚ろに光っていた黒い目がずっと忘れられない、と彼は言っています。
あとで警察が調べると、ワイヤーをつかむ機械のアームが古くなって緩んでいて、それを最上階の二十メートルから放してしまった、というのが事故の原因で、当然、建設会社は責任を問われました。
こうして石田くんは、あまりに唐突で異常な死を遂げました。それだけなら、たんに悲惨で不幸な事故というだけですが、彼の最後の日に一緒に帰った二人の友達には、一つの不可解さが残りました。
彼らは事故のあと、すぐまたあの家に行ってみましたが、そこでまた、異様なものを目にしました。数日前は白塗りの綺麗な家だったのに、今見ると、そこは長いこと誰も住んでいなさそうな真っ黒な廃屋になっているのです。窓ガラスも割れてほとんど残っておらず、その奥に見える部屋は朽ち果てているようで、ボロボロになった壁が渦を巻くように破壊されています。
驚いた二人は、なりふり構わず隣の呼び鈴を押してまでして、事情を聞いてみました。すると、やはりその隣家の人が去年越してきたときから、その家はずっと廃屋で、ここ数ヶ月間、誰も住んだことはない、とのことでした。
では、あの綺麗な家と可愛い少女はなんだったのでしょう? そして、石田くんだけがおぞましいずれた顔の少女を見て、そのすぐあとに、まるで同じ顔になって、この世から消えたのは、いったい何を意味しているのか?
あの少女は幽霊か、それとも死神だったのでしょうか? それが自分の割れた顔を見せて、彼の死を警告していたのでしょうか?
今となってはまるで分かりませんが、二人はこのことは警察にも石田くんの遺族にも言わずにおこうと決めました。校内では、私がこうも詳細に語れるほどに噂が広まってしまって、内緒にしても意味がありませんが。
その後、彼らはその道を二度と通らなかったそうです。
映画館の恐怖
まだネットもケータイもない時代。A子さん(二十代、会社員)は、都心の映画館へ行ったが、あまりに混んでいて観る気が失せた。予約すればよかったとビル街をうろついていたら、さびれたビルの入り口にポスターが貼ってあるのに気づいた。それは観たかった映画のポスターで、ここは小さいがどうも映画館らしいので、観れるならこのさいミニスクリーンでもいいと、中に入った。
ポスターの上に地下一階だと書いてあるので階段で降りると、明かりは薄暗く、ほかに誰もいない。あまりに静まりかえっているので、今日はやってないのではと思ったが、目先に「ホール」と書いたドアがあり、その脇に「上映中」の立て札があるから、まあ大丈夫らしい。壁際にチケットの自販機があるので、とりあえず買って、ドアから中に入った。
中はさらに薄暗かったが、椅子が左右にかなりの数並び、けっこう広いのは分かった。スクリーンもわりとでかい。ほかに客もいないので独占で観れるし、これはラッキーだと、A子さんは真ん中の席に座り、上映を待った。数分でブザーが鳴り、幕があがって映画が始まったが、なんのCMもなく、いきなり本編だった。
だがすぐに変だと思った。どこかの浜辺の映像が海を背にしばらく流れ、波の音だけが延々続くのだが、映像が古くさいので、暗い感じがする。だが、やはりおかしい。どう見てもこれは見たかったあの映画ではない。あれは家族連れでもオーケーな軽いアクションもので、こんな仰々しい芸術的なもんじゃない。もしや部屋を間違ったかと思ったが、さっきビルに入ったときは、ここしか映画をやっている場所はなさそうだった。
不審に思っていると、さらに異様なことがおきた。スクリーンの右端から一人の年配の女性がひょっこり歩いてきて、真ん中に来ると止まってこっちを向いて、そのまま、じーっと見つめだしたのである。
歳は五十から六十くらいに見え、丸顔の背の低いぽっちゃりした女性で、薄紫の着物姿だ。なんてことのない普通のおばさんのはずなのだが、見開いた冷たい目でこっちをじーっと見つめたまま動かないので、A子さんはなにか気味悪くなってきた。
そして確実にわかった。これは観たい映画では全くない。Aさんさんは頭きて席を立ち、くるりと背を向けて、入り口のドアから廊下に出た。
外に出てビルの壁に貼られたポスターをもう一度見て、(ん?)となった。ポスターの下に、何か違う紙が見える。端のめくれをつかんで引っ張ると、簡単にはがれて、下から別のポスターが現れた。それは今まさに見た着物の女性が、紙面の中央に立っている、間違いない、あの映画のポスターだった。
つまり、本当は今あそこでこの映画をやっているのだが、誰かのいたずらか手違いかで、違う映画のポスターが上から貼られていたのだ。要するに騙されたのである。
その映画はだいぶ古いもので、昭和初期の、それもかなりマニア向けの映画みたいだった。さっきの非常識なオープニングを思えば、それは分かる。
ポスターには太字で「アバンギャルド映画、ニューウェーブ界の女王にして超個性派女優、○○×子、没後○○周年記念上映」などと書かれていて、どうもさっきの女性が主演で、それが亡くなってウン十年の記念上映らしい。だがA子さんはそんな人は知らないし、さっきのでうんざりして、これ以上見たいとも思わなかった。
とにかく、間違いだったのだから、チケット代を返してもらおうと、もう一度入り口まで行ったが、やはり誰もいない。無人なら監視カメラでもあるのかもしれないが、とにかく誰か関係者を捕まえて言わないと気が収まらない。とてもこのまま帰る気にはなれない。こんなの詐欺だ。
いらついたAさんは、人を探すため、とりあえずまたホールに入ることにした。探せば、誰かいるだろう。いなきゃ、そうだ、撮影室で映している技師がいるはず。最悪、その人に訴えよう。
というわけで、彼女は再び観音開きのドアを手で押して入った。
スクリーンは相変わらず浜辺のシーンで、何も変わらず、ただ波の音が静かに聞こえている。ちがうのは、さっきの女優がいないことだ。
Aさんはあきれた。
(あれから、ずっとこうだったのかよ?!)
(アホな映画だなぁ……)
見回したが、映像が白っぽいからホールがけっこう明るく、Aさんも目がいいので、隅々までよく見えた。が、誰もいない。
仕方なく、歩いて探そうと思ったとき、廊下からコトンと音がした。誰か来たと思い、また入り口のドアまで行って、観音開きを手で押した。が――。
(えっ……?)
思わず手を引っ込め、数歩も下がる。あいたドアの隙間から今、向こうにいる人の顔が見えたのだ。そいつはドアの目の前に立っていて、彼女の顔を至近距離で見すえた。
誰かいたのなら歓迎なはずだが、この場合は、全くそうでないばかりか、それは恐怖だった。
なぜなら、たった今見たそいつの顔は、さっきスクリーンで見た、あの気味の悪い女性そのものだったのである。あの見開いた目、ぽっちゃり顔。間違いない、ポスターにあった主演女優だ。
だが、それはありえない。あそこには「没後ウン十年」とはっきり書いてあったではないか。今ここに、本人がいるはずがない。
「おやおや」
不意に年配の女性の声が、ドアの向こうからくぐもって聞こえた。落ち着いた声だが、それがかえって不気味だった。
「来ていただいたのね。よかった。さあ、一緒に帰りましょう。準備は出来ていますよ」
(な、なに言ってんだ、こいつ……?)
言っていることが解せないので、いっそう気味悪くなったが、そこから出るわけにはいかず、仕方なく、ほかに出口がないかと通路を急いだ。椅子でこけそうになりながら進むと、背後からさっと光がさした。ドアをあけて奴が入ってきたのだ。
相手がこの世のもんじゃないと確信していたAさんは、振り返りもせず、ひたすらホールの反対側まで進んだ。
「さあ行きましょう。準備は出来てるわ。いつでも戻れるのよ」
声が近づいてくるので、追ってきたのは間違いない。ぞっとして歩みを速めたが、椅子のせいで進みにくい。
声が後ろに迫る。
「さあさあ。一緒に行きましょう。本当に、来ていただいてよかったわ」
声ばかりで相手の足音がしないのも、すごく嫌だった。やはり人間じゃない。
(う、うるせえっ!)
(来んなよお!)
あせって心で叫んだが、向こうに着いてもドアがあるとは限らない。最悪、大声で技師さんを呼ぶしかあるまい。
やっと向かいの壁についたが、いつの間にか声は消えていた。振り向いても、誰もいない。
ほっとしたが、さらに良いことに、壁にドアがある。それも「出口」と書かれている。顔が輝いた。
(やった、これで、この忌まわしい場所から出られる!)(逃げられる!)
だがAさんが行こうとしたとき、突然、そばでわっとでかい声がした。目の前のスピーカーからだ。
「なにしてるんですか、早く行きましょう」
振り向いて、あっとなった。スクリーンに、またあの女がいて、映画の中からしゃべりかけている。こっちは端にいるのだが、そのでかい顔は完全にこっちを向いている。相変わらず見開いた氷のような目で、Aさんは凍りついた。
あわてて走りだそうとした、その右手首を、後ろから誰かが、がっしとつかんだ。振り向けば、スクリーンの女の右手が画面から突き出して、ここまで長々と伸びて、自分の手首をぐっとつかんでいる。そして、すごい力でぐいぐい引っ張られる。
「きゃあああ――!」
叫んでも引きずられて、ずるずると画面に近づく。ふと気づいたのは、さっき奴が画面にいなかったのは、出番が終わったからではない。そこから抜け出て、ビルの中を歩きまわっていたのである。そんな妖怪と、さっきドアのところで鉢合わせした。そして今、奴はまた映画の中に戻ったのだ。
「よかったわ、間に合って。準備万端よ」
背後に銀幕が迫るとき、Aさんは女の悪魔のような笑いを見た。
A子さんはそれきり行方不明になった。
同じ映画好きだった友人のB子さんは、ある日雑誌で、とある映画の広告を見て、妙に思った。それは誰も知らないマイナーな昔の日本映画で、主演女優の顔の下に、多くの共演者の顔が小さく並んでいるのだが、その一番右端の女性の顔に見覚えがある。
(いや、まさかね)(こんな古い映画に、彼女が出てるはずないじゃん……)
名前も書いていないので、誰だかわからない。まあ似ているだけだろう、と雑誌をとじた。
そのとたん、なぜか物凄い寒気が背筋を走り、びくっとなった。風邪とはちがう。理由がまるで分からない。
気味悪くなって雑誌を放ると、なぜか当分、映画館に行くのはやめようと思った。これも理由は分からない。
井戸のあるトンネル
「芦沢、帰りにトンネル、寄らないか」
昨日、帰り際に明石がニヤついて言ってきた。彼は右目が左より少しでかくてぎょろっとしてて、頬が込みあがってヤンキー面で、見た目がちと怖いんで、周りは話しかけづらいようで、クラスで友達は俺しかいない。
「トンネル? どこの」
「学校の裏の、国道んとこだよ。なにトンネルだか名前はわからんけど」
「あんなとこかよ。遠回りじゃん」
そのトンネルのことは初耳で、その国道じたい、よほど向こうに用事がないと通らないと思うし、じっさい、通ったことはなかった。だいたいうちの高校の裏側の、周りに山しかないようなところだ。わざわざ行く理由がない。
だが、明石の一言で、興味がわいちまった。
「そのトンネルな……出るんだってよ」
黒崎トンネル、っていう名前が、入り口の上にかすれて読めた。着いたのは五時ごろで、辺りは夕闇が垂れ込めて、街灯の光が白くぼうっとトンネルを照らしてる。
周りは四方が山で、ここはいちおう国道らしいが、道路は広くない。向こうの街道を走る車の音が時おり聞こえる。あそこから脇に入ってここまで来るのだが、入ったって街道をまっすぐ行くより遠回りになるだけだし、わざわざ使う意味がないから、車は全然こないし、人も通らない。
俺たちはトンネルの脇にチャリを置くと、そのぽっかりあいた不気味な口を覗いた。両の壁に、横長の電灯が並んで白く照らしているので、中はよく見えた。意外と長い。向こうの青黒い出口が、空の月みたいにまん丸く、虚ろに見えている。
さっそく足を踏み入れる。どれだけ年月が経っているか分からないが、壁は黒々として、天井から滴る水がその冷たそうな肌をぬらし、下の排水口まで流れ落ちている。風はなく、寒くもない。
明石の話では、この壁のどこかに、幽霊の姿が浮き出ている、とのことだった。だが心霊スポットだというのに、気持ち悪い雰囲気とか、まがまがしさとかは、まるで感じない。むしろ外よりあったかくて、心地いいくらいだ。電灯のせいで暗い感じがないのも原因の一つだろう。
「本当にここか、よそと間違えてないか」と聞くと、明石はぎょろ目をさらにぎょろつかせて、「んなこたぁねえ、ネットで見たんだよ」と否定した。声が反響してわんわん鳴ったが、なんも怖くもない。だんだん飽きて帰りたくなった。
だが、半分ほど行ったときだった。
「……おい」
後ろで急に押し殺すように言うので見ると、明石が膨らんだ頬を電灯にテカらせて、壁の一点を見つめている。
俺も見た。
ぎょっとして固まった。
それは、おそらく上から垂れてきた粘液の塊だろうが、色は黄色がかった緑色で、べったりした気味の悪い感じだった。だが、問題はその形だ。
細長くて、上の方にくびれのようなへこみがあり、落花生の殻というか、ひょうたんみたいな形だが、胴体に頭が乗っているようにも見え、しかも、「頭」のところが左側にややかしいでいる。不気味なのは、「胴体」の左側から、細い二本の粘液がにゅっと突き出て、動物が短い手足をそろえて垂らしているように見えることだった。一見して、イタチかなにかのずんぐりした動物を思わせる。大きさは、長さ三十センチはありそうだ。
だが形だけなら、まだなんてことはなかったろう。俺たちを本当にぞっとさせたのは、その頭のところに粘液のない部分が三つあり、それがちょうど、人間の二つの目と口みたいに見えたことだ。
目の部分は丸い穴が二つ並び、その下に口のような横長の切り込みがあって、どれも向こう側の黒い壁面が見えて、まるで見開いた黒目と、おもむろにひらいた口内そのものだった。目の形は周りがひしゃげて、白目もないのに、こっちをにらみつけるような、まがまがしい視線すら感じる。口も、その端がぐにとひん曲がり、悪意を持って嘲笑っているように見える。
そんな短い手足を垂らしたイタチのような形が、凶悪な視線を持ってかしいでいる姿が、水に濡れた壁の上に出来上がっていたんだ。それが今、俺たちの目線のちょい上にある。これが落書きなら、誰かのいたずらだろう、で済むが、これはどう見ても自然の産物だから、よけい気持ち悪かった。
もちろんこんなのは、トンネルの上に溜まった泥や木が腐って入り込んで、上から垂れて溜まったってだけで、偶然できたものに過ぎないと頭では分かっちゃいるが、それでもすごく嫌だった。
こんなもんほっといて、さっさと帰りたい。そう思う前に、明石が背を向けて戻りだしたんで、慌てて追った。てっきり写真でも撮るんじゃないか、それは勘弁してくれ、と思ったが、それはなかった。そうか、こいつも一刻も早く離れたいんだ、と安心した。
ところが、そうじゃなかった。こんなもん、まるで比べ物にならないくらい、もっともっと、死ぬほど恐ろしい悪夢が、俺を待ち受けていたんだ……。
入り口に戻って、あきれた。野郎、怖がるどころか、でかい右目をきらきら輝かせて、興奮してやがる。
「すげえぞ芦沢、あれ、本物だぜ!」
「な、なに言ってんだ、お前。あんなの、自然現象だろ」
「ちがうちがう、これ見ろよ」
奴が差し出すスマホには、「井戸のあるトンネル」の情報が出ていた。
「……壁に霊の姿が浮かび上がるという。また、山を抜いて作ったこのトンネルの上には、小さな公園があり、その真ん中に枯れ井戸がある。トンネルが掘られるまで、使われていたものらしい」
「……だから?」
聞き返すと、明石は鈍いなコノヤロの顔で舌打ちした。
「いいか、このトンネルの上に公園があり、その中に井戸があるんだ」
「それで?」
「それでな、もしあの粘液の真上に井戸がある場合、あれは、その井戸の底から出てきたことになる。つまり、その井戸を調べれば、あの化けもんの正体が分かるかもしれねえ、ってことだ!」
俺はすごく嫌だった。だが、どこかで面白がってもいたのは事実で、結局、押し切られちまった。なんであのとき、明石をぶん殴ってでも引きずって帰らなかったのか。でも、今さら取り返しはつかない……。
トンネルの脇の階段を上がると、確かに小ぢんまりした公園があった。こんなとこ、誰も来るとは思えないのに、草ぼうぼうじゃなくて、ひらけていた。誰か管理してるんだろうか。
井戸は真ん中にぽつんとあった。街灯なんかないが、月明かりが、井戸の四角い形を蒼白く照らしていて、薄気味悪かった。
近寄ると、井戸の上には蓋がしてあって、上にでかい石が乗っている。俺は不安が倍増した。
「おいこれ、ヤバいからふさいであるんじゃないのか? あけたらガスでも出る、とかさ」
「なに言ってんだ。ガスじゃ石ぐらいじゃ済まねえよ、もっと密閉するだろ。
……おい、まあ、待てよ。ここまできてよ、見ないで帰る手はねえだろ? こんな機会、めったにねえんだ、もったいないだろ。二人なら持てるぜ。
ほら、そっちつかんでくれ。大丈夫だって、ちょっと見たら、すぐ帰るから……」
俺はしぶしぶ手伝った。二人だと石はたいして重くなく、コト、と鈍い音を立てて地についた。鉄の蓋は井戸より外に何センチかはみ出して被せてあり、こっちは楽に動かすことができた。
ずらすと黒い隙間があき、穴の半分ほどのところで止め、三日月のいびつな口があいた。覗くと飲まれそうに、まっくろな空間だった。
そのとたん、たちまち鳥肌が立つような不快感に襲われ、奴の脇に逃げて言った。
「は、早くすましちまえよ」
「分かってるって」
奴は用意よく持ってきた懐中電灯で、穴の中を照らした。不快さはますますつのってきた。奴を井戸から引き剥がそうと、手が伸びかけたくらいだ。でも、結局、出来なかった。
明石は穴を覗きながら、ふと何かを見つけた顔をした。
「ん? どうした」
横から声をかけても、奴は固まったまま動かない。と思いきや、いきなりこっちに飛び出して手首をがっと握り、狂ったように走りだしたんで、あせった。
「な、なんだよ、どうしたってんだ?!」
「逃げろ! いいから、逃げろ!」
公園の外に出て、息を切らしてしゃがむんで、俺もしゃがんで顔を見ると、恐怖で別人のように引きつっちまってる。こうこうと照る月明かりを受けて、白塗りみたいに見えたんで、本当にまっ蒼だったんだろう。
あまりのことに、俺も声が震えた。
「ど、どうした明石。なにがあった。なにを見た……?」
「や、やべえよ、絶対、やべえよ……」
いったん言葉を切り、地面をぎょろ目で見つめながら、続けた。
「最初は、やっぱ、なんもねえな、と思ったんだ。井戸の壁についてる、ごつごつした黒い泥の塊ばっか見えたからな。
ところが底に、なんか色のちがうもんがあるんだ。なにかと思って見てると、そいつがいきなり顔を、ひょいっ、てあげたんだ。そいつはまん丸い顔で、丸い目が並んで二つ、その下に横長の口があって、笑ってるように口元が曲がってるんだ。
すぐに分かった。さっき、俺たちが下で見た、壁に張り付いてた、あいつなんだよ! あのイタチ野郎だ! あれは、この井戸とトンネルのあいだを、行ったり来たりしてるんだ。そんなことするなんて、どう考えても、この世のもんじゃないだろ?」
あまりのことに、俺は口がきけなかった。
明石は、また続けた。
「……あ、あいつ、下で見たときと違うとこがあった。目だ。下じゃ、ただ穴があいてただけだが……今ここで見たあれは、どう見ても、人間の目だった。白目に黒い瞳があって、それが二つ並んで、井戸の底から俺をじっと見上げたんだ。
ただ口と違って、目はまるで笑ってなかった。感情なんかないんだ。ただ、口だけがにやにや笑ってるんだ。やばいぜ、ありゃ。どう考えてもやばい。とっとと、こっから逃げねえと――」
そこで奴の言葉は切れた。ぎょろ目が飛び出そうに剥いて、俺を見た。それが生きてる明石の顔を見た最後だった。奴はいきなり地面に顔を叩きつけて後ろにざざーっと下がり、悲鳴をあげ、「たすけてくれえ」と叫びながら、そのまま公園の中に引きずられていった。
あとを追うと、奴の片足からなにか長いものが出て、それが井戸に繋がっていた。あいつが、さっき明石が言った化け物が、井戸から長い手を伸ばして奴を引っ張ってるんだ。俺は捕まえようと走ったが、速すぎて追いつかない。
いや、嘘は言わない。軽蔑してくれ。全力で走ったりしなかった。俺の足は、公園に入るだけで精一杯だった。敵が速かったんじゃない、俺がわざとスピードを落としたんだ! そりゃそうだ、だって俺まで殺されるかもしれないんだぜ?
明石は見る見る井戸に近づき、足から中にずるっと吸い込まれた。「芦沢、たすけてくれえ」って何度も叫びながら、真っ暗な井戸の穴に消えていったんだ……。
俺は落ちそうになりながら階段を下りた。早くチャリで逃げなきゃいけないのに、どうしても俺の足はトンネルのほうを向いた。
気になってしょうがなかった。あれだけ恐怖におののいたのに、いや今だって凍りついてるのに、異常に冷静だった。どうしても、どうしても、見ないではいられなかった。
俺はトンネルに入った。あの粘液を見た、真ん中ぐらいの場所まで行くと、さっきと同じように壁を見上げた。壁面には相変わらず水がたらたら流れて、足元まで落ちている。なにもない。黒ずんだコンクリの壁ばかりが、空みたいに目の前を広がっている。ただ恐怖だけが押し込められて、どこへも行き場のない、閉ざされた空だった。
俺はしばらくじっと見ていた。そのうち、それが天井あたりから現れた。黄色がかった緑色をした気味の悪い粘液。あのかしいだイタチのような形で、両手足をだらんと下げながら、濡れた壁面をずるずる下がってくる。ただ、その目は前に見たのと同じただの穴で、人の目じゃなかった。
そこで逃げ出すべきだった。そもそも、トンネルに戻るべきじゃなかった。だが俺は、何かに導かれるように逃げもせず、ただ食い入るように壁を見つめていた。
なぜなら、天井辺りから、もう一つの何かが、イタチと同じように顔を出して、ずるずると降りてきたんだ。俺の目は釘付けになった。
(やっぱりだ)
(恐れていたとおりになった)
(早く逃げろ……!)
それでも動けない。恐怖に凍りつく俺の前に、二つ目の粘液が下りてきた。それは、どす黒い玉のような塊の真ん中に、赤みがかった黄色いものが乗っていた。右目が左より少しでかく、頬が込みあがった、いかつい顔。鼻も口も平べったくなって、黒い玉に張り付いてはいるが、それは明らかに、変わり果てた明石の顔だった。
粘液と化し、壁をずるずる降りてきた奴の目が、ぎょろりとこっちを向き、口が動かないのに声を発した。地の底からわきあがるような声だった。くぐもってはいるが、間違いなく明石の声だ。
「ア、シ、ザ、ワ……オ、マ、エ……! ニ、ゲ、タ、ナ……! オ、マ、エ、ダ、ケ……ニ、ゲ、タ、ナ……!」
そして口元がかすかに吊り上がって見えた。それはイタチ野郎とまるで同じ、悪意むき出しの笑いだった。
のりこ
一、娘の話
この奇妙で薄気味悪い一連の事件について考察するためには、まず私の娘の体験から始めなくてはならない。
高校二年になる娘――仮にA子とさせていただく――は、その日の学校帰り、西武線○×駅前の○○デパートに寄った。エスカレーターで三階に上がり、お目当ての書店に入る前に、売り場の奥にある女子トイレに行った。中には個室が三つ並んでいて、彼女が使ったのは一番手前だったそうだ。
用を足して、さて出ようと思ったときだった。
いきなり――
コンッ……コンッ……コンッ……
外からドアをノックされた。妙にゆっくりした、力ない叩き方で、妙な違和感がしたそうだ。すぐには出られないんで、とりあえずコンコン、と同じように叩き返した。
だが服を直していると、また――
コンッ……コンッ……コンッ……
またも力ないノック。
あれと思い、叩き返したのに気づかなかったのかと、もう一度、コンコン、とやった。するとまた、向こうから弱弱しく、コンッ……コンッ……とノックがくる。
少しむかついたんで、A子は扉の向こうに向かって、ちょっと荒っぽく、「すいません、入ってるんですけど」と言ってやった。
だが。
それを気にもしないかのように、相手はまた変わらずに、
コンッ……コンッ……コンッ……
それで黙って何もしないでいた。すると十秒くらいの間隔で、ひたすらこの力ないノックを繰り返すだけだった。
コンッ……コンッ……コンッ……
コンッ……コンッ……コンッ……コンッ……コンッ……
最初はむかついたA子も、聞いているうちに気持ち悪くなってきた。これは、かなりおかしい人だ。どうしよう。
といって、このまま待っていてもラチがあかない。もう強引に出ちまおう、と思った。
だがその前に、怖いので、せめて相手がどんな奴かを確認しておきたい。
そこでドアに顔を近づけ、ドアと壁板の細い隙間から外を覗いてみた。すると驚いた。外は上から下までエナメルのような真っ赤な光に満ちていて、それ以外には何も見えないのだ。赤く包装した箱かなんかを抱えてるんだろうか、と思ったが、だとしても、こんなに長いのはおかしい。隙間は、ほとんど床からドアのてっぺんくらいまで、ひたすら赤。
(なんだこれ。なにか立てかけてドアをふさいでる?)(それとも……)
A子は、わけが分からなくなった。
そして、黙っていると、また――
コンッ……コンッ……コンッ……コンッッッ――!
とつぜんノックが大きくなり、(ひっ――!)と身を引いた。
本当に怖くなってきた。
そう思うあいだにも、ゆるやかなノックの音は、ドアの向こうから、彼女を脅すように、延々響き続ける。
A子は恐怖よりむかついてきた。
(きっしょう、なんなんだよ……!)
とうとうヤケクソになった。
(今すぐ、出てやるっ――!)
意を決して立ち上がり、ドアに背を向ける。奥に荷物置き場があるので、少しかがんで、そこに置いてあるカバンへ手を伸ばした。
そのときだった。
(え……?)
ぎょっとして、固まった。
(後ろに――)(誰かいる!)
今かがんでいる自分の背後、ドアと自分の足の間のせまい空間に、確実にべつの誰かの足がある。そして、その上に体があり、それはずっとドアの上の辺りまで伸びて、てっぺんに頭がある。そんな気配がある。間違いない、自分の後ろに、何者かが立っている。
だが、そんなことはありえない。ドアをあけずに、この個室の中へすっと入ってこれるわけがない。そんなことが出来るのは――
(人間でないものだけ……!)
たちまち頭の先までぞっとして、かがんだまま固まってしまった。
だが、さらに恐ろしいことが起きた。
トッ……トッ……トッ……
いきなり背中に、氷のように冷たい感触が。思わず声が漏れそうになるのを必死にこらえた。
(た――)(叩いてる……!)
ドアのときと同じように、そいつは今こっちの背中を、片手でゆっくりと、弱弱しく叩いている。A子は泣きそうになり、その場にしゃがみこんでしまった。だが、そこへ追うように、また背に――
トッ……トッ……トッ……
(ひいいいっ――!)
凍りついたが、相手は外にいたときと同じく、しゃがんだA子の背をノックするのをやめない。おそらく拳でやっているのだが、とても生きているとは思えないほどに、ぶよっとして冷たいので、ぞっとした。
だが恐怖におののきながらも、A子はふと、このままじっと耐えていれば、相手はただ延々とノックするだけで、なにもされずに済むのではないか……と思った。
(そうだ、待っていれば、そのうち終わる)(きっと、すぐに消えてくれるはず……!)
そう信じて、ひたすらそのまま耐え続けた。
と、ノックがぴたりとやんだ。
どうしたのか、と思ったときだった。
(うっ――!)
心臓が止まりかけた。相手の顔が、自分の頭の真後ろにある、確実に。相手もかがみ、間近で自分を、じいっ、と見下ろしている……。
(ひいい! 早く終わって! 終わってええ……!)
あまりのおぞましさに、心で念仏を唱えようとした。
が、そのときだった。
頭のすぐ後ろで、ぽつりと声がした。年配の女性の押し殺したように低い、かすれ声。
「いたね……! のりこ……!」
それは、どこかにやつくような恐ろしい悪意を感じさせた。だが娘の名前はのりこじゃないので、その言っている意味は分からない。
あまりの恐怖に全身が凍りつき、手で必死に押さえる口元から「うっ」と叫びが漏れかかったそのとき――隣室のドアが、ギイとあく音がした。
とたん、背後の気配が消えた。
(そうかあいつ、隣に人が来たから――)(消えたんだ!)
そう思うや、A子はカバンをひったくってドアをあけ、個室からぱっと飛び出した。
しかし、トイレから出る直前だった。そのまま、後ろを見なければよかったのだ。だが背後の気配に気づき、はっと振り向いてしまった。そして彼女の目は、数メートル先にある、その「ありえないもの」を、確実にとらえてしまった。
たった今自分が入っていた、その個室の前には、今までに見たこともないような、すさまじい化け物が立っていた。
人の形はしているが、その全身が無数のイボに覆われた、まっかなゼラチン状の塊で、全体がぶよぶよしている。濡れて光沢するその体は、完全に人間のそれではない。首はなく、頭の形が半円を描いて、その下の両肩のあいだへ、すとんとまっすぐ落ちている。肩からは二対の太い腕が突き出し、腰の下まで、いびつな帯のようにずるりと垂れ下がっている。そして、ぼこぼこの胴体の下、腰の部分からは、二本の太い足が無骨な岩のように出て体を支えている。
頭の部分に顔はなく、ただ無数のイボに覆われたのっぺらぼうで、髪もない。
A子はのちに私に、「ぱっと見、歩行者信号の『止まれ』のマークに似ていた」と言った。しかし、それと違うのは、これは全身がぶよぶよした光沢するゼラチンで、たったいま海からあがったかのように、びしょびしょに濡れていたことだ。どう見てもおぞましい化け物でしかないのに、それは人間の形を忌まわしく模倣しており、そのことが、いっそう不気味さをかもしていた。
その化け物が、いましも自分に向かって近づいてくる気がして、彼女は恐怖の叫びをあげて売り場に飛び出した。何事かとほかの客たちが振り向く中を、そのまま這うように一気に駆け抜け、デパートからうちまで逃げ帰ったのだった。
なお、彼女がトイレのドアの隙間から見たまっかな光は、ドアの前に立っているそいつの皮膚だったらしい。A子は、あんなのが自分のすぐ後ろに立って自分を見下ろしていたのかと思うと、もう生きた心地もしないと、震えながら語った。
彼女は最初、この話をするのをしぶっていたが、それは証拠が全くないからだった。個室で怪物に制服を叩かれたとき、相手があれだけぐじゅぐじゅと湿った膚をしていたにもかかわらず、あとで制服を脱いで見てみると、自分の背には、なんの痕跡も残っていなかったのである。
二、会社員の話
確かに信じがたい話ではあったが、私としては、このまま済ますわけにはいかなかった。娘が下手したら殺されていたかもしれないのだ。何かの勘違いだとか、夢でも見たんだろう、などと言われるかもしれないが、私は話している娘の顔を見て、とりあえず彼女の言っていることに嘘はない、と確信した。
彼女は何かを見たのだ。何を見たにせよ、それだけはゆるぎない事実である。
そこで私は、そのデパートを調査することにした。三階の詰め所へ行き、長期で入っているという若い警備員に娘の体験を包み隠さず話して、何か知っていることがあれば教えて欲しい、と頼んだ。すると彼は、驚きの目はしたものの、この荒唐無稽な話を笑い飛ばすようなことは全くせず、ただソファに深く腰を沈め、深刻そうに眉を寄せて、しばらくうつむいた。そしておもむろに顔を上げると、声を低めて話しだした。
「……実は最近、その女子トイレから、似たようなクレームが何件も出ていたんです。個室に入っていると、外から何度もノックする人がいて、気持ち悪いと。いくらこっちからノックし返しても、何を言っても、相手は無視して、ただコンコンたたき続けるというんです。娘さんの場合と同じですね」
「じゃあ、そいつの姿を見た人はいないんですか?」
「それが、いらしたんです」
なんと、ほかにもその化け物の姿を見た人がいたというのだ。それも、娘が見る一週間ほど前のことだった。
その警備員の話は、こうだ。
その日の夕方、三階の売り場で倒れた若い女性がいて、彼が詰め所まで抱いてきて、ソファに寝かせて介抱した。たんに気絶で大きな怪我はなく、倒れたときに指をちょっとすりむいた程度だった。
彼女はまもなく気がついたが、起きたとたん、目に恐怖の光が走り、身を震わせてしばらく周りを見回した。彼が大丈夫ですよと言うと、その制服姿を見てやや落ち着いたが、彼女はしばらく口ごもって、事情を話さなかった。
よほど怖い思いをしたのだろうと、彼は無理強いはせずに、ここのデパートの管理の行き届いていることなどを話して安心させようと努めた。
そのうち彼女は意を決したように口をひらき、話しだした。紺のタイトスカートと背広で、小さなショルダーバッグを持つ会社員だった。
話を聞き、そのあまりの異様さに、彼はしばし言葉を失った。
その会社員の話だが、個室のドアを何度も叩かれるところに始まり、逃げてトイレを出る間際に振り向いて、そのゼラチン状の化け物を見てしまった――そこまでは、娘とまったく同じである。
だが、その続きがあった。
彼女がトイレの入り口から飛び出し、売り場に入ったと思ったら、そこはどういうわけか、さっき来たときとは、まるで違う場所になっていた。
そこはデパートのホールほど広くはなく、もっとこじんまりしたビルの中のようだったが、周りは赤黒い鉄骨がむき出して壁がなく、各部屋と思しき場所に柱が何本か立っているだけで、外が丸見えだった。しかも時間は夜、骨だけになった天井の隙間から月の光が差し込み、辺りをぼうっと蒼白く照らしている。足元は白いコンクリートで床がなく、砂だらけでざらざらして、うかつに歩くとローファーの靴が滑りそうだった。彼女は明らかに建築途中か、あるいは解体中のビルの上階にいたのである。
なぜ突然こんなところに出たのか、ここはいったいどこなのかと、わけが分からずきょろきょろしていると、背後から何かがやってくるのが見えて、ぎょっとした。周りは薄暗かったが、差し込む月光でそいつがなんなのか、はっきりとわかった。
そいつの肌はぎらぎらと黒光りし、太い両腕を振ることもなくだらりと下げたまま、幽霊のように、ただすうーっとこっちに近づいてくる。さっきの化け物だった。まっかなゼラチンの化け物が、廃墟のビルの中を滑って、自分を追ってきたのである。
彼女は恐怖に飛び上がって走り出したが、砂で何度も転びそうになった。振り向けば怪物は数メートル先にいた。顔も何もない頭の、ぶよぶよした肌がどす黒い血の塊のようで、身の毛もよだつほどにおぞましかった。
捕まったら命はないと確信し、必死に這うように逃げたが、怪物はついにすぐ後ろまで迫った。そして突然、つぶやくような言葉を発した。トイレで聞いたのと同じ、年配の女のかすれ声だった。
「のりこ……きなさい……のりこ……!」
そして、何かが後ろから襟に触った。
(もうだめだ――!)
彼女が絶望の悲鳴をあげたとき、横目がふと黒い空間をとらえた。とっさにそこに飛び込んで短い通路を抜け、周りがぱっと明るくなった。懐かしい三階の書籍コーナーだった。驚く客たちの顔を見るや、そのまま意識がなくなった。
彼女は捕まりかけたときに脇の黒い場所を見て、無意識にそこを知っていることに気づき、死に物狂いでダイブした。そこは彼女が前に一度だけ使ったことのある階段の通路で、三階の売り場に繋がっていた。
三、仮説
私はその後、探偵まで雇ってそのデパートについて詳細に調べあげた。だが調べるほどに、新たな謎が次々に現れ、それらがまた新たな憶測を呼び、ついには手がつけられない状態にまでなった。まるで気味の悪い迷宮にでも入り込んだかのようだった。
それでも私は、なんとか事実をつなぎ合わせ、おぼろげではあるが、一つの仮説を立てることは出来た。
まず、分かったことについて、いくつか述べる。
あのデパートは、西武線○×駅の前に建ってわずか三年にしかならず、そっちの路線を使わない私も、開店当時は新聞広告などで派手な宣伝が打たれ、老若男女入り乱れた客でごった返している様子を、テレビのニュースで見た記憶がある。
で、そのデパートが出来る前なのだが、その同じ場所に一軒の古いアパートがあった。四階建てで、そう大きくはなく、今のデパートの半分以下の敷地しか使っていなかったようだ。一階隅に大家の部屋があり、最後に済んでいた住人の数は全部で三家族と少なく、それが各階にまばらに暮らしていたらしい。
その三階の一番奥の部屋に、高校生の娘とその母親が二人で住んでいた。彼らの現在の消息については、まるで分からない。ほかの二家族と大家についても調べたが、こちらも行方をつかむことがほとんど出来なかった。
ただ、その母娘の下の階に住んでいたある家族のうち、父親についてだけは、かろうじてその居場所が分かった。彼はアパートを越したのち、妻子と別れ、西新宿のはずれにある小さなボロアパートに住んでいた。
私が訪ねると、彼は病床で死の淵をさ迷っていた。肝臓がんの末期を宣告され、自室で介護を受けながらの死を選択したという。その顔も体もやせこけて骨と皮で、しなびた蒼白い肌は、か細い手足にボロ布のように張り付き、目も虚ろで、半ばあいた口から痛々しい過呼吸が静かに続き、この状態では、とてもそのアパートのことなど聞けそうにないと思った。
それで、玄関にいた私が帰ろうと背を向けたとき、彼がとつぜん、途切れ途切れに私の用件を聞いた。私が「あなたが以前住んでいたアパートについて、お聞きしたくて来ました」と言うと、彼は震える手で壁際の机を指し、そのまま目を閉じた。そして二度と目覚めなかった。
私が上がりこんで机の引き出しから一冊のノートを探り出しても、彼の介護人は何も言わず、医師への連絡などの職務に没頭していた。
そのノートは日記帳だった。ひらいて最初のページを見ると、どうも三年以上前からつけているものらしい。今のところ、この事件の手がかりになる資料はこれしかなさそうだが、これを持ち帰るのは窃盗になる。しかし、私にはどうしてもこれが必要だった。そこで未だ忙しく電話している介護人の目を盗んでカバンに入れ、何食わぬ顔でその場を去った。
うちで詳細に読んでみると、この日記は彼が家族であのアパートに越してきた頃から始まり、今から三ヶ月前の日付で終わっていた。この頃には、もう重病で付けられなくなったのだろう。それまではほとんど毎日、律儀に付けていたようである。記述はどれも短く、横線のあいだに作った一日の欄に、一行か二行、多くて三行という、よくある一言日記の類だったので、欠かさず習慣に出来たのかもしれない。
途中、ある記述が私の目を奪った。あのアパートでの最後の日付のようだったが、それはあまりに不可解な内容だった。
以下に、その部分を記す。
「○月○日 いったい、なぜ俺たちがここを出なきゃならないのか。だが上にいるあの母親に、あんなありえない死に方をされちゃ、もうこんなところにはいられない」
日記に「あの母親」という単語が出てくるのは、この部分しかない。なんらかの要因で自分たちが迷惑をこうむったように書いてあるが、その中身に触れたり言及している部分は、その前後にも、日記帳全体の端から端まで探しても、見つからなかった。また異様なことが書いてあるのはこの一文だけで、ほかはどれも「今日は晴れだった」とか「今朝、奥の部屋から田中さんの奥さんが出てきて挨拶した。気持ちのいい人だ」とか、日常で起きた事実をただ簡潔につづっているだけだった。
だがこの日記帳を詳細に読むと、アパートの住民の構成や、彼らの住んでいた部屋の場所はおろか、大家のいた部屋の番号まで分かるので、いま私が抱えている事件の全容をつかむためには、かなり役立った。「○月○日」の日付のあとは、また相変わらず天気の話などが簡潔に続き、一週間後いきなり「引っ越した」とあった。
「上にいるあの母親」は、明らかに三階奥にいた母娘の母親のほうだが、それが「ありえない死に方」をしたとある。この母娘についての記述は、引っ越した当時には何度か出てくるが、特に変わったところはなく、普通に女手で子供を育てるまじめな母親と、高校に通うその娘さんという感じだ。
しかし、この異様な記述が出る一ヶ月前になると、彼らのことはぱたりと出なくなる。彼らだけでなく、ほかの住民や大家などにもいっさい言及しなくなり、内容は「子供の授業参観に行った」などの自分の家族の当たり障りのない話題か、あとは天気のことばかりだ。
またシャーペンで書いている筆跡も、以前は丁寧できれいだったのが、そのひと月のあいだにいきなり崩れだし、「○月○日」の頃には殴り書きに近いものまで見られ、明らかに彼の精神状態の変異が分かる。
「○月○日」の記述自体は逆に相当腰をすえて書いたのか筆圧が濃く、ほかの乱雑な字と比べて不自然なくらい整っており、子供が一生懸命に書いた習字などの角ばった文字を思わせた。
探偵を使った調査では、結局そのアパートから全住民が出て行き、それから一ヶ月もしないうちにアパートが取り壊されたことが分かった。まるでその建物が存在した痕跡すら消し去ろうとするかのように、性急に。
そして数年後、その敷地に今のデパートが建ったのである。
さて、私が知りたい真実を得る手がかりは、やはりこの日記の「○月○日」の部分である。三階奥にいた母親の「ありえない死に方」とは、いったいなんなのか? また、私の娘と会社員が聞いた「のりこ」という言葉の意味は?
残念ながら、日記には母娘のどちらの名前も苗字も出てこないので、私の推論でしかないのだが、これはおそらく娘の名前なのだ。トイレでした声が年配の女性に聞こえたというから、その声の持ち主――すなわち、あの化け物は母親で、彼女は自分の娘である「のりこ」という人物を、探していたのではなかろうか。
ここで、乏しい資料から引き出した、私のほとんど妄想に近い推論をあえてさせてもらうと、事件の全容は、おそらくこういうことになる。
――三年前、現在の○○デパートが建つ前の敷地にあったそのアパートの三階奥に、「のりこ」という名前の女子高生が、母親と二人で暮らしていた。○月○日、その母親がなんらかの原因で「ありえない死に方」をし、全身がいぼだらけでぶよぶよした、まっかなゼラチン状の恐ろしい怪物になってしまった。
怪物はのりこを探しまわったが、彼女は部屋の中の自室かあるいはトイレの中に隠れ、母親がやってきて、そのドアをノックし続けた。その後に何かが起こり、その二人も他の住人も全ていなくなり、大家はアパートを直ちに取り壊して、三年後、その跡地に今のデパートが建った。
母親と、のりこという名の娘が、その後どうなったかは分からない。日記を残して死んだ男性を除き、ほかの関係者の消息は全くつかめなかった。まるで煙のように消えたか、自分がこの世に存在していた証拠を、ご丁寧に残らず消し去って死んだかのようだった。
ただ私には、母親の居場所だけは、おぼろげに分かっている。彼女は今も同じ場所にいて、怪物と化した姿で、ずっと娘を探し続けているのではなかろうか。
私の娘のA子はデパートの三階奥のトイレの個室で化け物に会った。そこが、ちょうどあのアパートの三階奥、すなわち母娘の住んでいた部屋のあった場所だったのではないだろうか。そしてA子が使った個室のところに、ちょうどのりこという娘の部屋か、あるいはトイレがあったのかもしれない。のりこは母親のすさまじい姿におののいてそこにこもり、母親はドアをノックし続けた。その状況が、A子のときに再現されたのではないだろうか。
警備員の話では、ほかにもノックされたという苦情が来ていたとのことなので、私の懸念は確信に近くなっている。母親は、まだそこにいるのだ。建物が変わっても同じ場所をさ迷い、娘の「のりこ」を探し続けているのだ。
のりこだと勘違いされてドアを叩かれ続け、ついに見つかってしまったA子は運よく逃げられたが、もし捕まっていたらいったいどうなったかと思うと、私は背筋が凍りつく思いである。デパート側には霊能者に依頼するなどして早急に調査し、対策を練ってほしい。でなければ、近いうちに必ず犠牲者が出るだろう。
最後に、A子と同じ体験をした会社員の見た廃墟だが、あれはおそらく解体中のアパートの姿だろう。周りがデパートより狭かったという点で、そこがあのアパートだった可能性は高い。
なぜ、そんな過去の場所に移動してしまったのかは分からないが、また私の妄想に近い仮説を立てるならば、彼女にもともと強い霊感のようなものがあり、母親の持っている過去の記憶と強烈にシンクロした結果、タイムスリップのような現象が起きたのかもしれない。あるいは、彼女の体質とは無関係に、母親にあのアパートの廃墟へ人を引き込むなんらかの力があり、それを使って彼女を過去の世界へと引きずり込んだのかもしれない。
どのみち、彼女もA子と同じく、偶然現在につながる通路のようなものを発見できたので逃げられたが、そうでなければ怪物の餌食になるか、さもなければ、外部からの侵入者として、その不可解な場所を、永遠にさ迷うことになったかもしれない。
四、結語
これらはあくまで私の立てた勝手な仮説でしかなく、真相は藪の中である。いまや関係者全員の消息が不明であるのみならず、ろくに交流がなかったせいか、アパートの近隣住民の証言も、「一度挨拶に来たが、礼儀正しい人だった」など、その印象にとどまるだけの当たり障りのないものばかりで、手がかりにはほど遠い。
だが一つだけ、気になるものがあった。
アパートの向かいの一戸建てに住んでいた老人が、一度だけ、夜中にアパートの方から、ゴオーッという、なにか重い金属を引きずるような奇怪な響きを聞いたことがあるという。彼はその日が誕生日で、家に来た孫たちにお祝いされたので、日付を覚えていた。それは、あの○月○日の日記がつけられるちょうど一週間前だった。
むろん、これだけでは何も詳しいことは分からず、かえって謎が深まっただけだ。この重い金属音が、母親の豹変と何か関係している可能性はあるが、なんせこの辺り一帯は時おり聞こえてくる駅の喧騒を除けば普段から静かで、その時期に誰かの悲鳴はおろか、なんらかの騒ぎも聞こえたことはなく、不審な音がしたという証言は、これくらいしかない。
金属音として考えられるのは列車の音だが、老人は完全に否定している。そもそも運行はとうに終わっている時間で、しかも線路はアパートの向かいにあり、彼の家のちょうど反対側を走っている。また、あの響きは車の音でもないし、何かの工事の音ともちがう。なにか聞いていて不安を掻き立てる、深い山の奥から響いてくる未知の生物の吠え声のような、非常に気味悪いものだった、と彼は言っている。
日記には、誰かが「ありえない死に方」をした、と書いてあるが、誰かが死んだにしては当時なんの騒ぎもなく、また葬式が出たのを見たという証言もない。誰かが死に、その処理が行われたらしいことは日記から推測できるが、全てが密かに、無音のうちに進められたのだろうか? どうにも不透明で嫌な感じだ。
とにかく、はっきり分かっているのは、このまま放置しておくことは、絶対に危険だという事実である。後日、またデパートへ行って、あの警備員にも証言してもらい、店舗側に調査を勧めてみるつもりだ。もし笑い飛ばされでもしたら、私が勝手に霊能者に依頼して調べることまで考えている。本当に犠牲者が出てからでは遅いからだ。
娘のA子は、あのデパートには二度と近寄らないと言っている。その気持ちは私にも分かる。初めて足を踏み入れたとき、店内に何かが足元からざわざわと這い上がってくるような不穏な空気を感じ、背筋がぞっとした。幽霊など見たことも感じたこともない俗物の私でさえ、これである。あそこには確実に何かがいるのだ。
そうだ、あの怪物は今もいる。三階奥のトイレの中を、まっかないぼいぼ、ぶよぶよの見るもおぞましい姿で自分の娘を探して徘徊し、人が入った個室のドアを、ぐちゃぐちゃにとろけた手で、力なくゆっくりとノックし続けている。そして、もし見つかったら、おそらくあの世のような不浄の場所へ連れて行かれるのだ。
娘は助かったが、次にドアを叩かれるのは、あなたかもしれない。
泣く女
一
私は東京郊外の大学から歩いて十五分ほどの場所にある、この小さなアパートの一室を借りている。入学時にここに入ってもう二年になるが、薄くて明るい新緑の葉を豊かにまとう街路樹の並ぶ石レンガの小道を、二階の窓から望む四室しかないこのアパートには、私のほかは隣に一人暮らしのお婆さん、それに一階に若い夫婦が入っているきりだった。
私はちょうどその上の階にいたが、もしほかの入居者が気の合う学生ばかりなら、さぞ楽しかったろう。しかし、格安の家賃に釣られてここを選んだので、仕方のないことだった。寮は人間関係がウザくて嫌だし、あとは学生の多いマンションが学校のすぐ前にあるが、実家からの仕送りの少ない私の入れるところではなかった。
といって、入居者の夫婦に別段悪いところはないし、私も入るとき大家に注意されたとおり、友達を連れ込んで騒ぐようなことはしなかったから、近隣の付き合いは、わりあい上手くやっていたんじゃないかと思う。今年の春は二年生に無事上がり、私の学生生活は万事が平穏だった。
あの晩、部屋であれが起きるまでは。
その日はサークルもバイトもなく、夕方に授業が終わると、そのまままっすぐ帰ってきた。先週末はコンパで大騒ぎして(うちのサークルは女性部員がおらず男子校状態なので、店の個室で騒ぎ放題だった)、けっこう疲れたので、月曜からはまじめで地味な生活を堪能していた。こういうダレた日々は、会社員になったらもう送れまい。
私は風呂から出ると冷蔵庫からビールを出して、部屋の真ん中のガラスの小テーブルにトンと置くと、その前に腰をおろした。いま座っている私の向かいに窓があり、春とはいえまだ風が冷たいので、閉めて濃い紺のカーテンを引いている。右の壁には、大判のカレンダーがまっすぐに下がっている。四方の壁には、それ以外には何もない。殺風景な四畳半の部屋である。これといって好きなアイドルとかもいないので、ポスターの類はない。
カレンダーも、正月に実家に帰ったときに、父が会社で余っている奴だから持っていけと言うので、もらってきたやつだ。上半分に一月なら雪山、夏なら山のみずみずしい渓流などの四季の写真がいっぱいに広がり、下半分は太字で書かれた日付と曜日がびっしり並んでいる。まあ、特になんでもない、ふつうのカレンダーだ。
今は四月なので、まばゆいばかりに爆発したピンクの桜である。ただのカレンダーとはいえ、さすがにこれだけきれいだと、目の保養になる。
私はビールをぐいとあけると服を着て、コンビニ弁当をレンジで温めて食べた。部屋にテレビはなく、娯楽はノートパソコンで動画を見るだけで事足りた。天気もニュースもみんなネットで見るから問題ない。ただサークルでのテレビ番組の話題に付いていけないので、安いのを買いたいのだが、なんせ貧乏学生だから、なかなか手を出す気になれない。
夕飯を終えて一服し、ノーパソでもあけようかと腰を上げかけたときだった。私はすぐにまた腰をおろし、右の壁を見た。
(……声がする)
「ううう、ううう、うう……」
女のおえつだ。糸のようにか細い、上ずった女の泣き声が、途切れそうに弱弱しく続いている。くぐもって聞こえるので、どうも隣の部屋で泣いているらしい。声の高さと艶からして、隣のお婆さんとは思えない。
しかし、若い女なんて隣にいたろうか。孫かなんかが来ているのかもしれない。こんなにか細いのに、こもっているだけでこうもよく聞こえるということは、おそらく向こう側でこっちを向いて、壁に額でもくっ付けて泣いているのだろう。
だが、どうにも尋常ではない雰囲気で、心配になった。お婆さんの身に不幸でも起きたのだろうか。
そんなに会話したことはないが、たまに作りすぎたと言って鍋ものを持ってきてくれて、夕飯が助かったことはある。笑うと目じりに優しいしわが寄る気さくなお婆さんで、子供の頃、まだ存命だった実家の祖母を思い出す。
何かあったとしたら気の毒だ。しかし、といって隣のドアを叩いて事情を聞くのも変すぎる。別に親しいわけでもないし。
仕方なく畳に座ったまま、いつまでも隣から重苦しく響く悲痛なおえつを聞いていた。
そのうち、妙なことに気づいた。声が聞こえだしてから、もう数分は経っているのだが、泣き声いがいの言葉を何一つ発しないのだ。
べそをかく場合、ふつうなら、泣きながら「ちくしょう、なんで自分がこんな目に」とか「もういやだ」みたいに、なにか不平や文句の一つは出ると思うのだが、今のこれは、ただ「うう、うう」と延々うめくようにすすり泣くばかりで、愚痴の一つもこぼさない。言葉を発しないのだ。
いや、もしかしたら自分の勘違いで、実はたんにこっちの壁に背をつけたテレビの声が聞こえているだけかもしれない、とも思った。しかし、こうも泣き声ばかりを繰り返し流す番組なんてあるだろうか?
それとも、なにかわけでもあって、ラジカセなんかで女の泣く声を何度もループさせているのか。たとえば演劇の練習のためとか。
しかしよくよく聞いてみると、その声には生々しい肉感と色つやがあり、とてもスピーカーから出ている音声には思えない。それに単調な繰り返しではなく、時々途切れたり、わずかに強弱が変わったりする。これはやはり、生身の女がこっちに向かっていま現実に泣いている声だ。
それにしても、終わらない。聞いているうちに、だんだん気味悪くなってきた。女の泣く声なんてただでさえ陰気なのに、こうも続けられると、なんだかぞっとしてくる。
(まさかこいつ、俺が隣にいるのを知ってて……)
(脅かそうとして、わざとやってるんじゃないだろうな……)
そんなアホらしい被害妄想すらわいてきた。
どうにも嫌だ。
そうだ、あと五分して終わらなかったら、隣へ行ってチャイムを鳴らそう。知り合いでもない男が若い女を訪ねるからって、別に変な意味じゃなし、隣から妙な声が続けば、どうしたのかと心配するのは自然なことだ。
そうだ、そうしよう。
そう思うと、すぐに気持ちが収まった。テーブルに置いてある小型の時計を見て、八時になったら行こうと決めた。決めてしまうと、逆にやる気になって落ち着いてくる。それどころか、妙な興奮すらおきる。
知らない人を訪ねるなんて何年ぶりのことだろう。それも若い女だ。女と聞けば男は誰でも自分の理想の顔が浮かぶが、自分もそうだった。
そういう子供のようなわくわくを抱えて、しばらく座って耳を傾けていた。
ところが、そのいったん持ち上がった気持ちは、いきなり急速にしぼんでしまった。聞いていて、またおかしいことに気づいたのだ。
声が大きすぎる。
いくらすぐ隣の部屋で壁にくっ付いてやっているからって、こんなによく聞こえるのは、おかしくないか?
壁が薄いといっても、板一枚じゃあるまいし、コンクリで、ある程度の厚みがあるはずだ。確かに女の声は高いからよく通るが、ここまではっきりした聞こえ方はおかしい。
不審に思って壁を見ていると――
急に、嫌な考えが起きた。
(これ、隣じゃなくて――)
(こっちから、してないか……?)
くぐもっているから、てっきり隣室で泣いているとばかり思っていたが、どうもそうではなく、この部屋の中で声が響いている気がする。あまりにもバカバカしいことだが、そのときは、その考えがたちまち頭を席巻してしまった。
この部屋に誰も入れた覚えはないから、自分しかいないはず。
(だがもし――)
(本当はそうでない、としたら――?)
壁を見ながら立ち上がると、思わず身を引いた。そこには、そう、あのカレンダーが下がっているのである。そして女の泣き声は、ちょうどその向こう側から、いっそう大きく悲しげに聞こえてくる……。
(まさか……!)
(いや、そんなはずは……)
躊躇したが、結局はゆっくりと手を伸ばし、まず上の一枚目のすそをつかんだ。四月の桜の爆発が、不意に肉体が破裂しているように見えてきて嫌だったが、思い切って、一気に音を立ててめくった。
――ばっ!
ぎょっとした。
声が少し大きくなったのだ。
(そんなバカな……!)
(ありえない……!)
あせり、左手で四月の紙を上げたまま、今度は右手で次の五月のすそをつかみ、まためくった。
――ばっ!
泣き声はいっそう大きく悲しげに、しかも、さっきよりクリアに聞こえてきた。
これで私は確信した。
この女は、隣の部屋にいるのではない。
この部屋の中。
それも、このカレンダーの、「後ろにいる」のである……!!
声がこもっているのは、この何枚も重なった紙の向こうで泣いているからだ。横三十センチ、縦五十センチ四方という大きさで、厚みなどない場所に、身を隠して延々泣きじゃくる。そんなことが出来る人間など、この世にはいない。
ということは――
これは、この世のものではない、ということだ。
人間ではないのだ。
背筋が、いっぺんにぞーっとした。
が、今さらやめられない。
私は四、五月ぶんを左で持ち、震える右手で次の六月をつかむと、今度は、ゆっくりとめくった。
ふわり……。
めくれるうちに、女の声はわっと一回り大きく、さらにはっきりと聞こえた。
「ううう、うううううっ……!!」
不気味なおえつに肌がざわざわとあわ立った。
すぐ目の前に、そいつがいる。確実にいる。気配がある。
ここで放り出して逃げればよかったのだ。
だが恐れながらも私は、これを突き止めたい、という衝動が勝ってしまった。
さらに七、八、九月とめくると、声はもはやこもらず、しかもめくるたびに紙面が、わずかにぶるぶると振動する。
だが、私を決定的に凍りつかせたことが、ほかにあった。
今まで、ずっと泣き声だと思っていたのだが、間近ではっきり聞こえてくると――。
それが実は、「笑い」であると気づいたのである。
つまり、「うう、うう」と悲しげにすすり泣く、か弱いおえつではなく――
「うふふふ、んふふふ」という、相手を上から見下すような、悪意に引きつったあざけりだったのである。まるで泣きまねで私をだまして近寄らせ、まんまと罠にかけたことを、ほくそ笑んでいるかのようだ。
恐怖に足がすくみ、心臓がばくばくした。
だが、もうここでやめるわけにはいかない。
十、十一月とめくると、最後の紙面は、あざけりにつれて、ぶるっ、ぶるぶるっ、と不気味に震えた。だがそれ以外は、誰かが向こうに隠れているというのに、紙面にはなんの膨らみもなく、壁にそってつるりとまっすぐに下がったままだ。壁との間は数ミリもないのに、である。
それでも明らかに誰かいる。
そこに誰かがいて、悪意丸出しの笑いを、こっちへ向かって放ち続けている。
ついに最後の一枚、十二月のすそをつかんだ。
いったん躊躇したが、「ええい、ままよ!」と一気にめくった。
目が飛び出そうに見開いた。
そこには紙の白くて広い裏面いっぱいに、ぺらぺらに薄い女がいた。逆さまに張り付いて、長い黒髪をだらりとたらし、恨めしい上目づかいで私を見上げ、耳まで裂けるほどにかっとひらいた口で、ゲラゲラとけたたましく笑っているのである!
絶叫して玄関に走り、かろうじてサンダルだけ突っかけて外に飛び出した。気味の悪い蒼い月明かりの中、大学近くのマンションにいる友人のところに駆け込み、その日は泊めてもらった。
xxxxx
二度と帰りたくなかったが、友人が付いてきてくれたので、翌日の昼過ぎになってアパートに戻った。
部屋は窓のカーテンのかすかな日こぼれ以外は、なにも変わっておらず、恐る恐る調べたカレンダーには何もなかった。どこにも人のいた痕跡はなく、隣からもなんの音もしないのでひと安心したが、もうこんなところにはいられないので、直ちに引っ越すことにした。
大家に女のことは話さなかったが、突然の家庭の事情だと言うと、あまりに早急な立ち退きにもかかわらず承諾してくれた。
二
背に腹は換えられず、大学の寮に入った。隣の部屋のHと親しくなったが、彼はオカルトや心霊ものが好きで、私がつい口を滑らしたこの話に、格別な興味を持ってしまった。
しかも悪いことに、二年に上がるのを機に寮を出てどこかアパートにでも入ろうと探していた最中で、私が「死んでもやめろ」と言うのも聞かず、すっかりそのカレンダー女の虜にでもなったかのように、翌週にはもう、あのアパートの、私のいた三階二○二号室に入っていた。
すっかりむかついた私は、「もう知らん、逃げ帰ってきたって、絶対部屋に入れてやらんわ」というつもりでいた。
ところが、何日しても何事も起きない。それどころか数週間後には、「せっかく入ったのに、いくら待っても幽霊どころか、不審な物音の一つしないぞ」と愚痴まで言われて閉口した。壁から天井から、床からトイレから、部屋中のどこからも、なんの泣き声も笑いもしないという。
あのカレンダーは、そのまま壁に下げられているそうだが、定期的に全部めくったりして調べても、何かがいたような痕跡一つない、とのことだった。
文句を言われても私のせいじゃなし、げんなりはしたものの、幾分ほっともした。
おそらくHには霊感のようなものが皆無で、「これまでも霊の類を見たことはおろか感じたこともない、いっぺんこの目で見てみたいもんだ」としょっちゅう言っていたから、たとえ部屋にあの女がいても、その存在を感じ取らないのだろう。
よくアパートなどで、自殺があったとかのいわくつきの部屋があって、入った人はみんなその自殺者の霊を見てすぐ出て行くのに、たまに全然気にせず何年も平気で住む人がいる。もともと霊が見えない、感じないという体質なのだ。
Hもたぶんそうなので、なら、このまま卒業まで住み続けても大丈夫だろう、と安心した。
ひと月もするとHも不平を言わなくなり、元は寮で隣だったぐらいのつながりしかなかったので、電話もかかってこなくなった。私はあの部屋のことが多少は気になっていたが、外は桜がとうに散って青葉の茂る頃になり、今さら真相を確かめようという気は起きなかった。
あのときは、もう一刻も早く離れたかったため、大家に女のことを話すこともせずにアパートを出てしまったが、もうそれでいいと思った。大学にいるときにふっと思い出しても、またあれに関わると思うと、たちまち首筋までまっさおになるほど動揺する。
それほどに、あの女の引きつった顔、うらめしい上目、気味の悪いあざけり声、そして厚みのない体、それらの全てが悪夢のようにおぞましかった。もう二度と、あんなのはごめんだ。
そう思い、あの体験のいっさいを忘れることにした。
ところが、ある日の夕方。またサークルもバイトもなく、まっすぐ寮に帰り、部屋に入った直後のことだった。
スマホが鳴り、名前を見るとHだった。出て「どうした」と聞いてみると、なにも言わない。
「おい、どうした」
また聞くと、不意にそれが聞こえてきて、全身が凍りついた。
「……うふふふ、うふふふ、んふふふ……」
あの懐かしくもおぞましい、女の悪意に満ちたあざけり声だった。あれを忘れようはずがない。
思わずスマホを落として身を引いた。だがあの女の笑いは、床に横たわるスマホのスピーカーから、稲妻のようにけたたましく響き続けている。私は恐ろしさをこらえて必死に右手を伸ばし、脇のスイッチを切ると、声はやんだ。
混乱が収まると気づいた。
(これは、やはりそうか)
(とうとう奴が、Hの部屋に現れたのだ……!)
いや、Hが気にしなかっただけなら、今までもずっと目の前にいたはずだ。なのに、どうして今頃こんなことが起きたのか? まさかHが私を脅かそうとして、わざわざ女の声を聞かせたのか?
着信を見ると、今の電話は確かにHからだ。
何もかも不可解だったが、といってあのアパートへ行って確かめる勇気もなかった。
しかし、彼に真相を聞く機会は、唐突に失われた。翌朝のテレビのニュースで、Hがあの三階の部屋の窓から飛び出し、外の駐車場の路面に叩きつけられて死んだと報じられたのである。その時刻は、まさに昨日の夕方、私がスマホから女の声を聞いた直後だった。
彼の名前は出なかったが、アパートのある区名と部屋番は出たし、部屋の中を調べる捜査員の姿が映され、壁のカレンダーまでがテレビの画面を横切った。そこは明らかに私の住んでいた、あの二○二号室だった。
後日、Hの実家の電話番号を調べてかけてみると、死んだのは間違いなく彼だと分かった。あまりに突発的で動機もなにもないため、最初警察は殺人の線で調べたらしいが、侵入者の形跡もなく、結局は自殺ということで片付けられたらしい。
だが私は、彼を殺した奴が誰だか、おぼろげに分かっていた。
しかし、だからといって、いったいこの私に何が出来るというのか。相手はこの世のものではないのだ。ぺらぺらで厚みのない、カレンダーと壁の隙間に入るような、化け物の女なのだ。
そうだ、こんな場所にいたら俺も殺される。一刻も早く逃げなくては……!
とりあえず、また電話が来たら嫌なので、ショップに行ってスマホを買い換えた。電話にHの住所と履歴がなければ、あの化け物との忌まわしい縁を断ち切れるだろう。
ところが数日後、ショップから電話がかかってきた。私を担当した店員からで、最初は何かしどろもどろで、言いにくそうに言葉をにごすので、私はイライラしてつい大声で「つまり、どうしたんですか?!」と言った。
すると彼は、重苦しく、かすかに震えた声で、やっとこう言った。
「いえ、実はですね……お預かりした機種のことなんですが。
店の棚の上で、いきなり電源が入って、女性の、なにか上ずったような笑い声が聞こえてきたんです。電源を切っても声が止まらないんで、さすがにみんな気味悪くなりまして。
中を調べようということになって、私がドライバーで電池パックのフタをあけたんです。そしたら、あけたとたん、びっくりして床に落としちゃいました。ええ、スマホを、です。
なぜかと言いますとね。その声がですね。いきなり笑い声が、わっ、と大きくなったんですよ。まるで、中に小さい女性でも入っているみたいにね……」
新人賞の選評
一、良子
○○新人小説大賞のサイトからメールが来ました。ずっとライトノベルの賞に送ってきたので、今回のような文学系雑誌への応募は初めてで、変に緊張します。
ここもラノベの賞と同じく、一次、二次、三次の選考を経て数本の最終候補作が選ばれ、そこから受賞作が決まります。ラノベのときは男性同士の恋愛を描くボーイズラブと言われるジャンルが専門で、ネットで発表するとわりと受けましたが、雑誌への投稿の結果は、良くて一次通過の二次止まりでした。
今回は男女の恋愛もので、クリスマスイブを迎えての心のすれ違いを描いた大人っぽいものです。キャラや内容がマンガっぽくなく、紙面もセリフが少なく地の文で埋まっていて、わりと一般向けかなと思ったので、一般の賞に応募したわけです。
この○○新人小説大賞では、一次選考通過者全員に丁寧な選評が送られてきます。またも二次落ちでしたが、たんに自分の新境地を開く力試しというかチャレンジだったので、そう落ち込んだりしませんでした。
ところが、出版社のサイトから送られてきたメールを読んで、私は一気に固まりました。酷評だったわけではありません。いえ酷評には違いなかったのですが、その中身があまりにも不可解だったからです。
ちょっと、そのメールの中身をここにさらしておきます。
「作品の題名『新人賞の選評』
評価 C
選評 新人作家志望の女性を主人公にするパターンはあまりないので評価できる。が、作品を書いている描写が延々と続くだけの内容は全体に冗長で、それを補うための描写力も弱い。そして、ラストが唐突すぎて説得力が薄い」
まず、新人作家志望の女性など、主人公にした覚えはありません。前述したように、私が書いたのは男女の恋愛もので、女性は作家志望ではありません。また「作品を書いている描写が延々と続く」とありますが、これも述べたようにクリスマスイブを舞台にイチャイチャとケンカを交互に繰り返す展開で、いくら文学系の雑誌に送るからといって、そんな純文的な地味な話にはしていません。だいいち、そんな単調な内容で読ませるほどの描写力は、私にはありません。メールでは、その部分は向こうも分かっているようですが。
しかし、それだけならまだいいのです。
問題は、この「唐突なラスト」という奴です。このメールでは、私の送ったその「新人賞の選評」という作品(これも全然、題名が違います)のラストは、なんとこうでした。
「……ラストが唐突すぎて説得力が薄い。主人公が、いきなり殺人鬼に刺殺されるというのに、そのことにはなんの脈絡もなく、しかもなんの説明もないままで、ぶつっと終わってしまう。読者に対して、たいへん不親切である」
主人公が殺人鬼に刺殺されるなんて、そんなホラーみたいな話を書いた覚えはありません。これは、明らかにあっちが作品を間違えたのです。別の誰かの作品に対する論評を私に送ってしまった、としか思えません。
しかし、作品には名前も住所もしっかり書かれているので、作品と作者とは絶対一致するはずです。それを間違う、なんてあるんでしょうか。もしかしたら、誰かの手の込んだいたずらでしょうか。
メールを読んで、一気に不愉快になって落ち込みました。こんなことが起きるような出版社では、もう関わるのはやめたほうがよさそうです。
さらに嫌な感じがしたのは、ラストの殺される場面の状況なんです。続きにはこうあります。
「……読者に対してたいへん不親切である。主人公が自分の部屋で書きものをしていたら、知らない間に家に侵入して潜んでいた殺人鬼に、いきなり後ろから刺殺される。このようなオチにする必要があったかどうか、もう一度、よく考えてみてください」
このメールの内容で嫌なのは、この「新人賞の選評」なる作品の主人公の境遇が、かなり今の私と重なっているところです。「新人作家志望の女性」とは、まさに私のことですし、今もメールどおりに「自分の部屋で書きものを」しています。もちろん、自分のブログにアップするためです。ブログやっててこんなことが起きたら、ネタにしないほうがどうかしてます。
しかし、なにか気持ち悪いです。アパートの一人暮らしだし、鍵はかけてるから誰も入ってこないとは思いますが、それでも、凄く気になります。
バカバカしい、なんでこんな気持ちにならなければならないのか。
だんだんムカついてきました。
悪いのは全部向こうなのに。
これを書いたら、彼に会おうと思います。たとえ夜中でも、こんなときには絶対来てくれる人です。
今、後ろでカタッと音がして、びくっとしました。もういや、一刻も早く会いたい。彼の声が聞きたい。なんでもないに決まってるけど、確認したら、ソッコー彼に電話しよう。
ちょっと待っててね、すぐ戻るから。
二、幹也
○○新人小説大賞のサイトからメールが来た。ずっとライトノベルの賞に送ってきたので、今回のような文学系雑誌への応募は初めてで、変に緊張する。
そして今、俺はあることでとんでもなく落ち込んでいる。恋人の良子が、一週間前に殺されたばかりなのだ。犯人は分かっていない。部屋に侵入して潜んでいて、背後からナイフで襲って滅多切りにしたというが、侵入の形跡がないらしい。
密室殺人の類は小説で何度も読んだが、まさかそれの関係者に自分がなるとは夢にも思わなかった。電話しても出ないのでおかしいと思っていたら、ニュースに彼女の顔が出ていた。俺も関係者だからいちおう疑われたが、そのときはショックでまともに話すこともできなかった。
なぜ良子が殺されなきゃならないんだ。絶対に犯人を挙げてもらいたい。でなきゃ彼女が報われない。大学のオタク系サークルで知り合い、一緒に作家になろうと、共に励ましあってきた仲だった。そのうちにお互いに恋に落ちた。
神は、いったいなんてことをしてくれるんだ。このことを小説に書けとでも言うのか。そんな運命を人に押し付けるなんて、そんなのは神じゃない、悪魔だ。
俺は彼女が死んでから今日まで何をする気も起きず、ろくに飯も食わずに、ただ部屋でぼうっとしている。そんな折、出版社からメールが届いた。
この○○新人小説大賞では、一次選考通過者全員に丁寧な選評が送られてくる。つまり俺は二次落ちだったわけだ。良子も今回応募したが、二次で落ちたと言っていたから、そろそろ同じように選評が来ているはずだ。
ずっと小説のことは忘れていたが、今はメールのチェックぐらいはできるほどには回復している。
ところが、その内容がかなり異様だった。ここにちょっと、それをコピペしておく。
「作品の題名『新人賞の選評』
評価 C
選評 新人作家志望の男性を主人公にするパターンはあまりないので評価できる。が、作品を書いている描写が延々と続くだけの内容は全体に冗長で、それを補うための描写力も弱い。
しかし問題はラストだ。同じく作家志望者の恋人がいきなり殺人鬼に殺され、そのすぐあとに、男性も部屋で執筆中に後ろからナイフで同じように刺されて死ぬ、というのは、あまりに唐突すぎて説得力が薄い。もう少し全体のバランス、展開の必然性を考慮することが必要である」
読んで俺の目が点になったのも無理はなかった。そこで選評されていたのは、俺が出版社のサイトにメール投稿した作品とは、まるで違うものだったからだ。
俺が送ったのは、こんな純文学をオチだけホラーにしたようなアバンギャルドなもんじゃなく、大学のバレー部を舞台にした分かりやすいスポ根青春ものだし、それに主役もバレー部員で、こんなまるで自分をモデルにしたような作家志望者じゃない。そもそも、「新人賞の選評」なんていうぶっきらぼうな題名じゃない。
おかげでダメージを受けてふさいでいた心が、ノミでこじるように無理やりひらかれて、いっとき人間的感情が戻ってしまった。
なんだこりゃ。
向こうが作品を間違えたのか?
しかし、メールに添付して送ったんだから、作者名と作品名は一致しているはずだ。誰かの嫌がらせだろうか。
それだけでも不可解だったが、さらに不快な要素があった。
選評での「作家志望者の恋人がいきなり殺人鬼に殺され、そのすぐあとに男性も部屋で執筆中に後ろからナイフで同じように刺されて死ぬ」という部分は、偶然にしてはあまりにも今の俺の状況と似すぎている。今の俺は、まさに恋人を殺され、そのあと部屋でパソコンに向かい、このブログ記事を書いている最中だからだ。
まさかそんなことはあるまいと思ったが、不意に背後の廊下から物音がして、思わず振り返った。鍵はかけたし、このアパートの一室には俺のほかに誰もいないはずだ。
いや待て。この状態は、良子のときとまるで同じじゃないのか。今さら背筋がぞっとした。
いや、そんなバカなことがあるはずもない。きっと最近のストレスのせいで、気になっているだけだ。気が弱いときは、こんなしょうもないことでも重大事に思えてくる。くだらないことだ。
確かに良子は密室で殺され、そのあと、彼女が殺されたことと、その次に今度は俺の身に同じことが起こると書いたメールがたった今来て、それで後ろで物音が――。
はっとした。
もしや、良子も同じ内容のメールをもらったんじゃなかろうか。書いた覚えもない小説、「新人賞の選評」みたいな題の選評が来て、そこには彼女の日常を描いたストーリーと自分が殺されるラストのことが書かれ、それを読んだあとで、彼女は――。
まさか。そんなバカな。ありえない。
相手が殺される内容の偽の選評をわざわざ作って送り、そのあとで本当にそいつを殺す。誰がそんな、わけのわからないことをするだろうか。
いったい、良子は最後に何かを読んだのか。それを知りたい。
そうだ、それさえわか
(あとがき)
いかがでしたか、平山特製の新作怪談は。楽しんでいただければ幸いです。
ところでこの作品には、実は最近起きたある悲惨なことが関わっておりまして、そのことを思うと、私は今も気が沈んでしまいます。私の学生時代からの友人が、深夜部屋に潜んでいた殺人鬼にナイフで刺殺されるという、痛ましい事件が起きたのです。
彼は学生時代から私と共に作家を目指して日々執筆にいそしんできた気のいい男で、そんな彼の命を奪った犯人に対し、私は身の震えるような怒りを隠せません。しかも、彼と同じく作家志望だった彼の恋人の女性も、その前に殺されていたと分かり、犯人の執念、その異常性がますます疑われます。警察は怨恨の線で捜査しているようですが、一日も早く犯人があがることを切に願っています。
警察によると、彼はワープロを打っているときに後ろからナイフで滅多刺しにされ、書いていた文章が途中で終わっていたそうです。
それが彼の残した最後の原稿になってしまいました。文章を仕上げる前にそれを永久に取り上げられるなんて、作家志望者に対し、あまりにもむごい仕打ちではありませんか。
ところで、このことに関連して、最近、また妙なことがありました。
この作品の原稿を出版社にメールで送ったところ、折り返しで編集部から予期せぬ異様な返事が来たのです。本来はそれがいかに面白かろうが、向こうの恥になるようなことは内緒にしておくのが紳士の態度でしょうが、私は柄も意地も悪いので、ここにさらしておきます。
「……平山先生の新作原稿『新人賞の選評』ですが、そのことについて、編集部でちょっとした議論になりました。
率直に申しまして、今回の作品はわたくしどもの理解を超えております。作家志望者の女性が、送られてきた新人賞の選評を読むと、それが全く書いた覚えのない違う作品の選評で、しかもその作品の内容というのが、殺人鬼に自分が殺されるというもので、読み終えた直後に、いきなり自分がその内容どおりに殺される……というアイディアはいいのですが、問題はその次です。
彼女の恋人が出てきて、彼も同じ作家志望で、同じように身に覚えのない作品の選評を読まされてから、同じように殺される、という……。
いえ、そういうオチだと言いたいのは分かりますが、最後がワープロの打ちかけで終わっていて、つまりは『打っている最中に後ろから刺されたんですよ』という意味なんだと思います(ちがっていたらすみません)。
だとすると、それがあまりに読者に伝わりにくく、いっけん、ただの印刷ミスのような事故に見えてしまっています」
これを読み、私があまりのことにしばし、あ然となったことは、まあ当然ですよね。読者の皆さんは、すでにこの作品をお読みになってよくご存知のように、これはまず題名が「新人賞の選評」などではないし、内容も周知のごとく、幽霊屋敷の調査におもむいた男女のグループの体験する恐怖を描いたものですから、小説だの選評だのは全く出てきません。だいいち、これは人間の殺人鬼が襲ってくる話ではなく、襲うのは屋敷に棲みついている悪霊です。
どうも編集部の誰かが、他人の原稿と私のを間違えたようですが、それにしては、作者名と題名は同じ原稿の中で一致しているはずなのに、どうして間違えることが出来たのでしょう?
もしかしたら誰かの悪意ある陰謀でしょうか。そのへんを突き止めないと、この先この出版社と付き合うのが、とても不安です。
もういい加減、自分の健康のためにもやめたいのですが、このメールには、ある意味一番面白い部分がありますので、そこだけ引用しておきます。
最後のところです。
「……ただの尻切れに見えてしまっています。
そして、ラストの部分です。メタフィクションとしての効果を狙ってのことだと思いますが、これも正直いって成功しているとは思えません。
場面がいきなり別の部屋になり、この小説を読んでいる読者が、いきなり後ろから殺人鬼に刺殺されて終わり、というオチは、悪意は感じられますが、展開があまりに唐突すぎて、恐怖からは程遠いくすぐり、もっと言えば、笑えない冗談の域に堕しています。
これでは率直に申しまして、とても雑誌に載せられるレベルではありません。改変の必要性が大です。
日にちはありますから、もう一度推敲なさったうえで、再度のメールをお願いします。返信、お待ちしております」
いかがでしたでしょうか。
私はゲテモノ書きを自負しており、自分を一流の作家だとは全く思っていませんが、いくら私でも、こんなしょうもない楽屋オチなどは使いません。
というより、周知のように、この作品に殺人鬼など出てこないし、ましてこれを読んでおられる読者のあなたが殺される、などというバカげたシュールなお笑いのようなラストではないわけですから、これを読んでいる皆さんは、まったくご安心くださって結構です。
この作品の結末で、駆けつけた霊能者によって霊が屋敷から祓われ、調査員の太郎と美奈子の二人が、のちに結ばれるべく生き残ったように、皆さんにも必ずハッピーな未来が約束されているはずですから。
編集部の失態は愚かで迷惑ですが、実に良い暇つぶしになるあとがきを皆さんに提供できたことは、多少は有意義であったかと思われます。少しでも不快に思われた方は、どうかそのように解釈なさって、このアホな事態を笑い飛ばしていただければ、とても作者冥利に尽きます。
ただ、それでも気になる方もおられるでしょうから、これをお読みになっている読者の皆様は、ためしに今うしろを振り返ってみて、背後に誰かが潜んでいないかを、確認してはいかがでしょうか。
案外、いつの間にか部屋に殺人鬼が入り込んでいて、これを読んだ直後、あなたを後ろからナイフで滅多切りにするかもしれませんよ。(「亡霊の棲む館」終)
とある怪談作家の野望
「私の奇妙な体験」平岩かずみ
五、六歳の頃、奇妙な体験をした。夜布団に入ってうとうとしだすころ、横向きに寝ていた場合、不意にすさまじい水圧のような、何かの圧力がやってきて、上から頭をぐいぐい押しつぶそうとする。おそらく実際にそういうものが来るわけではなく、そんな感覚がするだけなのだが、ただ寝付きであっても、決してそれは夢ではなく、完全に目覚めた状態でおきる現象である。
頭が潰されそうになるのだから、当然すさまじい恐怖感に襲われるが、といって簡単に身動きはできない。そこは金縛りに近いかもしれないが、思い切って寝返りをうつなりすれば、振り切ることは可能である。しかし恐れのせいで力が入らず、それがなかなか出来ない。圧迫が強まり、「もう耐えられない」「これ以上いくと、本当に頭が割れる」ほどの限界に達して初めて、やっと頭をぶんぶん振って「正気」の状態に戻ることができる。すると、あれだけ上から神のごとき強力な力で押していた圧力が、嘘のように消えてしまうのである。
この恐ろしい感覚は毎晩のように続き、幼い私を苦しめた。といって長男だったので親にも言えず、ただ毎晩、この死の恐怖と絶望に耐えるしかなかった。
今思えば、これはおそらく家庭環境から来る過剰なストレスが原因で起きていた、一時の発作のようなものだったのだろう。当時、親から受ける長男の責任と期待に押し潰されそうだったことが、頭への激しい圧迫という形で現れたのだと思う。
しかし小学校から中学へあがり、成長するにしたがって、この現象は次第に起きなくなっていった。成人して何十年にもなる今は、ただ、たまにふと思い出すだけの、ひとつの奇怪な体験談でしかない。
だが、ときおり思うことがある。
もしもあのとき、限界になってもじっとして頭を振らず、あのまま頑として我慢しとおしたなら、いったいどうなっていただろう?
あの頃はまだ小学生だから出来なかったが、もう五十過ぎている今なら、きっとすさまじい恐怖と不安に襲われても、あの恐ろしい圧迫に最後まで耐え切れる。いやべつに、稲生物怪録のように「次々に襲い来る物の怪に耐えきったら、魔王から誉めてもらえる」みたいのを期待するわけではないが、それでも終いまで行けたら、きっと何かが見えるだろう。見たこともない、素晴らしい未知のなにかに、きっと行き着けるだろう。
そんな、おぼろげな期待が、今も私の中に消えずにくすぶっている。また、それが出来ないままで人生を終えることに、一種の未練と後悔があるのだ。
といって、老年に差し掛かった今は、もういくら横向きに寝ようが、あの突如深海にでもワープしたような、すさまじい恐ろしい圧力は来ない。だがもしも、次に「あれ」が来るときがあったなら、今度こそは、たとえどんなに恐怖と絶望がこの身に押し寄せようが、今にも頭が割れると本気で思う域にまで達そうが、決してやめず、最後まで耐え抜くつもりだ。そうすれば、きっと人生のなにがしかの真実を手にし、今までに見たこともない世界の扉をひらけるはずである。そう思い、作者は今からわくわくしている。
もっともこれは、その現象が明日にでも起きれば、の話であり、幼児期でぱたりと絶えてしまったものが、今さらわざわざ復活するとも思えない。ですので、まあ期待しないでください(笑)。
作者にとって、この思い出の価値は、「おかげで、エッセイのネタが一個出来たわい」ぐらいのものですわ(終)。
「怪談作家、異常きわまる死」(○○新聞、夕刊三面記事から)
ネット上では、ある程度知名度のある怪談作家、平岩かずみ氏が、昨夜自宅で変死しているのが発見された。今朝、彼を起こしにいった家族がドアをあけると、部屋いっぱいに血のにおいが充満し、彼の寝ている布団も畳も一面血の海だった。
警察の調べでは、平岩氏は頭部を激しく砕かれて即死していたが、それは単純な打撲によるものではなく、何か強力な力で上から圧迫され、卵が割られるようにぐしゃりと潰されたらしい、という壮絶きわまるなものだった。脳や目鼻などの器官も、ぐちゃぐちゃに破損してしまい、無残に原型をとどめていなかった。
大きな謎は、頭部をこれだけ破壊するにはかなりの力がいるはずだが、それを行ったものの痕跡がまるでないことだ。
昨夜は部屋の窓は閉まっていて、ドアに鍵はなかったが、何者かが家に侵入して廊下を通れば家族にわかったろうし(廊下はかなりきしむので結構な音がする)、仮にバレなかったとしても、これだけの犯罪を無音で行い、また気づかれずに現場を去る、というのはほとんど不可能である。
これほどの残忍な犯罪が行われたにもかかわらず、彼の家族や近隣は、大きな音や悲鳴などの物音をいっさい聞いていない。検死官の話では「まるで頭が自分で、音もなく静かに潰れたかのようだ」とのことだ。
実はこの直前に、作者が週刊誌に連載していた最新のエッセイに、この事件をにおわせる内容が書かれていたことがわかった。今のところ、事件の真相を説明できる材料はそれしかないが、とても事実とは信じがたい異常なものである。
作者は、就寝時におきる頭への圧迫について「幼児期に受けたストレスが原因だった」としている。だが、それはストレスがなくなるにつれて消えたという。
このことから――かなり気味の悪い結論ではあるが――それとは違う、なにか別のものが原因だった、という推察にならざるをえない。
それが長年来なくなっていたのは、たんにたまたまでしかなく、彼が老年になってから、また再び「やってきた」ということなのだろうか?
そして、今度は恐怖で振り切ることをせず、そのまま最後まで耐え抜いてしまったために、彼の頭は、その「なにか」によって潰されてしまった、ということなのか?
そうなると、彼を殺したその「なにか」とは――
いったい、なんだったのだろうか?(終)




