叙事詩 5章
バルグリムは180歳になっていた。
ドワーフとしては老境に入ったと言えるが、まだ現役だ。炉の前で鉄を打ち続けている。だが、以前のような力はない。一日に働ける時間も短くなった。
トールは30歳。三人の子供の父親だ。村の鍛冶師として名声を確立し、遠方からも依頼が来るようになっていた。
ある冬の日、バルグリムは炉の前で一人、古い剣を見つめていた。
兄弟たちが作りかけた剣。50年前に完成させ、竜を倒したあの剣だ。騎士が返却してくれたものだ。
「グリムニル、ソリン、バーリン...」
バルグリムは小さく呟く。
「お前たちが生きていたら、今頃どうなっていただろうな」
答えはない。ただ、炉の火が静かに燃えているだけだ。
「俺は...お前たちの分まで、生きた」
バルグリムは剣を撫でた。
「これで、いいのか」
その時、坑道の入口で足音がした。
「バルグリムさん」
トールが訪ねてきた。いつもより早い。
「どうした」
「...相談があります」
トールが真剣な顔をしている。
「何だ」
「長男が、鍛冶師になりたいと言っています」
バルグリムは少し驚いた。
「...グリムがか」
「はい」
トールの長男は、バルグリムの兄の名をもらっていた。今年で12歳になる。
「お前は、どう思っている」
「...俺は、嬉しいです」
トールが答える。
「でも、同時に不安もあります」
「不安?」
「鍛冶は厳しい道です」
トールが言う。
「本当に、やり遂げられるのか」
バルグリムは黙って聞いていた。
「バルグリムさん、どう思いますか」
「...連れてこい」
バルグリムが言う。
「グリムを。俺が話す」
「本当ですか」
「ああ」
翌日、トールはグリムを連れてきた。
12歳の少年。父親似の顔立ちだ。
「初めまして。グリムです」
少年が礼儀正しく挨拶する。
「バルグリムだ」
「あなたが、父さんの師匠ですね」
「...師匠ではない。ただの鍛冶師だ」
バルグリムが言う。
「で、お前は鍛冶師になりたいのか」
「はい」
グリムが力強く答える。
「なぜだ」
「父さんみたいになりたいからです」
「...父親みたいに」
「はい。父さんは、村のみんなから尊敬されています」
グリムが続ける。
「俺も、そうなりたいです」
バルグリムは少し考えた。
「グリム」
「はい」
「鍛冶師は、尊敬されるためになるものじゃない」
「...え?」
「人を助けるためになるんだ」
バルグリムが言う。
「壊れぬ道具、折れぬ農具、一生物の工具」
「それを作って、人々の暮らしを支える」
「それが、鍛冶師の仕事だ」
グリムが真剣に聞いている。
「お前は、それができるか」
「...はい」
グリムが頷く。
「やります」
バルグリムは満足そうに頷いた。
「なら、いい」
「本当ですか」
「ああ。お前には、資質がある」
バルグリムが言う。
「トール、お前がグリムに教えろ」
「...はい」
トールが頷く。
「わかりました」
グリムが嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます、バルグリムさん」
「礼はいらん」
バルグリムが言う。
「だが、一つだけ覚えておけ」
「何ですか」
「鉄は裏切らん。裏切るのは鍛え手だ」
バルグリムが真剣な顔をする。
「常に誠実であれ。鉄に対しても、人に対しても」
「はい」
グリムが力強く答えた。
それから、グリムはトールの下で鍛冶を学び始めた。
最初は火の起こし方から。次に薪の選び方。炉の温度管理。
トールは、かつてバルグリムから教わった通りに、グリムに教えた。
「火は生きている」
「大事にしろ」
「はい」
グリムは真剣に学んだ。
二ヶ月後、グリムは初めて鎚を握った。
「まず、釘を打つ」
トールが実演する。
グリムが試してみる。だが、当然失敗する。
「もう一度」
トールが言う。
グリムは何度も挑戦した。十回、二十回、三十回。
ようやく、釘らしきものができた。
「...合格だ」
トールが認める。
グリムが嬉しそうに笑った。
ある日、トールはグリムを連れてバルグリムを訪ねた。
「バルグリムさん、見てください」
グリムが作った釘を見せる。
バルグリムは手に取り、じっくりと見た。
「...悪くない」
「本当ですか」
「ああ。だが、まだ甘い」
バルグリムが指摘する。
「ここの部分、もっと均一にしろ」
「はい」
グリムが真剣にメモを取る。
バルグリムは、グリムの姿にトールを重ねていた。
15年前、トールも同じように真剣だった。
「...世代は続くな」
バルグリムは呟いた。
「何ですか」
「いや、何でもない」
バルグリムが首を振る。
「グリム、お前は真面目だ」
「ありがとうございます」
「だが、真面目すぎるのも考えものだ」
「え?」
「時には遊べ」
バルグリムが言う。
「子供は、遊ぶのが仕事だ」
グリムが困惑している。
「でも、鍛冶を...」
「鍛冶は逃げん」
バルグリムが言う。
「だが、お前の子供時代は逃げる」
「今しかできないことを、やれ」
グリムは少し考えて、頷いた。
「...わかりました」
トールが微笑んでいた。
「バルグリムさん、優しいですね」
「...優しくない」
「いえ、優しいです」
トールが言う。
「子供にだけは」
バルグリムは何も言わなかった。
その年の秋、王国から使者が来た。
「バルグリム・鉄髭殿」
「何だ」
「王より、依頼がある」
使者が巻物を差し出す。
バルグリムは開いた。
『新たな竜が現れた。北の山脈に巣を作り、村々を襲っている。竜を倒すための剣を作ってほしい』
「...また竜か」
バルグリムが溜息をつく。
「報酬は?」
「金貨百枚」
「いらん」
バルグリムが巻物を返す。
「俺は、もう剣は打たん」
「しかし...」
「帰れ」
使者は困惑したが、最終的には去っていった。
だが三日後、グンナルが訪ねてきた。
「バルグリム」
「...グンナル」
「お前、王の依頼を断ったそうだな」
「ああ」
「なぜだ」
「もう、剣は打たんと決めた」
バルグリムが答える。
「50年前の剣で、十分だ」
「だが、あの剣は既に役目を終えた」
グンナルが言う。
「新しい剣が必要だ」
「...他の鍛冶師に頼め」
「お前ほどの腕を持つ者はいない」
「そんなことはない」
バルグリムが首を振る。
「トールがいる」
グンナルは少し考えて、言った。
「...トールに頼むのか」
「ああ」
「お前は、何もしないのか」
「助言はする」
バルグリムが言う。
「だが、打つのはトールだ」
グンナルは溜息をついた。
「...わかった」
「そう王に伝える」
翌日、バルグリムはトールを呼んだ。
「トール」
「はい」
「お前に、頼みがある」
「何ですか」
「竜を倒す剣を、打ってくれ」
トールは驚いた。
「俺が...?」
「ああ」
「でも、バルグリムさんが...」
「俺は、もう老いた」
バルグリムが言う。
「剣を打つ力はない」
「そんなことないです」
「いや、ある」
バルグリムが認める。
「だから、お前が打て」
「でも、俺にできるでしょうか」
「できる」
バルグリムが断言する。
「お前は、俺が認めた鍛冶師だ」
トールは長い沈黙の後、頷いた。
「...わかりました」
「やります」
バルグリムは満足そうに頷いた。
「よし」
「ただし」
バルグリムが付け加える。
「一つだけ、教えることがある」
「何ですか」
「剣の打ち方だ」
バルグリムが古い剣を取り出す。
兄弟たちが作った剣だ。
「これを見ろ」
トールが剣を見る。
「...美しい」
「ああ。だが、美しいだけじゃない」
バルグリムが説明する。
「この剣は、七人の鍛冶師が協力して作った」
「七人...」
「俺の兄弟たちだ」
バルグリムが言う。
「一人では、これほどの剣は作れない」
「だが、協力すれば作れる」
「...」
「トール、お前も協力者を集めろ」
バルグリムが言う。
「村の鍛冶師たちと協力して、剣を作れ」
「わかりました」
トールが頷く。
「やってみます」
トールは村の鍛冶師たちを集めた。
五人の鍛冶師が集まった。
「みんな、頼みがある」
トールが言う。
「王国から、竜を倒す剣の依頼が来た」
「竜...?」
「ああ。俺一人では作れない」
トールが頭を下げる。
「協力してほしい」
鍛冶師たちは顔を見合わせた。
「...いいだろう」
一人が答える。
「俺たちも、王国のために働きたい」
「ありがとう」
トールが感謝する。
こうして、六人の鍛冶師たちによる剣作りが始まった。
バルグリムは助言者として参加した。
「まず、鉄を選べ」
バルグリムが言う。
「最高の鉄を」
鍛冶師たちが様々な鉄を持ち寄った。
バルグリムは一つ一つ確認する。
「これだ」
バルグリムが一つの鉄を選ぶ。
「この鉄は、純度が高い」
「竜の鱗を貫くには、これが必要だ」
次に、設計だ。
「剣の長さは、どれくらいがいい」
「両手剣だ」
バルグリムが答える。
「重く、だが振りやすい」
「そのバランスが大事だ」
設計図が完成した。
そして、鍛冶が始まった。
六人の鍛冶師が、交代で鉄を打つ。
カン、カン、カン。
音が坑道に響く。
バルグリムは、その様子を見守っていた。
「いい音だ」
バルグリムが呟く。
「兄弟たちと作っていた時のようだ」
一ヶ月後、剣は完成した。
巨大な両手剣。刃は鋭く、柄は堅牢。
「見事だ」
バルグリムが称賛する。
「トール、お前たちはよくやった」
「ありがとうございます」
トールが頭を下げる。
だが、バルグリムは首を振った。
「いや、礼を言うのは俺の方だ」
「お前たちが、俺の夢を叶えてくれた」
「夢...?」
「ああ」
バルグリムが言う。
「兄弟たちと協力して、最高の剣を作る」
「それが、俺の夢だった」
「そして、お前たちがそれを叶えてくれた」
トールは涙を流した。
「バルグリムさん...」
「泣くな」
バルグリムが言う。
「今日は、祝いの日だ」
剣は王国に納められた。
そして、騎士たちが竜退治に向かった。
バルグリムとトールは、坑道で待っていた。
「成功するでしょうか」
トールが不安そうに尋ねる。
「成功する」
バルグリムが断言する。
「お前たちが作った剣だ。必ず竜を倒す」
三日後、報告が来た。
竜は倒された。
剣で心臓を貫かれ、絶命したという。
「やった!」
トールが歓喜する。
バルグリムも微笑んだ。
「よくやった」
「バルグリムさんのおかげです」
「いや、お前たちの力だ」
バルグリムが言う。
「俺は、ただ見ていただけだ」
だが、トールは首を振った。
「バルグリムさんがいなければ、できませんでした」
「...そうか」
バルグリムは何も言わなかった。
ただ、満足そうに炉の火を見つめていた。
その夜、バルグリムは黒麦酒を飲んだ。
「兄弟たちよ」
「見ていたか」
「トールたちが、お前たちと同じことをやり遂げた」
「素晴らしかった」
炉の火が大きく揺れた。
まるで、祝福するように。
バルグリムは酒を飲み干した。
「俺は、もう十分だ」
「やるべきことは、やった」
「後は...静かに余生を過ごすだけだ」
バルグリムは満足そうに微笑んだ。
翌年、バルグリムは181歳になった。
体はさらに衰え、ほとんど仕事ができなくなっていた。
だが、トールとグリムは週に一度、訪ねてきた。
「バルグリムさん、体調はどうですか」
「...悪くない」
「嘘だ。顔色が悪いです」
トールが心配そうに言う。
「医者を呼びましょうか」
「いらん」
バルグリムが首を振る。
「医者に診てもらっても、老いは治らん」
「でも...」
「トール」
バルグリムが言う。
「俺は、もう十分生きた」
「何を言っているんですか」
「事実だ」
バルグリムが微笑む。
「俺は、兄弟たちの分まで生きた」
「そして、お前という弟子を得た」
「孫弟子も得た」
「これで十分だ」
トールは涙を流した。
「そんなこと言わないでください」
「泣くな」
バルグリムが言う。
「ドワーフは、泣くものじゃない」
「でも...」
「グリム」
バルグリムがグリムに声をかける。
「はい」
「お前、父親を泣かせるな」
「...はい」
グリムが頷く。
「お前が、しっかりしろ」
「はい」
バルグリムは満足そうに頷いた。
「よし」
その夜、バルグリムは一人で黒麦酒を飲んだ。
「兄弟たちよ」
「もうすぐ、お前たちの所へ行く」
「待っていてくれ」
炉の火が静かに燃えている。
「俺は、幸せだった」
「トールを得て、孤独ではなくなった」
「家族を得た」
「これ以上、何を望むことがある」
バルグリムは酒を飲み干した。
「俺は剣にならなかった」
「だが、誰かの剣を折れぬよう支える鉄にはなれた」
「それで、十分だ」
バルグリムは炉の火を見つめた。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
静かな夜だった。
だが、バルグリムの心は穏やかだった。
満たされた人生だった。
後悔はない。
ただ、感謝だけがあった。
「ありがとう」
バルグリムは小さく呟いた。
「みんな、ありがとう」
炉の火が、最後に大きく揺れた。
まるで、答えるように。
そして、静かになった。
バルグリム・鉄髭は、眠りについた。
穏やかな、永遠の眠りに。




