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『Price: 1000円 ——契約と覚悟』

扉が開くと、そこは緑の丘の上だった。


 私は気が付くと、呆然とそこに立ち尽くしていた。

 ついさっきまで、知り合いのおじさんのアパートで勉強を教えてもらっていたはずなのに。


 視界の果てまで続く、圧倒的な緑。

 私が住んでいた横浜の、無機質なビル群とはまるで違う。

 頬を撫でる風は甘く、世界そのものが大きく深呼吸をしているような、濃厚な気配に満ちている。


「……ここ、どこ?」


 夢にしては、風の冷たさがリアルすぎる。

 私はこの「圧倒的な自然」を前にして、不思議な感銘を受けていた。

 恐怖よりも先に、魂が震えるような感動。それは、私がこれまで本物の自然の中に佇んだことがなかったからかもしれない。


 けれど、その感動はすぐに現実的な違和感に塗り替えられた。

 丘の上にある岩の一つに、奇妙な突起物があったからだ。


 近づいてみると、それは柄に宝石をあしらった、あまりにも立派な「剣」だった。

 一抹の不安がよぎる。

 それと同時に、視界の端に「青い幾何学的なライン」のようなものが浮かび上がり、私を取り囲んだ気がした。


(これって……まさか、異世界?)


 私はゴクリと唾を飲み込む。

 重厚な剣だ。女子高生の細腕で持ち上がるとは思えない。

 けれど、何かに導かれるように手を伸ばし、引き抜いてみると――。


 ズズッ、ジャキンッ!


 信じられないほど軽く、それはあっさりと抜けてしまった。


 その瞬間だった。

 遠方から、凄まじいプレッシャーと共に「何か」が近づいてきたのは。


 * * *


 事の発端は、数分前――あるいは遥か彼方の日本での出来事に遡る。


 私、高校2年生のあかねは、母の勧めで大学受験のために家庭教師をつけていた。

 相手は、母の遠い親戚にあたる「おじさん」。

 年の頃は40歳くらい。大学の非常勤講師をしているが、いつも金欠で、壁一面が本で埋め尽くされた古アパートに住んでいた。


 おじさんは純粋なドイツ人だ。

 彫りの深い顔立ちは映画俳優のようにハンサムで、物腰も柔らかく紳士的。

 なのに、着ている服はいつも赤札がついた「ベニクロ」のセール品。

 そのアンバランスさが、なんとも言えない「残念なイケメン」感を醸し出していて、私は密かにそんなおじさんを気に入っていた。


 夏頃から、おじさんの仕事が忙しくなり、電話での指導が続いていたある日のこと。

 久しぶりにアパートを訪れた私に、おじさんは唐突にこう切り出したのだ。


「このお金で君を買うよ。覚悟してくれ」


 差し出されたのは、北里柴三郎の肖像画。千円札が一枚。


「……え?」


「ただこんなことだけしていても仕方ないだろうから。お互いの利益にならないしね」


 私は思考が停止した。

 買う? 私を?

 おじさんは女性に困るような人じゃない。けれど、その真剣な眼差しは冗談を言っているようには見えなかった。


(まあ、高校生の私が考えることじゃないかもしれないけど……)


 私は混乱の中で、妙な納得をしてしまっていた。

 おじさんには今まで無償で勉強を見てもらった義理がある。それに、私自身、この少し浮世離れしたおじさんに淡い好意を持っていなかったと言えば嘘になる。


 私はどう答えていいかわからず、ボーッとしたまま、渡される千円札を受け取ってしまった。


 ああ、こういう風にいろいろなことは始まっていくんだな。

 小さな不注意から、取り返しのつかないことが起こるのだ。


 おじさんが一歩近づき、私を優しくハグした。

 男の人の、強くて温かい腕。

 もう抵抗はできなかった。私は脱力感の中で、身を委ねる覚悟を決めた。


「大きくなったね、あかねちゃん。あの頃とはまるで違うよ」


 耳元で囁かれる声。


「これから君の旅立ちが始まるんだ。注意して、一つ一つを大事にしていきなさい」


 意識が遠のいていく。

 そういえば、小さい時はよくこうして抱っこしてくれたな……。

 そんな懐かしさに包まれながら、私の意識はホワイトアウトした。


 * * *


 ――そして、現在。


あるじはだれぞ」


 剣を抜いた私の前に、突風と共に四つの巨大な影が実体化していた。

 燃えるような赤、深海の青、大地の緑、そして神々しい白。


 そこには、神話から抜け出してきたような四匹のドラゴンが鎮座していた。


 私は右手の剣を見つめ、左手でポケットの中にある千円札の感触を確かめる。

 どうやら私は、おじさんに「買われた」結果、伝説の宝剣を手にした勇者になってしまったらしい。


「……これ、クーリングオフできるのかな」


 私の呟きは、ドラゴンの咆哮にかき消され、アヴァロンの空に吸い込まれていった。

お読みいただきありがとうございます。

横浜の女子高生が、1000円で異世界(の空洞)に買われていくお話です。


「ただの異世界モノかな?」と思われたかもしれませんが、ここから少しずつ、おじさんの残した「哲学」や「世界の謎」が、この軽いノリの中に混ざり込んでいきます。

カントや実存の話が、ドラゴンの炎と一緒に調理されていく過程を楽しんでいただければ幸いです。


もし「続きが気になる」「1000円の価値はありそう」と思っていただけましたら、ブックマークや評価(☆☆☆☆☆)をいただけると、執筆の(そしてあかねの旅の)燃料になります。


次回、『Price: 0円』。

空っぽだからこそ、支払う必要のないものがあります。

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