ラマハジ人 タラタラの場合
慣れ親しんだ次元の狭間、いつものように世界から世界へと渡る「転移の術」を起動したはずだった。術式の歯車は正確に噛み合い、視界が幾何学的な光に包まれる。しかし、その刹那、背筋を凍らせるような違和感が走った。
「何か」による強烈な干渉。
「——くっ!」
制御を失った術式が悲鳴を上げ、僕は次元の濁流へと飲み込まれた。意識が暗転し、次に目を開けたとき、視界に飛び込んできたのはこれまでに見たことのない、狂った世界だった。
僕は立ち上がり、この狂った世界を調べる為に体を幾何学的な光で体を包む。旅人にとって、異なる物理法則を持つ世界へ足を踏み入れることは死に直結する。本来なら、適合しない法則下では体組織が崩壊するか、概念として消滅するはずだ。だが、この世界を解析して僕は驚愕した。
この空間を満たしているのは、僕が知る堅固な物理法則ではない。物質を形作り、因果を縛る「法則」があまりにも脆弱で、代わりに濃密な「魔術法則」がこの世界の屋台骨として機能していたのだ。本来なら存在し得ないはずの自分が、この不安定な天秤の上で「形」を保てている。その事実に、冷や汗が流れた。
「……信じられない。術式による再構築なしで、なぜ僕がここに立っていられるんだ?」
独り言のように漏らした呟きを拾うように、背後から澄んだ声が響いた。
「それは、あなたが私たちの世界の『活動』に、深く巻き込まれてしまったからです」
反射的に振り返ると、そこには一人の女性と思われる人が立っていた。5つの目、頭と胴体が一体化したかの様な姿、透き通るような肌と手はなく足しかない、魔術の様な体を持つ者。彼女はこの世界の住人のようだった。
「突然の事態に混乱されていることでしょう。まずは事情をご説明したい。私たちの星へ来ていただけませんか?」
異世界で出会う見知らぬ者。無条件に信じられるはずもなかった。僕は魔力を練り、いつでも迎撃できるよう指先に術式を隠しながら、彼女を鋭く見据える。
すると彼女は、僕の警戒を見透かしたように、穏やかな、だがどこか悲しげな微笑を浮かべた。
「警戒は当然です。ですが、ここはこの世界を渡る者にとって『最悪の檻』なのです。私はかつて、あなたのようにこの場所に囚われた旅人によって設立された、救援組織の者です。あなたを害するつもりはありません。むしろ、一刻も早くお帰りいただく手助けをしたいのです」
言葉をすべて鵜呑みにしたわけではない。しかし、彼女たちの星から漂ってくる気配と、自分自身の現在の実力を天秤にかける。最悪の場合、力ずくで突破できるだけの余力はあると判断した。僕は沈黙の後、小さく頷いた。
「わかった。案内してくれ」
彼女に連れられて訪れたその星は、遠目から見ても歪んでいた。星そのものが巨大な魔術回路のように明滅し、歩くたびに足元から物理法則が剥がれ落ちていくような強烈な違和感に襲われる。
案内されたのは、簡素ながらも膨大な記録媒体が積み上げられた小さな部屋だった。そこで彼女が口にした「最悪」の真実は、僕の想像を遥かに超える凶悪なものだった。
「この世界は、一種の捕食者なのです」
彼女はホログラムの様な物で数々の資料と多様をこの世界で観測された事実を示す物を展開した。
「この世界は他の世界同士の繋がりを無理やり引きちぎり、そこを通過しようとしている旅人を飲み込み分解していきます。一度飲み込まれた者は、二度と外へ出られない構造をしている。あなたは、偶然その裂け目に落ちたのです」
さらに、彼女は衝撃的な事実を付け加えた。
「私たちは、あなたのような犠牲者を救うため、過去にこの地に囚われたあなたと同じ旅人の研究を引き継いできました。あなたにその成果を授け、脱出を全面的にサポートします。それが私たちの使命です」
あまりにも都合の良い話だった。無償の愛や慈悲など、異世界を渡る者が最も警戒すべき甘い毒だ。僕は椅子から立ち上がり、彼女を問い詰めた。
「なぜだ? なぜそこまでして、見ず知らずの僕を助ける? その話には僕にしか利がない。君たちがリスクを負ってまで、こんな慈善事業を続けている本当の理由を言え」
僕の真っ直ぐな問いに、彼女は嘘偽りのない、切実な瞳で答えた。
「簡単な話です。あなたが……いえ、外の世界の存在がこの世界に留まれば留まるほど、私たちは絶滅に瀕するからです」
「……どういう意味だ?」
「この世界は学習するのです。外部から取り込んだ存在を解析し、その法則を自分の一部として取り込もうとする。世界の法則が変わるたび、元々の住人……いえこの世界の生物はこの法則の変化に適応されず私達が生存の適さない世界に変化していくのです。私たちは、今のこの法則の下でしか生きられない種族です。あなたを帰すことは、私たちの生存環境を守ることそのものなのです」
その言葉には、生存本能という最も重い説得力があった。
その後、僕は彼女たちから提供された膨大な研究資料に目を通した。かつてこの地に堕ち、そして地獄の研究の果てにこの世界から旅立った者たちが遺した、血の滲むような解析データ。それは極めて高度な次元工学であり、術式の理解には数日を要した。
だが、読み進めるうちに希望は薄れていった。導き出された結論は、絶望的なほどに低い確率の「博打」だったからだ。
この世界から伸びる外部への繋がりは、あまりにも細く、脆い。それがいつ切れるのかも分からず、繋がった先が自分の生存に適した世界である保証も、情報の断片すらも存在しない。
「……暗闇の中に、命綱なしで飛び込めと言うのか」
僕はがっくりと肩を落とした。それでも、留まることは死を意味する。僕は彼女たちの献身的なサポートを受けながら、かつての旅人が遺した研究結果を自分の術式に組み込み、一瞬の好機を待った。
来る日も来る日も、計器が示すノイズを監視し、次元の揺らぎを追い続ける。
そして、その時は唐突に訪れた。
「来ました! あなたの存在法則と完全に合致する世界へのパスが開通しました。……ですが、維持できるのはわずか数秒です!」
彼女の叫び声と同時に、僕の周囲の法則が激しく逆流を始めた。今ならいける。異世界を渡る術式が、かつてないほどの輝きを放ちながら起動する。
僕は急いで荷物をまとめ、最後に一つだけ、自分がこの数日間で解析したこの世界の「最新の術式データ」を端末に残した。それが、後に続くかもしれない旅人の道標になることを願って。
「恩にきる!」
それだけを告げると、僕は光の渦へと身を投げた。
背後で、彼女たちの星が遠ざかっていく。次元の壁を突き破る凄まじい衝撃が全身を襲う。
再び、孤独な旅が始まる。
次に降り立つ場所が、僕の求める「帰るべき場所」であるかは分からない。
それでも、僕は歩き続ける。あの凶悪な檻を抜け出し、今度こそ、自分自身の足で次元を切り拓くために。
光の彼方に、新しい世界の輪郭が見え始めていた。




