嘘が透ける呪いの瞳を持つ令嬢、婚約話を片っ端から断り続けた結果、唯一“濁りゼロ”の次男に抱きしめられて人生が反転するまで
私の瞳に映る世界は、すべて嘘で塗り固められている。
幼い頃からそうだった。母親が「愛している」と言う時、その言葉の奥底に映るのは、私の存在が自分の社交上の勲章でしかないという醜い欲望だった。
最初、私はそれが異常であることに気づかなかった。全ての人間がそうなのだと思っていた。言葉と心がズレているのは、人間の本質なのだと。
でも、やがて気づいた。これは誰もが見ているわけではない。私だけが人間の心の汚れた真実を見ているのだと。
十六歳になった時、母親は私に明かした。母は驚き、その瞳は生まれ持った呪いだと言った。
遠い先祖が、王妃の侍女を誘惑し、その呪いで代々の娘たちに与えられたという。歴史の中で、この呪いを持つ女性たちは皆、孤立し、結婚できず、子を産むことなく、その血は絶えていったと。
「あなたも同じ道を辿るのかもしれないわね」と、母親は遠い目をして言った。その時、母親の心に映ったのは、娘である私への同情ではなく、自分の名家が絶えていくことへの落胆だった。
それ以来、私は人間関係を築くことを諦めた。
従者たちの心には、私を見下す感情と同情が混在していた。兄たちの友人が訪ねてくれば、彼らの瞳は私の美貌に釣られても、すぐに怖気づく。何か異質なものを感じるのだろう。その通りだ。私は普通の人間ではない。
家の中も、家の外も、私の周囲は透き通った嘘で満ちていた。
それでも日々は続く。毎日、作り笑顔で満ちた食卓を囲み、表面的な家族との会話を繰り返す。毎日、社交界での虚しい立ち振る舞いを求められ、嘘の中を歩み続ける。
私の瞳は、相手の生の瞳と視線が合ったときだけ働く。絵や鏡、ガラス越しでは映らない。視界内およそ十歩ほどが限度で、長く覗けば頭痛や吐き気に襲われる。見えるのは“嘘や打算の濁り”を中心に、表層の感情や疼くような痛みだ。
この瞳は何も変えることはできなかった。すべてが見えるだけで、何も変えられない。
見えるということは、苦しむということだった。
十八歳の春。私は社交界へのデビューを強要された。
母親はこれを「最後の希望」と呼んだ。その心に映ったのは、そうではなく、体裁を取り繕うための虚栄心だった。社交界に出すことで、何らかの婚約を取り付けることができれば、我が家の名誉は保たれる。そういう打算だった。
白いドレスに身を包まれ、宮殿の大階段を降りる時、私の心は死んでいた。
会場は、光と香りと、そして見えない嘘で満ち溢れていた。
貴族たちが次々と私に近づいてくる。その度に、私の呪いの瞳は、彼らの本当の姿を映し出す。
最初に求婚してきたのは、公爵家の嫡男・アレクサンダー。二十三歳で、容姿も性格も申し分ないと評判の青年だった。彼は優雅な動作で私の手に口づけ、「君のような美しい女性こそ、私の妻として相応しい」と甘い言葉を紡いだ。
その言葉の底に映ったのは、美しい娘を妻にして社交界での価値を高めたいという浅ましい欲望だった。加えて、彼の心の奥には、別の館で待つ愛人への想いが、今も熱く燃えていた。彼は、私を妻にしながら、別の女を愛し続けるつもりなのだ。
「申し訳ありませんが、ご期待に添えません」
私は丁寧に、しかし冷たく、その求婚を断った。アレクサンダーの顔は怒りで歪んだ。自分が拒絶されるということが、彼の人生であったことがないのだろう。
その後も、次々と求婚者は現れた。
領地経営で成功した伯爵の息子は、私の持参金に目がくらんでいた。王妃の側近の推薦で現れた公爵は、私を通じて王妃へのアクセスを得たいという野心に満ちていた。辺鄙な領地の領主は、自分の血統を高めるために、より高い身分の女を妻にしたいという願いで心が満杯だった。
皆、皆、違う形の嘘をついていた。
「愛している」「家族を大切にしたい」「あなたと幸せになりたい」
そういう言葉の裏には、必ず、打算と野心と欲望が渦巻いていた。
三ヶ月が過ぎた社交界での活動の中で、私が受け取った求婚は十七件。その全てを、私は拒絶した。
社交界の人々は、次第に私を「気取った、つけあがった女」として評価し始めた。母親は怒り、父親は失望した。しかし、私にとっては、それは何の問題でもなかった。むしろ、皆が私を避けるようになれば、この虚しい社交界との付き合いも少なくなるだろう。
私は、心の底で、この社交界が、そして人間という生き物が、完全に嫌いになっていた。
★
その日、私は父親に連れられ、遠い領地の改革プロジェクトの視察へと向かっていた。
正直、退屈だった。またしても、領主たちのうわべだけの挨拶を聞き、腐った心を見つめなければならないのかと、うんざりしていた。
しかし、その領地の旅館で宿泊していた時のこと。廊下で一人の青年と出会った。
彼の名前は、ルーシアス。落ちぶれた領主の次男だという。領地の再建に尽力しているということで、父親の視察プロジェクトに関わる者だった。
最初、彼に特別な感情は抱かなかった。普通の青年だろう。また別の形の嘘をついているだろう。そう思っていた。
しかし、食卓で言葉を交わした時、私は異変に気づいた。
彼の瞳を見つめたとき、私の呪いの瞳に映ったのは──濁りのない透明だった。
ルーシアスは、「領地の再建は困難です」「資金不足で、多くの計画が宙に浮いています」と、素直に現状を述べた。その言葉は、虚勢もなく、格好もつけず、純粋な困難を伝えようとしていた。
「しかし、やるしかありません。領民たちは苦しんでいます。私の責任です」
その言葉の時、彼の心に映ったのは、本当に、本当に、領民への思いやりと、自分の責任への自覚だった。嘘がない。建前がない。飾りがない。
純粋な誠意が、そこにあった。
私は、十八年間で初めて、心が一致する人間に出会ったのだ。
翌朝、父親は私に告げた。
「アルセーナ。この領地の視察は、思いのほか複雑だ。二週間は滞在することになりそうだ」
二週間。
予定では、三日の滞在だった。それが、二週間に延びるということは、この領地の改革計画がそれほど重要だということだろう。
領地視察の傍らで、ルーシアスは、領地の課題について、父親に説明していた。
彼の言葉は、相変わらず誠実だった。
現状の困難さ。資金不足。領民の生活の苦しさ。それらすべてを、彼は包み隠さず述べた。
ただし、それは諦観ではなかった。彼の心に映ったのは、これらの課題を克服したいという強い意志だった。
彼は、毎日、朝から晩まで、改革計画の実行に奔走していた。新しい農業技術の導入。領民への教育。商業の活性化。
彼は、一人で、それらすべてを抱えていた。
二週間の滞在期間の中で、私は気づき始めた。
ルーシアスが、どれほど誠実な人間なのか、ということを。
彼は、自分の無能さも、自分の弱さも、隠さない。領民たちの前でも、父親の前でも、自分は不十分であることを認める。
しかし、同時に、その不十分さをどう補うか、常に考えている。
誰を助言者にすべきか。どの技術を導入すべきか。どの順序で改革を進めるべきか。
その思考は、決して自分のためのものではなく、領地と領民のためのものだった。
ある日のこと。
私は、ルーシアスが領民たちと話しているのを見つめていた。
彼は、ある老人の家を訪れていた。その老人の息子が、新しい農業技術の導入に抵抗していたのだ。
ルーシアスは、その老人に丁寧に説明した。
「新しい技術は、確かに最初は大変です。しかし、長期的には、より多くの作物を得ることができます。それにより、あなたの家族の生活は改善するでしょう」
老人は、ゆっくりとうなずいた。
「わかりました。息子に伝えます」
その老人の心を見つめた時、私は感じた。
この老人はルーシアスを信頼していた。ルーシアスが、決して嘘をつかないからだ。
その信頼の上に、領地の改革は成り立っていたのだ。
その夜、父親は、ルーシアスについて、私に言った。
「あの青年は真の領主の器を持っている。あのような誠実さを持つ人間は、稀だ」
「そうですね」
「我が家は、彼の改革を支援することにしよう。資金を提供し、人材を派遣する。彼の領地が発展することが、王国全体の利益になるだろう」
その決定を聞いた時、私は、ある予感を感じた。
父親が、ルーシアスに投資することで、何かが変わるだろう、という予感を。
しかし、その時点では、それが何なのか、わかっていなかった。
二週間の滞在は、やがて一ヶ月に延びた。
父親の改革支援の計画が想定以上に複雑だったため、さらなる現地調査が必要になったのだ。
その一ヶ月の間、私とルーシアスは、頻繁に言葉を交わした。
その中で、私は見つめ続けていた。彼の心を。
彼が、何を考えているのか。何に苦しんでいるのか。何に希望を見ているのか。
そして、徐々に、私の中で、何かが変わり始めていた。
ルーシアスを見る度に、私の心が、微かに安心する。
彼の言葉を聞く度に、私の心が、微かに温まる。
それは、十八年間、感じたことのない感情だった。
嘘のない心を見つめることの、苦しさではなく、喜び。
純粋さを感じることの、絶望ではなく、希望。
ある日のこと。
ルーシアスと私は、領地を一緒に歩いていた。彼が改革の進捗状況を説明してくれていたのだ。
「三ヶ月前、この地区は、今よりずっと疲弊していました」と、彼は言った。
「ですが、見てください。今は、領民たちの表情が変わっています」
確かに、そうだった。領民たちがルーシアスを見る時、その心に映るのは希望だった。彼らは、このかつての領主の次男を信頼していた。
「苦労しているのですね」
私は、思わず言った。
ルーシアスは、私の言葉に立ち止まった。
「そうですね。資金も足りません。技術も足りません。何より、時間が足りません」
「でも、やっている」
「はい。やるしかないですから」
彼は、そう言って、また歩き始めた。
「アルセーナ様は、社交界にお戻りになられるのですか」
その問いに、私は答えに詰まった。
本来であれば、一ヶ月の滞在を終えた今、父親とともに都に戻るはずだった。
しかし、父親はまだ、改革計画の詰めを行うつもりでいるようだった。
「まだ、わかりません」
「そうですか」
ルーシアスは、その返答を聞いて、安心したのか、ほっと肩の力が抜けたようだった。
その夜、彼は私を領地の高台へ導いた。そこから見える夜景は、美しかった。
「アルセーナ様。一つ、ずっと疑問に思っていることがあります」
彼は、静かに切り出した。
「何ですか」
「これまで、この領地にはいろいろな視察官や貴族たちが来られました。皆、領主としての地位や、領地の資源に目がいくのです。でも、あなただけが違う」
彼は夜空を見つめながら続けた。
「あなたは、この領地の人々を見ている。領民たちの表情、その生活、そういったものを見ている。なぜですか。その理由が知りたいのです」
私は、一瞬、言葉に詰まった。
呪いの瞳の存在を隠したまま、どう答えるべきか。でも、今まで隠してきた答え方では、彼の心を満足させることができない気がした。
「社交界では、皆、自分を飾ります」
私は、ゆっくりと答えた。
「本当の気持ちを隠して、社交的な笑顔を作る。見栄を張り、打算を隠す。その繰り返しです」
ルーシアスは、静かに聞いていた。
「でも、ここに来て気づいたのです。この領地の人々は違う。あなたの母上が畑で汗をかいている時の表情。あなたの父上が子どもに何かを教えている時の優しさ。そういう本当の姿が、そのまま見える」
彼の心に映ったのは、驚きと、そして何か深い理解だった。
「社交界でこんなことを感じたことはありません。それは……」
私は、言葉を探った。
「その人たちの心が、本当だからです。嘘がないからです」
「嘘がない……」
ルーシアスは、その言葉を反芻した。
「はい。だから、私はここの人々を見たいのです。社交界では見ることのできない、本当の人間の姿を。そして、あなたのような誠実さを持つ人がいるなら、この領地の人々もまた、本当に生きている。そう感じるのです」
ルーシアスは、私の方を向いた。その瞳には、深い感動が浮かんでいた。
「アルセーナ様。どうか、あなたのその純粋さを、失わないでください」
彼は、そう言った。
「社交界に戻ると、また、虚しさが戻ってくるでしょう。でも、ここに来てくれて、あなたがそう感じてくれたのなら……」
彼は、私の手をしっかりと握った。
「もっと、ここにいてください。この領地に。そして、我々と一緒に、何かを作っていく手伝いをしてください」
その言葉は、求婚めいたものではなく、心からの願いだった。
「ルーシアス……」
「急ぎません。答えは後でいい。でも、あなたのような心を持つ人が、ここにいてくれることが、どれだけ大切か。あなたは気づいていないかもしれない」
その時、私は感じた。
このまま、もっとこの領地に留まりたい。このルーシアスという男性と、もっと一緒にいたい。
そういう気持ちが、自分の中に、確実に存在していることを。
到着から二か月が過ぎたころ、父親は私に言った。
「アルセーナ。私はあと一ヶ月、ここに留まることにした。ルーシアス殿の領地改革は、思いのほか順調だが、本当に確実な成果を確認するためには、さらなる時間が必要だ。お前はどうする?」
私も父親と一緒に滞在することにした。
三ヶ月目に入った滞在の中で、ルーシアスは突然、そう聞いてきた。
「アルセーナ様は、何故、私の隠したことを知っているのですか」
「何のことですか」
「この領地の改革には、実は、思いのほか、多くの資金が必要です。ですが、陛下からの支援は、限定的です。でも……あなたはそのことを知っていますね」
確かに、私は知っていた。彼の心に映っていたからだ。
「勘です」
「なるほど、勘ですか」
ルーシアスは、その返答に満足しなかったようだった。
その後も、そのようなことが何度か繰り返された。やがて、ルーシアスは、本当に疑い始めた。
「アルセーナ様。あなたは、何か、特別な能力を持っているのではないですか」
ある静かな夜、彼は、私に直接、質問を投げかけた。
彼の心に映ったのは、警戒と、そして奇妙な惹きつけられるような感覚だった。
「特別な能力……?」
「はい。あなたが、私たちの心を見ているのではないか。そんな気がします」
その瞬間、私は打ち明けることを決めた。
これ以上、騙し通すのは無理だと思ったのだ。
「ええ。その通りです。私には人の心が見えます」
私は、ゆっくりと言った。
「人の心が、ですか?」
ルーシアスの表情が、硬くなった。
「この瞳で見える全ての人間の心。その心に映る嘘、本当の思い、隠された欲望。すべてが見えるのです。あなたの心も、私には見えていました。すべて」
ルーシアスは押し黙った。
「気味が悪いでしょう。心の中を覗かれていたなんて」
「…………」
「これまで黙っていて申し訳ありませんでした」
ルーシアスは、黙った。
その心に映ったのは、複雑な感情だった。恐怖と、同時に、何か深い悲しみのようなもの。重たい沈黙。耐えきれず、この場から逃げようとする私の手を、ルーシアスが握った。
「あなたは、その呪いを、ずっと一人で背負ってきたのですね」
「え……」
「すべての人間の本心を見つめるなんて……」
彼は、ようやく、私の方を見た。彼の瞳には、涙が溜まっていた。
「それがどれほど、辛かったことか」
その言葉を聞いた時、私は、自分の瞳に涙が溜まるのを感じた。
十八年間、誰も、そのことを言ってくれなかった。
彼は、呪いそのものではなく、その呪いを背負う私の苦しみを、深く悔いたのだ。
「ルーシアス……」
「これから先、あなたは一人ではありません」
彼は、私に近づいてきた。
「その呪いも、その苦しみも、これからは、私が一緒に背負います」
彼は、私の背中に手を回した。
その腕の中で、初めて、私は自分が完全に受け入れられたと感じた。
「あなたの瞳で見えるすべての世界を、私も一緒に見ます。あなたが見つめる嘘も、本当も、すべてを」
その夜、私たちは、この領地の高台から、夜明けを迎えるまで一緒にいた。
彼は、私の過去のすべてを聞いた。社交界での絶望。家族の中での孤立。誰にも言えなかった秘密の重さ。
彼は、そのすべてを受け入れてくれた。
それから三週間後、私たちは婚約を父親に報告した。
父親の反応は、静かだった。長く沈黙した後、私を見つめた。
「ルーシアス殿に、その瞳のことを話したのか」
「はい」
「そして、彼は受け入れたのか」
「はい」
父親は、深く頷いた。
「そうか。お前のような者を受け入れることができる人間は、本当に稀だ。反対する理由がない」
父親は、その足で王妃のもとへ報告に行った。王妃を通じて、王にも報告がなされた。
王の反応も、思いのほか好意的だった。
「ルーシアスは、領地改革で成果を上げている優秀な領主だ。そのような者との婚約なら、王国全体の利益にもなるだろう」
王は、私たちの婚礼を王宮で催すことまで決めた。
しかし、呪いの瞳のことは、王にも、王妃にも、一切は明かすことはなかった。
「アルセーナ。その瞳のことは、絶対に秘密にしておきなさい。世間が知れば、お前は魔女だと言われ、石打ちに処せられるかもしれん。ルーシアスも巻き込まれる」
父親の言葉は、重かった。
だからこそ、私たちは、その秘密を二人だけのものにすることにした。
春の季節、最も美しい時期に、婚礼は催された。
宮殿の庭園は、白い花で満たされていた。
社交界の貴族たちが、一堂に集まった。彼らの心には、好奇心と、そして警戒が混在していた。
「呪いの瞳を持つ」というのは、社交界では、半ば伝説のようなものだった。それが真実だとは思わず、単なる噂だと考えている者も多かった。
彼らにとって、この婚礼は、単に、誠実な領主と、貴族の嫡女との結婚式に過ぎなかった。
誓いの言葉の時、ルーシアスは、私の手を取り、言った。
「アルセーナ。私は、あなたのすべてを受け入れます。あなたの過去も、あなたの秘密も、あなたが見える世界も。これからの人生を、一緒に歩むことを誓います」
その言葉は、表面的には、ただの結婚の誓いに聞こえた。しかし、私たちは、その言葉に、本当の意味を込めていた。
私も、答えた。
「ルーシアス。私は、あなたの誠実さを信じます。あなたの心を見つめ続けます。そして、あなたと一緒に、前に進むことを誓います」
その誓いの言葉が、庭園の空に響き渡った時、天から雨が降った。
それは、祝福の雨だった。
社交界の人々も、その雨の中で、涙ぐんでいた。
彼ら自身も、その瞳で見つめられているかもしれない、という無意識の恐怖と、そして同時に、本当の幸せに対する、本当の祝福が心に湧き起こったのだ。
婚礼の後、私たちはルーシアスの領地へ戻った。
そこで、新しい人生が始まった。
私は、ルーシアスの妻として、領民たちに受け入れられることに、最初は不安だった。
しかし、ルーシアスが導いてくれた。
「彼女は、敏感な人で、このような地のことをよく察することができる。皆で、彼女を信頼してください」
領民たちは、ルーシアスを信頼していた。だから、彼の言葉を信じた。
実際、私が領地を歩むようになってから、変化が起こり始めた。
ある日、私は、一人の老いた農民の心を見つめた。彼の心に映ったのは、秘かな病だった。彼は、痛みに耐えながら、毎日、畑で働いていた。
「あなた、肺が辛いのですね」
私が、その男に優しく声をかけた時、彼の目が驚きで大きくなった。
「どうして……」
「医師に診てもらってください。費用はルーシアスが負担します」
それが、最初の出来事だった。
その老人は、医者にかかり、治療を受けた。やがて、彼は健康を取り戻した。
その話が、領地に広がった。
「領主妻は、我々の苦しみを知っている」
領民たちは、そう言い始めた。
それは、本当だった。
私は、毎日、領地を歩み、領民たちの心を見つめた。
貧困で苦しむ家族。病気で絶望する者。才能があるのに機会に恵まれない人々。
すべての苦しみが、私の瞳に映った。
そして、ルーシアスは、その情報を受け取り、行動に移した。
その関係の中で、領地は、劇的に変わっていった。
一年が経つと、領民たちの生活水準は明らかに上がっていた。
二年が経つと、領地は活気に満ちるようになった。
三年が経つと、ルーシアスの領地は、王国で最も豊かで、最も幸福な領地として知られるようになっていた。
ある日、王妃がルーシアスの領地を訪問することになった。
王妃は、この領地の改革の噂を聞いて、視察に来たのだった。
王妃を案内したのは、私だった。
領地の学校、井戸、市場、すべてを見た王妃の表情は、徐々に驚きに変わっていった。
「アルセーナ。この変化は、どのようにして起きたのですか」
王妃が、私に問いかけた。
「ルーシアスが、領民たちの必要としていることを理解されたからです」
「必要としていること……ですか」
「はい。領民たちが何を望んでいるのか。何に苦しんでいるのか。それを理解することから、すべてが始まりました」
王妃は、その言葉を黙って聞いていた。
王妃はその場で結論を出さず、宮廷会計と学匠院に三か月の内偵調査を命じた。収支・治安・戸口調査の全てで改善が確認され、そこで初めて登用が決まった。
「ルーシアスの領地改革の手法を、王国全体に広げるべきだ」
王の指示により、ルーシアスは、王妃の補佐官として、王国の各地を巡り、改革の指導をするようになった。
十年が経った。
私たちの領地には、二人の子どもたちがいた。
長男は、ルーシアスのような誠実さを持つ少年に成長していた。
次女は、私のように、呪いの瞳を持つ少女だった。
彼女が、生まれてきた時、私は、母親が私に対してしたことをしないと決めていた。
我が家の古い文書には、『心の濁りに長く晒されるほど瞳は荒れ、やがて身を滅ぼす』とある。私が母になれたのは、濁りの少ない夫のそばに、長くいたからだ。
「あなたの瞳は、呪いではなく、祝福です」
私は娘に、毎日、そう言い聞かせた。
「その瞳で見える、本当のものを。その瞳で見える、誠実さを。それらは、世界を変える力になります」
娘は、微笑んだ。
この夜、ルーシアスと私は、領地の高台に立っていた。
十年前、私たちが初めて秘密を打ち明けた場所だ。
「アルセーナ。あなたのその瞳は、今、何が見える?」
ルーシアスが、静かに問いかけた。
私は、彼の瞳を見つめた。
十年間、一日たりとも、彼の心は変わらなかった。
相変わらず、嘘がない。建前がない。飾りがない。
純粋な誠意は、今も、変わらずそこにあった。
「この領地の人々の、本当の幸福。王国全体に広がる、誠実さ。そして……」
私は、彼の胸に頭を寄せた。
「あなたの、本当の愛。それが、いつも、見えます」
ルーシアスは、私を抱きしめた。
呪いの瞳は、もう呪いではなくなっていた。
春の夜風が、領地を吹き抜ける。
白い花びらが、夜空を舞い、光に照らされて、きらめく。
その光の中で、私たちの家族は、静かに笑っていた。
呪いから始まった人生は、いつの間にか、祝福に満ちた人生に変わっていた。
そして、これからも、その祝福は、続いていく──。
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