凪待ち
観測史上例のない「凪」が続く海辺の村。生命の躍動を失った鏡のような海は、やがて空ではない、深淵の「何か」を映し出し始める。人々は静かに正気を失い、古くから伝わる「凪待ち様」への信仰が蘇る。これは、宇宙的恐怖が、閉鎖的な共同体を静かに侵食し、変質させていく、終末の記録である。
俺、篠原海里は、研修医だ。過酷な、大学病院での、勤務に、疲れ果て、半ば、自暴自棄に、なっていた俺に、教授が、提示したのは、ある、離島での、二年間の、地域医療研修だった。
「いい、経験になる。頭を、冷やしてこい」
その、言葉に、俺は、従った。臨月を、迎えた、妻・美帆の、反対を、押し切って。
「あなた、一人で、大丈夫なの?」
「大丈夫だ。すぐに、呼び寄せるから」
俺は、そう、約束した。それが、守れない、約束になることなど、知る由も、なく。
俺が、赴任した、その島、「静島」は、地図の上でも、忘れ去られたかのような、小さな、孤島だった。定期船は、週に、一度。主な、産業は、衰退した、漁業だけ。島の、診療所は、俺が、来るまで、何年も、無医村の状態だったという。
島は、その名の通り、驚くほど、静かだった。
そして、その、静けさの、原因は、すぐに、わかった。
海が、凪いでいたのだ。
それは、単なる、波のない、状態ではなかった。島の、周囲の海、全てが、まるで、巨大な、黒い、ガラス板のように、完璧に、静止していた。風もなく、波の音も、潮の香りも、一切しない。生命の、気配が、完全に、消え失せていた。
島民たちは、皆、どこか、虚ろな、目をしていた。彼らは、一日中、浜辺に、座り込み、ただ、静まり返った海を、眺めている。その、光景は、ひどく、異様で、不気味だった。
診療所の、老看護師、市子さんは、俺に、言った。
「先生、これは、『凪待ち』ですだよ」
「なぎまち……?」
「この島に、古くから、伝わる、凪待ち様が、おいでになる、前触れです。凪が、始まったら、決して、海を、見続けては、いけません。心を、持っていかれますだよ」
俺は、非科学的な、迷信だと、取り合わなかった。
だが、その、凪は、一週間、二週間と、続いた。島の、備蓄食料は、日に日に、減っていく。本土との、連絡も、なぜか、取れなくなっていた。携帯電話は、「圏外」のまま。俺たちは、完全に、この島に、孤立したのだ。
そして、島民たちの、狂気は、静かに、その、濃度を、増していった。
夜中に、意味もなく、奇声を、上げながら、走り回る者。
自分の、家の壁に、爪で、奇妙な、紋様を、描き続ける者。
そして、彼らが、皆、口々に、呟くのだ。
「凪待ち様が、来る……」「お供え物を、用意せねば……」と。
俺は、診療所の、古い、文献の中に、この島に、伝わる、信仰の、真実を、見つけ出した。
『凪待ち様は、深淵より、来たる、神なり。神は、最も、穢れなき、魂、すなわち、産まれたばかりの、赤子の、命を、喰らう。その、対価として、島に、豊漁と、安寧を、与え給う』
俺は、全身から、血の気が、引くのを感じた。
お供え物。赤子。
その時、俺の、脳裏を、よぎったのは、本土に残してきた、妻、美帆の、姿だった。彼女の、大きく、膨らんだ、お腹。
俺は、狂ったように、診療所の、無線機に、向かった。奇跡的に、一度だけ、本土との、通信が、繋がった。
「美帆か! 俺だ! すぐに、島から、逃げろ! 絶対に、ここへ、来ては、いけない!」
だが、受話器の、向こうから、聞こえてきたのは、美帆の、嬉しそうな、声だった。
「海里さん! よかった、繋がって。私、今、定期船に乗って、あなたの、島へ、向かっているの。もうすぐ、着くわ。それにね、赤ちゃん、生まれそうなの!」
絶望。
その、一言しか、浮かばなかった。
定期船は、どういうわけか、島へと、やってきた。そして、そこから、降りてきたのは、陣痛に、苦しむ、美帆の、姿だった。
その、彼女を、出迎えたのは、全ての、島民たちだった。
彼らの、目は、もはや、正気ではなかった。
彼らの、目は、飢えた、狂信者の、目だった。
そして、その、全ての、視線が、ただ、一点。
美帆の、大きく、膨らんだ、お腹へと、注がれていた。
俺は、美帆を、診療所へと、運び込み、ドアに、バリケードを、築いた。
外では、島民たちが、まるで、獣のような、唸り声を上げ、ドアを、叩いている。
「凪待ち様への、お供え物を、よこせ!」
「赤ん坊を、渡せ!」
その、地獄のような、状況の中で、美帆は、産気づいた。
俺は、医者だ。だが、今は、ただの、夫であり、もうすぐ、父親になる、男だった。
俺は、たった一人で、震える手で、自分の、子供を、取り上げなければならなかった。
外の、狂気の、声に、耐えながら。
数時間の、死闘の末。
産声が、上がった。
小さく、しかし、力強い、生命の、叫び。
女の子だった。
その、瞬間。
外の、喧騒が、ぴたり、と、止んだ。
そして、代わりに、地鳴りのような、音が、島の、外、海から、響いてきた。
窓の、隙間から、外を見る。
凪いでいた、海面が、大きく、盛り上がり、その、中心から、「何か」が、姿を、現そうとしていた。
それは、形を、持たない、巨大な、闇。その、闇の中から、無数の、眼のようなものが、こちらを、見ている。
凪待ち様が、降臨したのだ。
島民たちが、歓喜の、声を上げる。
「お生まれになった!」「お供え物が、生まれたぞ!」
ドアが、破られようとしている。
もう、時間の、問題だ。
俺は、生まれたばかりの、我が子を、抱きしめた。
この子を、絶対に、渡さない。
医者としての、倫理? そんなもの、知るか。俺は、父親だ。
だが、どうやって、この子を、守る?
逃げ場は、ない。
俺は、絶望の、淵で、一つの、狂気の、選択肢に、思い至った。
俺は、メスを、手に取った。
そして、自分の、腕を、深く、切り裂く。
溢れ出す、俺の、血。
俺は、その血を、生まれたばかりの、我が子の、額に、塗りつけた。
これは、俺が、読んだ、古い、文献にあった、禁断の、儀式。
『神は、穢れを、嫌う。親の、血で、穢れたる子は、生贄の、資格を、失う』
だが、それには、代償が、あった。
『その、代わり、血の、主が、新たな、生贄と、なる』
ドアが、ついに、破られた。
島民たちが、雪崩れ込んでくる。
彼らは、俺の腕の中の、赤ん坊を見て、そして、その額の、血を見て、動きを止めた。
「……穢れている……」
「お供え物に、ならない……」
彼らの、顔に、深い、絶望の、色が、浮かぶ。
そして、その、視線が、一斉に、俺へと、向けられた。
血の、主。
新しい、生贄。
「そうだ。俺が、代わりだ」
俺は、笑った。
これで、いい。
美帆と、この子を、守れるなら。
俺は、赤ん坊を、疲れ果てて、眠っている、美帆の、腕の中に、そっと、置いた。
そして、島民たちに、向かって、両手を、広げる。
彼らは、俺を、担ぎ上げ、祭壇へと、運んでいく。
浜辺に、作られた、粗末な、祭壇。
その、向こうには、全てを、飲み込まんとする、巨大な、闇、凪待ち様が、待っている。
最後に、俺は、診療所の、窓を、振り返った。
窓辺には、美帆が、立ち、俺たちの、子供を、抱いて、こちらを、見ていた。
彼女は、泣いていた。だが、その、口元は、笑っていた。
それは、感謝でも、悲しみでもない。
全てを、手に入れた、女の、【幼い喜び】の、笑みだった。
俺は、その時、全てを、悟った。
美帆は、知っていたのだ。この島の、全てを。
彼女は、俺を、この島へ、導き、俺を、生贄とすることで、自分と、子供だけが、助かる、道筋を、描いていたのだ。
俺が、読んだ、文献も、繋がった、無線も、全てが、彼女の、仕組んだ、罠だったのだ。
俺は、裏切られた。
愛する、妻に。
だが、もう、どうでも、よかった。
俺の、体は、祭壇に、捧げられ、ゆっくりと、巨大な、闇の中へと、沈んでいく。
意識が、遠のいていく。
ああ、でも、最後に、一つだけ。
俺は、医者として、正しい、選択が、できたのだろうか。
父親として、正しい、選択が、できたのだろうか。
その、答えを、知る者は、誰も、いない。
ただ、静まり返った、海に、俺という、存在が、溶けて、消えていくだけ。
凪は、終わるだろう。
そして、島には、また、日常が、戻る。
新しい、命と、それを、手に入れた、一人の、女と共に。
なんと、皮肉な、ハッピーエンドだろうか。