カグヤ
「現高度、390キロメートル」
クロードが高度計を確認している。ブリッジの窓から望む外には宇宙空間の闇と、それから眼下には太陽の光を反射して輝く青い海が雲間に見え隠れしている。
「重粒子変流加速器、出力95%を維持。姿勢維持スラスター、出力6%」
クロードが機関室からの数値に視線を落とす。ここまでは、極めて順調。高度300キロ圏内では地球の引力は地表に対して9%ほどしか下がらない。だから重粒子変流加速器の出力はそのままに、ゆっくりと地表からの距離を取っていく。
「予定通り、ドリフト上昇航路を進行中。予定高度に達するまであと30分」
「アリゾナ宇宙港から連絡。航路進行方向に別の宇宙船なし。作業中の小型船舶なし、人工衛星との軌道干渉なし。航路、オールグリーン」
メアリーが航路の安全状態を確認している。何しろ全長が300メートルを超える巨体なのだ。低軌道を高速で周回する人工衛星などと衝突をすれば双方ともにただでは済まない。
ローラがチラリと伺った窓の左端に、着陸を待機している別の貨物船が見えた。午後からの着陸になるという火星から帰還した船だろう。火星の開発も進んでいるから、資材類の運び込みもペースアップしているのだ。
「オーケー。安定したわね。じゃあ、この隙に少し『お出かけ』をするから。クロード、着いてきて」
そういうと、ローラはシートベルトを外してクロードを手招きした。
「え? オレ? 何の用だよ」
慌ててクロードがその後を追う。
「『挨拶』よ。大事な大事なお客様にね。いくら4日間は特別室から出てこないとはいっても、そのままでいられるとは限らないし。船内火事とかそういう緊急事態の対応についてチャンとレクチャーはいるでしょ? その前にキチンと挨拶だけはしとかないと」
ブリッジから狭い通路を伝ってカーゴエリアへと降りていく。エレベーターもあるにはあるが、身体の浮く微小重力下では『非常階段』用の円筒通路を抜けた方が速いのだ。
「いや、まだ巡航航路に乗っていないのにブリッジを離れていいのか? この辺りはまだ低軌道エリアなんだ。デブリ遭遇の可能性もゼロじゃない」
そういう経験はないが、何かあれば即応が求められる。クロードとしてはあまりブリッジを離れたくはないのだが。
「大丈夫でしょ。この辺りは掃除屋さんの船がしっかり巡回しているし。ネジ1本単位で拾ってくれているから、よほど安心よ」
ローラはあまり気に留めていないようだ。
「ああそうかい……で、何でオレがお供なんだ? こういう役目はメアリーの方が適任だろうに。若いし! 女だし! 少なくともオレよりゃあウケがいいだろう」
ブリッジを降りカーゴエリアに入る途中で、クロードは先行するローラに悪態を吐く。
「文句を言わない。業務命令よ、これは。理由は後で説明するから、ちゃんと着いてきなさい」
ローラも決して乗り気という訳ではないようだが。
「そういう客室乗務員なんざ、操舵手の仕事じゃねぇだろうがよ」
貨物船『アウル』の船内は重粒子変流加速器の影響で微小重力状態になっている。そのため、二人の移動は左手に握っているハンドブースターでの推進だ。一度吹かせば慣性で前に進むから、楽と言えばそうではあろうが。
「何を言ってんの? 貨物船に客室乗務員なんていないんだから。ニュートン航法に移るまで少し時間があるんだし、それまでに挨拶だけしておくわよ」
そう、二人の『行き先』はあの『月国家・ゼグラスの次期国家元首』の元である。
「さぁ、ここよ」
貨物室の一角にある、専用の小部屋。つまり『貨物』として部屋ごと搬入されてきたというわけだ。
「失礼します。船長と操舵手で、ご挨拶に参りました」
「うお……!」
開いたドアの先にいた『ゼグラスの次期国家元首』の姿に、クロードは思わず息を飲んだ。
「……っ!」
一瞬言葉を失うクロードに代わり、ローラが敬々しく頭を下げる。
「はじめまして。私は当船の船長を務めております、ローラ・ポールスターと申します。月の宇宙港に到着するまでの4日間、よろしくお願いします。そして……」
ローラが肘でクロードの脇腹を『さぁ挨拶をして』とばかりに小突く。
「え?! あ、ああ……ああ、その、オ……私は当船の操舵手をつ、務めております、あー……クロード・ウィンディールであります。ど、どうぞよろしく」
思わずしどろもどろにならざるを得ない。何しろ……。
「そうですか。色々と訳があって私は本名を名乗ることができませんが、仮に『カグヤ』と呼んでくだされば結構です」
そう言って、『次期国家元首』は薄っすらと笑みをたたえた。
……これは驚いたな。
やっと、クロードも落ち着きを取り戻す。
もっと厳つい老人をイメージしていたのだ。何しろ月世界の中枢に座る人なのだし。だが、そのイメージは全く外れた。
まさか『女』だとは思わなかったぜ。それも……。
色素不足なのだろう。雪のように白い肌に、真っ白な長い髪。何故だか月にはそうしたアルビノの特徴を持つ人間の割合が多いという。更にその瞳は右がアクアマリンのように透き通った青色で、左がルビーのように鮮やかな紅色。見事なまでの虹彩異色症だ。
シャンとした背筋が美しさと気品を兼ね備え、その端正な顔立ちはまるで彫刻かのような。
そして年齢が。どう見ても10代半ばか、もしくは前半。若くて、この世の者とも思えないほどの美貌。ある意味、少し怖さすら覚えるような。
「カグヤ様のヘッドセットは当船内においてはこのクロードにのみ、通話が可能な状態にチューニングされております。なので、何か御用の向きがございましたら、このクロードにお申し付けを」
ローラは硬い表情のままでクロードに手先を向けた。
「まぁそうですか。ですが、操舵手さんに話しかけをしても?」
小首を傾げる様は天使を彷彿とさせる。何処となく漂うピーチの香りが鼻をくすぐる。
「いや! あの……」
チラリとローラを横目で見やってから、クロードがこれに答える。
「も、もう少ししたらニュートン航法に入りますが、それが終了したら後は目的地までほぼAIが操船しますんで。ど、どうぞお気兼ねなく」
これまで『美しい』『可愛い』とされる女性をどれだけ間近で見てきたかいちいち覚えてもいないが、この目の前にいる『カグヤ』は桁が違う。こうして話をしているだけで口の中がカラカラに乾いてきそうなほどだ。
「ニュートン航法?」
カグヤが初めて聞く言葉に不思議そうな顔をする。
「え、ええ! そう、ニュートン航法。これは……」
無重力船のデメリットのひとつが、加速不足による『鈍足』である。これでは月まで到着するのに数週間も掛かってしまう。かと言ってスラスター加速に頼りすぎると無駄に燃料を消費することにもなる。何しろ載貨重量が12万8千トンにも及ぶ巨体なのだから。
そこで、ある程度の高度を稼いだところで『あえて』無重力発生装置である重粒子偏流加速器の出力を弱め、船体を地球の引力に引っ張らせて落下……加速するのだ。
そして十分に速度が出たところで再び重粒子偏流加速器の出力を上げ、まるでハンマー投げの回転投法のようにして地球の重力圏を脱出。月に向かう。
これが地球の引力による加速航法である。
「ニュートン航法はAIと人間が互いに協力しないと綺麗にキマらないんで、操舵手の腕の見せ所なんですよ。はは……まぁご安心を。フェニックス・輸送部隊、その最高峰のテクニックをお届けしますので……」
おもわず饒舌になるところを、ローラが再び肘で小突いた。
「では、暫しお待ちください。なお、ニュートン航法には1時間ほど掛かりますので、その間は申し訳ありませんがシートベルトで身体を固定しておいてください。では」
そう言って再び敬々しく頭を下げ、二人は最初の『謁見』を済ませた。