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婚約破棄されたのに、王太子殿下がバルコニーの下にいます

「リリス・フォン・アイゼンシュタイン。君との婚約を、破棄する」




——ついに来たわね。




玉座の間に響くその声は、芝居じみた台詞のように堂々としていた。


聖女セリアをかばいながら一歩前に出たアルヴィス殿下が、私を真正面から見据える。




よく通る低音、冷静な表情、そして完璧な間。


まさに予定通りってところかしら。




ゲームで何度も見てきたあのシーンが、今こうして現実になってる。


悪役令嬢リリスとして、この破滅のイベントを迎える運命だってことは分かっていた。




「彼女を泣かせた君の行為は、貴族社会においても看過できない。政略結婚とはいえ、王妃には気品と品位が求められる。私は、王国の未来を思って決断を下した」




ああもう、その口調。完璧に理想の王太子を演じ切ってるわ。


聖女を守り、国家の安寧を願う理知的な王太子殿下。


それで民衆の心を掴もうってわけね?




自分で仕組んだ婚約破棄の筋書きを、「やむを得ず」って顔で語るその演技力。


見事だわ。だけどそれがあなたの最終公演だなんて、少し寂しい気もする。




「セリアのドレスを破き、甘いお菓子を床に撒いて彼女を転ばせた。そんな品性に欠ける行いをする人物と、私は生涯を共にできない」




はいはい、きましたテンプレ台詞!


懐かしすぎて、思わず笑っちゃいそうになる。


あまりにも原作通りすぎて、逆に感心するレベル。




ていうか、お菓子撒いたってなによ。誰がそんなこと言ってるの?


私そんな暇じゃないし、そんな幼稚な嫌がらせなんて、逆にプライドが許さないわ。


もうちょっと斜め上の嘘でもついてくれたら面白かったのに。残念ね。




「では、リリス・フォン・アイゼンシュタイン。最後に何か言い残すことはあるか?」




玉座の間に静けさが満ちる。


家臣たちは息をひそめて、私の言葉を待っている。




ふふ。じゃあ、舞台の締めくくりは、私に任せてもらうわね。




私は一歩、彼に近づいた。


このシーンの台詞は、もうすべて頭に入ってる。


何も怖くない。むしろようやく終わるのだと思うと、肩の力が抜けていく。




「ええ、ございますわ」




私はそう言って、薬指から指輪を外した。


そっと手のひらに乗せると、銀細工の宝石が淡く光を反射した。




「これを、お返しいたします」




そして一拍おいて、静かに微笑む。




「王太子殿下が選ばれた未来の王妃が、どうか貴方のそばで笑顔でいられますように。二度と、誰かの涙の上に立つことのない王であられますように。……心よりお祈り申し上げますわ」




その瞬間、空気がピンと張り詰めた。


私の声が玉座の間の隅々にまで染み渡って、誰もが言葉を失っていた。




アルヴィス殿下は口を開かなかった。


ただ、じっと私を見つめていた。


目を細め、まるで私の心の奥底を覗き込むように。




なに、その目。


冷たいはずなのに、妙に熱がある。


その視線に、一瞬だけ——背筋がぞくりとした。




今のは視線は何?


いやいや、まさか……。






「リリス様っ!」




セリアの声に顔を向けると、彼女が鋭い目で私を睨んでいた。


けれどその瞳には、どこか怯えのような色が混じっている。




まさか、あなたも感じたの?


あの一瞬の、妙な違和感を。




けれど私はそれ以上なにも言わず、ゆっくりと背を向けた。




この舞台は、これで終わり。


脚本通りに、悪役は退場する。




拍手も、歓声もない。


あるのは重苦しい沈黙と、冷たい視線だけ。




でもいいの。これでようやく、私は物語から降りられる。




王妃の座? そんなもの、最初から欲しくなんてなかった。




誰かの期待に応えるために笑って、誰かの脚本どおりに動いて、誰かの物語を生きるなんて、うんざりだった。




私は、私として生きたい。




お気に入りの紅茶と本に囲まれて、庭に咲く花を眺めながら、静かに暮らす。


そんな穏やかな日々を手に入れることが、なによりの幸せだと思っていた。




……たとえ、このルートの先が、ひとりぼっちでも。




自分で選んだ結末なら、きっと後悔なんてしないはずだった。




——あの時までは。










翌朝。


いつもと変わらぬ時間に目を覚ました私は、ふわりと立ちのぼるジャスミンティーの香りに包まれながら、ようやく日常を取り戻した気がしていた。






静かな朝。


窓の外からは小鳥のさえずり。


テーブルには、お気に入りの茶器と新しい本。




ああ、これよ。これが欲しかったの。


誰にも縛られず、誰の期待にも応えず、ただ私のためだけに流れる時間。




昨日の婚約破棄で、ようやく私は役目から解放された。


あとは、心穏やかに静かな日々を過ごすだけ。




そのはずだった。




「お嬢様、バルコニーの下に…」




控えめに扉をノックして入ってきた侍女の声に、私は軽く眉をひそめる。




「記者? それとも、噂好きな野次馬かしら?」




昨日の婚約破棄ショーは、かなり話題になるだろう。


王太子自らが断罪してきたんだから、城下町のゴシップ好きが押し寄せてきてもおかしくない。




「いえ……王太子殿下が」




「は?」




思考が、そこでぷつんと途切れた。


椅子を押しのけて立ち上がり、バルコニーへ駆け寄る。


カーテンをかき分けて外を覗き込むと、そこには




「リリス。おはよう」




……いた。




まぎれもなく、昨日あれだけ冷酷に私を切り捨てたはずのアルヴィス殿下が。


濃紺の礼装に金の刺繍。白い手袋の手には、立派な花束。


完璧すぎるその姿は、まるで貴族の求婚者。




いやいや、待って。


なんでその顔なの?


また会えて嬉しいみたいな表情、完全に意味がわからない。




「なにしてるの?」




「朝の挨拶を」




「帰って」




「嫌だ」




は?


何その即答。


何その笑顔。


え、昨日の婚約破棄イベントって、なんだったの?









それからというもの、王子の朝の挨拶とやらは続いた。


毎朝、決まった時間に、同じ場所に、同じように立っている。


礼装も完璧。髪も靴も、シワひとつない。


そして手には必ず花束。


それも、私の好きな花ばかり。


ラナンキュラス、ライラック、ブルースター。季節外れのものまで取り揃えてるあたり、本気度が逆に怖い。




「何そのラインナップ、どうやって調べたのよ」


問いかける私に、王子は平然と微笑んだ。


「君が庭で話していたのを覚えていただけだよ」


え、覚えてたの? あの何気ないひとりごと。


というか、聞いてたの? あれを?




ある日は、私の好物のジャスミンティーの茶葉を持ってきた。


ある日は、昔読んでいた詩集の一節を、暗唱してみせた。




「なぜそれを?」




「全部、記憶してる。君が誰にも言わなかったことほど、僕の宝物なんだ」




怖い。怖すぎる。


いつからそんな風に……私のことを?




「もしかして、あの婚約破棄も、演出だったの?」




「うん」




即答すな。




「王太子としての立場で、君を守り続けるには限界があった。だから一度、形だけ手放した。でも、本心は最初から変わっていない。リリス。君は、僕のすべてだ」




いやいやいやいや。


どの口が言ってるのよ。


この前、侮辱的な行いの数々に失望したって言ってなかった?






この男、壊れてる。


いや、最初からこうだったのかもしれない。


演じてたのは、むしろ理性のある王子のほうだったのかも。


そして私の心にも、少しずつ小さなひびが入っていく。




「セリア様は?彼女はどうなるの?」




少しだけ勇気を出して尋ねた問いに、王子は一瞬だけ驚いたようにまばたきした。




「彼女は、ただの演者だよ」




その言葉に、今度は私がまばたきする番だった。




「君を断罪する劇には、聖女の涙が必要だったんだ。信頼と感動を誘う為にあの場で泣くという役割をお願いしただけだよ」




……お願い、って。


あの子、本気だったんじゃないの?


それともあれも演技? 本当に?




「そんな裏事情、誰も求めてないわよ!」




「でも、君は聞いてくれた。それだけで、僕の中ではもう答えは出てる」




「何の答えよ」




「君がまだ、僕のことを気にしてくれてるっていう証」




……こいつ、こっちの心のドアを一方的にノックしておいて、開けたら全力でなだれ込んでくるタイプだ。









数日後。


いつものようにバルコニーの下に現れた王太子の手には、小さな金属の箱があった。




「リリス。今日は、これを届けに来た」




「それ、なに?」




「地下室の鍵だよ。二人きりになれる、特別な空間を用意しておいた。


音響も照明も完璧だ。君の好きな鳥のさえずりや、花の香りまで再現したよ」




「え、ちょっと待って。それって誘拐準備完了ってこと?」




「誘拐? 違うよ。迎えに来るって、そういう意味だと思ってたけど……違った?」




「違いすぎるわ!」




いや、なんでそんな顔するのよ。


ちょっとしたプレゼントだよみたいなテンションやめて。




「それ、誰の許可で?」




「許可なんて、いらない。これは、僕からの本気の愛だから」




こいつ、ヤバい。









そして、その夜。




静まり返った屋敷の廊下を歩いていた私は、不意に足を止めた。


背筋に、ぞわりと何かが這い上がってくる。




……視線?




ゆっくりと顔を上げる。


突き当たりの窓の隙間から、冷たい夜風が吹き込んでいた。




そこに、あいつがいた。




「っ、なんで……」




月明かりの中に立っていたのは、アルヴィス殿下。




いつの間に、どこから?


屋敷の中にいること自体、あり得ないのに。




扉の音もしなかった。


誰も気づいていない。


それなのに、彼は当たり前のようにそこにいた。




「リリス」




その声は


優しく、静かで。




「どうやって入ったのよ」




問い詰めるように言った声が、少しだけ震えた。




でも、彼はそれには答えなかった。


代わりに、静かに口を開く。




「僕はね、リリス。君のすべてを知っていると思っていた。どんな言葉も、仕草も、視線も。ずっと見てきたつもりだった」




「……っ」




「でも、捨ててくれてありがとうって君が笑ったあの瞬間—僕の中で、何かが壊れたんだ」




その声音は、あまりにも静かで、あまりにも真剣で。




「壊れたままの心で、君のことばかり考えていた。何度も、何度も。どうすれば、君をまた僕の世界に連れ戻せるかって」




私は、ただ黙って彼を見つめていた。


逃げるには遠すぎて、呼び止めるには近すぎる距離。


心の中のどこかが、ぎしりと軋んだ。




「リリス。君を王妃にしたかったのは、君を閉じ込めるためじゃない。


君に——君だけの王国を贈りたかったんだ」




「……」




「君を中心にした世界。君が笑えば花が咲き、君が泣けば雨が降る。そんな国を、僕はこの手で作ってみせるよ」




あまりにも重たくて、あまりにも真っ直ぐすぎる愛。


その言葉のひとつひとつが、痛いほど胸に突き刺さった。




あまりにも重たくて、まっすぐすぎる言葉。




王国を贈るなんて、まるで詩の一節みたいなセリフ。


でも、それをこの人は本気で言ってる。




私を閉じ込めるためじゃなく、


私に世界の中心を明け渡すために—。王子である自分をも、捨てる覚悟で。




それが本気だって、伝わってしまうから厄介だった。




「ちょっと待って。それってプロポーズ?」




「違うの?」




「いや、多分合ってるけど、前置きが病みすぎなのよ!」




私のツッコミに、アルヴィスは少しだけ笑った。


あの静かな、けれど確かに嬉しそうな笑顔に、心がざわつく。




本当なら、今すぐ逃げるべきだ。


扉を開けて、誰かを呼んで、距離を取って……。




でも、足が動かなかった。




逃げなきゃ、って思っているのに。


“でも”が頭の中を何度もよぎってくる。




こんな私を、全部ひっくるめて愛してくれる人なんて、他にいる?




傲慢で冷酷で、誰にも心を許さない悪役令嬢の私を「美しい」と言って、まっすぐに見つめてくるこの人以外に。




おかしいって、分かってる。


危ないって、何度も自分に言い聞かせてる。




でも、毎朝バルコニーの下に立っていた彼の姿が、花を手に待っていた姿が…


気づけば私の心に、しっかりと根を張っていた。




ああもう。私、末期だわ。


ゆっくりと口を開く。




「次からは、バルコニーじゃなくて、正面玄関から来なさいよ」




アルヴィスの目が、ぱっと見開かれた。


そしてすぐに、驚きと喜びが混ざったような、くすぐったいような笑みが浮かぶ。




「それって、僕を迎え入れてくれるってこと?」




「勘違いしないで。監禁される気はないからね?」




「じゃあ、合法的に永遠に一緒にいよう」




「いやだから、その合法的ってワードが地味に怖いのよ……」




「リリス。君が笑ってくれるなら、僕は何度だってこの世界を書き換えるよ。君の幸せが、僕の生きる意味なんだ」




やっぱりこの人、どう考えてもヤバい。




でも。そんな重たすぎる愛情すら、今の私には、どこか心地よく思えた。




「はあ、もう知らない」










こうして私は——


婚約破棄された悪役令嬢から、


世界で一番厄介な王太子の最愛へと、まさかの再ルート突入を果たしたのだった。

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