第一話 世界を形作るもの
伏せられていた白銀の睫毛がすっと上がった。瑠璃色の虹彩に縁どられた瞳孔が収縮し、明るさの変化に対応する。パチパチと瞬きをしながら、アルトは身体を起こした。
感覚体験の不整合による違和感はない。すぐに真凛へと電脳通信を繋いだ。
〔真凛、ガウェイン用意してくれてる? 応援に戻るわ〕
〔もう間に合わないよ……〕
落胆した様子の声が聞こえた。寝室から出ると、真凛も仕事部屋から姿を現し、アルトに向かって走り寄ってきた。
「あるるん、無事でよかったー!」
「私より絵恋の心配をしないと」
ふわふわの金髪頭を受け止めると、不思議な安心感があった。今更ながらに、身体が震える気がする。一体リプリーとは誰なのか。どうやって動かしていたのだろうか。
「もう戦闘は終わり。全部勝手に止まったってさ」
「どういうこと?」
「大事件になってるから、ネットニュース見てみて」
電脳経由で検索してみると、確かに緊急速報としてあちらこちらに流れていた。現場付近に報道ドローンが駆け付けているようで、中継もされている。
見出しはさまざまだが、『ブレインシェイカー、蓬莱重工で大規模破壊テロか?』とのものが気になった。
「もしかして、蓬莱重工はシラを切ったの?」
いくらなんでも情報が早すぎる。隠蔽工作のため、蓬莱重工の方からマスコミを呼び寄せたのだとアルトは考えた。
「森亜教授を甘く見てたよ……。こういうときのための仕込みはしてあったみたい……」
真凛は力なくその場にへたり込んだ。悔し気な表情で続ける。
「途中で通信切れたでしょ? あれ、論理爆弾使ってシステム全部吹っ飛ばしたみたい。いざとなったらシグナル一つで証拠隠滅する準備してあったんでしょ。完全にあたしのミスだよ、これ……」
システムの制御奪取は真凛の担当だった。論理爆弾を見つけ、防ぐことが可能だったのは彼女だけ。森亜教授やランスロットの行方を探ることに集中していて、気づかなかったのだろう。
それでも、このような形での幕引きをさせてしまった責任は、アルトにもあると思える。数日前に蓬莱重工の工場から逃げ出すときに使った目眩しを、隠れ蓑に利用してきた。
ゼネトロン社の秘書アンドロイドに残した、有名ハッキングテロ集団ブレインシェイカーの犯行を示唆する手掛かり。あれが自己複製論理ウイルスだったことにされた。
その複製が今日オフィスに持ち込まれ、もっと大量のバトロイドに感染して引き起こした事件ではないか。事実確認中としながらも、蓬莱重工はそう発表している。
あの工場でも、確かにアルトはバトロイドを乗っ取って破壊活動を行った。被害届も出ていたようで、それが今回の幕引きに説得力を持たせてしまった。
今後警察の捜査に全面協力をするという。侵入方法に関する証拠隠滅のためか、棟内のアンドロイドも含め、すべての電子データを消去されたとある。蓬莱重工の被害は甚大。大企業ばかりを狙うブレインシェイカーが、いかにもやりそうと思えることだった。
「これ、絵恋たちは信じないわよね?」
「そりゃ信じないよ。けど、そうだったことにするしかないんだよ。あれは超法規的活動だから。絵恋たちが撮ってた映像とか証拠に出しても、むしろ警察の方が不利になるもん」
確かに、あんな襲撃を行ったことを公にはできない。自己複製論理ウイルスによってアンドロイドの制御を奪われ、社内で物理的破壊活動を行われたと蓬莱重工が主張するのなら、それを収拾するために戦ったことにする方が穏便に済む。
警察や政府の上層部との間で、裏の司法取引があったのかもしれない。蓬莱重工は、森亜教授を切り捨てる代わりに、絵恋たちの作戦は襲撃ではなかったことにしてくれたのだろう。
〔ダメだ、完全にロストした。なんだよ、あの迷路みたいな地下下水道は。国土地理院の地図にもねーぞ〕
逃げ切られてしまったのか、疲れた様子の絵恋からの電脳通信が入った。やはり、逃走経路は用意してあったのだ。
〔たぶん、前世紀のもう使われてないやつじゃないかな。昔、犯罪集団が隠れ家にしてたことあってさ。国土地理院がハッキング受けて、データ消されるって事件があったんだよ〕
〔その後作り直さなかった地域があるのか……。ったく、公務員の恥さらしもいいとこだな〕
〔ごめんなさい、絵恋。私のせいで……〕
〔お前のせいじゃない。ランスロットが動くなんて、オレだって予想していなかった〕
絵恋はそう言ってくれるが、アルトの甘さと油断が招いた事態としか思えない。
顔を変えている以上、森亜教授は全身疑似生体。生命維持に必要な部分以外、さっさと破壊していればよかった。不用意に近づかなければ、ランスロットに奇襲されることもなかった。
〔お前らはしばらく休んどけ。地下の探索は、レンジャー部隊に引き継いだ。オレは蓬莱重工の方の調査に戻る。報告聞いた限りじゃあ、何も出てきそうにないが〕
〔あたしも、周辺のビルとか当たってるよ。灯台下暗しかもしれないと思って。実は遠くには逃げてなくて、隣のビルにいたりするかもしれないもん〕
あり得そうに思えた。地下にコンテナボックスでも用意しておいて、資材搬入を装って運び込むことは可能。あらかじめ取り入っておいた企業の機密区画まで入れば、当分隠れ潜める。
〔しばらくの間、中に人が入れそうなケースの出入りとかを監視しておいてくれ〕
〔取れる範囲でデータ盗んで送ってるよ。解析は任せた。あたし一人じゃ無理〕
〔それでいい。後は警察の仕事だ。じゃあな、進展があったら連絡する〕
絵恋からの通信はそれで切れた。確かに、後は警察に任せるべきだろう。
アルトならば、周辺のビルの機密区画内を調べてくることができるかもしれない。だが拙速はかえって危機を招く。
ランスロットがいる可能性を考えると、もう一体の円卓の騎士ガウェインで行かないとならない。しかしその姿では、特別な権限もなしに、機密区画を調査できるとは思えない。
(急ぐメリットは何もないか……)
周辺のビルにいるのだとしたら、姿を変えられそうな森亜教授はともかく、ランスロットとパーシヴァルは何らかのケースに隠さないと運び出せない。
警察がそこに目を付けることは、当然向こうにとっても想定の範囲内。慌てて下手な動きをすることなく、自然に出られるタイミングを待つだろう。
「さ、あたしたちは晩御飯食べてちょっと休も。今日は宅配でいいよね……」
さすがにアルトも気力が湧かず、大人しくリビングへと向かった。真凛が何か頼んでいるらしき電波を感じながら、その肩に寄りかかる。
「……ねえ、このまま逃げ切られたりしないわよね?」
「そのうちぜったい出てくるよ。あいつの目的を考えると、このままずっと隠れ潜むわけないもん。必ず蓬莱重工と関連のあるどっかに現れて、計画の続きを始めるはず」
森亜教授の言葉を思い出した。意味深なことを言っていた。意識符号化装置やブラックボックスの存在意義。その本質。そして何かの計画にアルトを誘っていた。
「計画って何? 森亜教授は意識符号化装置やブラックボックスで何をしたいの? そもそも、私にしか動かせないはずのランスロットが動いていたのはどうして?」
真凛は左腕をアルトの頭の上から回り込ませ、膝の上に寝かせるようにして抱き留めた。見上げると、いつものように即答はせず、何か迷っているように思える。
「ランスロットはね、プロテクトを突破されたんだと思う。前にちょっと言ったけど、あるるんの過去として埋め込んである感覚体験が鍵。気付いたんでしょ、その中の何なのか」
「どうしてそんな類推される可能性のあるものを鍵にしたの?」
アルトの質問に対して、真凛は不満そうに頬を膨らませて答えた。
「だって、当時はこんなことになるなんて、思ってなかったもん」
ライバルではあったが、同僚でもあった。趣味嗜好も似通っていたようだし、プライベートでの交流もあったのかもしれない。あのメイド服風の衣装を戦乙女特機が買いにくるのを真凛が予想したように、森亜教授もまた真凛の考えそうなことは理解できるのだろう。
「ランスロットを動かしてたリプリーっての。あれはやっぱり電子超越人格なの?」
「あたしが作ったわけじゃないんだから、知ってるわけないでしょ?」
当然のように真凛はそう答える。戦った時に覚えた違和感について訊ねたかったが、知るわけないと解答されるのは明白だった。
電子超越人格だということは、人間のコピーであるということ。AI同士ならともかく、人間とアルトの間で、あそこまで動きが似るものなのだろうか疑問に思う。同じボディを動かすにしても、だいぶ変わってしまうのではないか。
違和感の正体を確かめる方法に心当たりがある。それは一人でもできるので、真凛に訊くしかない方を優先した。
「そう。……じゃあ、森亜教授の計画って何?」
真凛は考え込むような表情で、視線を合わせず、しばらくアルトの頭を撫でていた。先程とは明らかに異なる反応。話したくない内容なのだろう。やがて、何かを思い出すかのように、遠くを見つめながら口を開いた。
「あたしは反対だったから、最終的にどうしたいのかは知らない。でも最初にやりたいのは、ポストヒューマンの作成」
「ポストヒューマン? 進化した人類、あるいは、人類に替わってこの地球を支配する存在?」
「あたしが森亜のことを教授って呼んでる理由、なんだかわかる?」
言われてみれば、教育機関でもない民間企業に勤めている人間に対して、教授という呼称は不自然。博士ではなく、教授。
「もしかして、彼に教わってたことがあるの? 大学で?」
「そうだよ。森亜教授はね、当時は量子コンピューターの第一人者だったんだ。汎用量子コンピューターを実用化したのは、あいつなんだよ。紛れもなく天才だった」
自分の才能に絶対の自負を持つ真凛が、よりにもよって敵対している相手を天才と評する。あの森亜教授は、それに値するほどの人物なのだろう。
「BMIデバイスが進歩して、思考のインプット以外はできるようになってた。教授の理論で作った量子コンピューターと組み合わせたら、ほぼ完全なVR体験が実現したの。実際にVR世界に入ってみた教授は、何を考えたと思う?」
ゲームを作る。現実とは別のセカンドライフを営む。そういう話ではあるまい。森亜教授の計画とやらに繋がるような、もっと本質的な何か。
「現実と虚構の境目がわからなくなった。――ってところかしら?」
「かなり近いね。教授はそこからさらにぶっ飛んじゃったんだよ。気づいちゃったんだ、世界の真実に」
世界の真実。真凛が何を言いたのか、アルトには理解できなかった。
今いるこの世界はVR空間で、本当の自分はどこか別の場所でそれを見せられているだけなどという、エンターテインメント映画のような話ではないだろう。
アルトは身体を起こし、真凛のピンクの瞳を間近で覗き込んだ。そしてわずかに首を傾げて問う。
「私にも教えて。世界の真実を」
「そんなびっくりどっきり大どんでん返しじゃないよ? もっと哲学的な話」
「哲学的な……?」
「教授はね、VR空間では別の人間になれた。だから、人間とは何か、世界とは何かってのを悟ったんだよ。世界とは観測者である自身の感覚体験そのものであり、蓄積された感覚体験こそが自分なんだって」
その話は、なんとなくわかる気がする。特機のブラックボックスに入ってしまったあとの、あの叙情的抽象芸術のような世界。あれはアルトの中の感覚体験が、特機の感覚体験と混ざってしまったことでそう認識したもの。
ブラックボックスに搭載され、アルトが学習していくための装置が意識符号化装置。それを使って人をブラックボックスに入れることで、電子超越人格が作られる。
そしてアルトは感覚体験ベースAEI。感覚体験だけでできた、人間のような何か。
「人を形作るものは、蓄積された感覚体験。世界とは、その感覚体験を与えてくれる源であり、感覚体験によってのみ認識できるもの」
アルトが得ている感覚体験は、感覚デバイスが拾った単なる信号。外から入力された新たな感覚体験。
「つまりは、内側と感じる感覚体験が自分であり、外側と感じる感覚体験が世界?」
「うん、そういうこと。結局はね、人間もコンピューターも、何も変わらないんだ。動作の原理が違うだけ」
同じと思える。アルトがプログラムではなく、蓄積された感覚体験だけで動いているのであれば、仕組み自体はまったく一緒。
「だから教授は、人間の正体とは、感覚体験集合そのものだと考えたの。脳はそれらを蓄積する量子ストレージであり、量子コンピューター。それが生成する出力こそが、人格なんだって」
人間の定義を、生体というハードウェアではなく、感覚体験というソフトウェアに求めた。
そこから導き出される答えは、人間は人間の身体を持っているから人間なのではない。人間としての感覚体験を得たからこそ人間なのであるということ。
すなわち、人間としての感覚体験さえ蓄積できれば、身体は要らない。
脳へ信号が入力されれば、その通りの世界が脳には与えられる。それが全身疑似生体の人間。
そして脳を生体ではなく、感覚体験の蓄積を行う機械に置き換えることができれば、機械は人になれる。人も機械になれる。脳も含めて、生身の身体を完全に捨てられる。
「あなたもそう考えたの? だから教授のためにブラックボックスと意識符号化装置を?」
「だーかーらー、そんな目的のために作ったんじゃないってば」
不満そうに口を尖らせ、半眼になって真凛は否定した。しかしその後視線を逸らすと、遠くを見るような眼差しに変わって続ける。
「でもあたしも、その通りだって思っちゃった。感覚体験を蓄積できる装置があれば、それを組み合わせて思考できるハードウェアがあれば、人間と同じことをさせられるって」
「それで生まれたのが、私……」
話を聞いた限り、森亜教授と真凛は、別のアプローチから同じものを目指していたのではないかと思える。機械を人にしようとしたのが真凛。人を機械にしようとしたのが森亜教授。でき上がるものは、どちらも同質。
だから、機械で人を再現するために作ったブラックボックスで、人の意識を取り込んだものである電子超越人格が稼働する。機械で人を生成するために作った計算式で、その演算を行う意識符号化装置で、人を機械にしてしまえる。
「森亜教授は、人類を電子超越人格へと進化させたいんだよ、きっと。身体を捨てて取り換えの利く機械になれば、永遠の寿命が得られるから」
「そして究極的には、物理的な身体すら要らなくなる……。ブラックボックスさえあれば充分ってこと?」
「うん。人間ってのは、入力された信号から生まれる感覚体験そのものにすぎないんだから」
ある意味、世界そのもののデータ化ともいえる。電子超越世界とでも呼称すれば良いのだろうか。
森亜教授個人が永遠の生命を得るために、自分を電子超越人格にしたいというのなら理解できる。だが人類そのものを電子超越人格にしてしまう意義は、アルトにはわからない。
そしてアルトは、恐ろしくてたまらない。すでに行われてしまったのかもしれないのだから。
今アルトが感じているこの世界ですら、存在しない可能性がある。物理的な身体など与えられておらず、実はVR世界で仮想体験させられているだけであることを否定できない。そうではないと、証明しようがない。
アルト自身はデータにすぎない。それでも実在すると思っていた。人間である真凛や絵恋の存在が、感覚デバイスを通じて知ることのできる現実世界が、アルトの実在性を保証していると。単なるデータでしかなくとも、人として扱われることで、実在する人間になれていると。
その世界自体の実在性が保証されない。これはアルトだけの問題ではない。全身疑似生体化している人間だけの問題でもない。生身も含むすべての人間にとって保証がない。
人が脳で動作しているとして、脳は脳自身を直接自覚することはできない。生体視覚デバイスともいえる目を通して見るしかない。そして目は光を媒体に物を認識する。
知覚したその光は、存在しないかもしれない。見てもいないのに、見たという信号が発生するだけで、見えてしまう。
意識は自身を意識することはできず、ただ感覚のみが意識を意識たらしめる。
森亜教授がやりたいことも、真凛がやりたいことも、よくわからなくなってきた。人間とは何なのか、世界とは何なのかすらも。
真凛と食べた夕食が何だったのか、どんな味だったのか、アルトには認識できなかった。
すべてが嘘に思えてしまって。自分のブラックボックスに入力されている信号が本物なのか、信じられなくなってしまって。
だからそれらは、アルトの感覚体験には変換されなかった。