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G線上のクオリア  作者: 月夜野桜
第二章 意識符号化装置《クオリア・コーダー》
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第二話 私が私であるために

 真凛を床に降ろすと、壁の時計を見上げた。もう夕方になっている。真凛の貯水タンクが空になるのも、致し方ないと思えた。十五時間くらいは意識を失っていた様子。


「少し円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンドテーブルを動かしてくるわ。真凛、どっちの出撃依頼がきそうかしら?」


「そんなことより、晩御飯作ろうよ、晩御飯。あたしもう、お腹ぺっこぺこ!」


 そう言ってアルトの質問は完全に無視して、手をつかみキッチンへと引っ張っていく真凛。こういう反応をするだろうとは、予想していた。


「でも、いつ依頼くるかわからないわよ?」


 くるりと振り返った真凛は、眉を吊り上げ両手を天に突き出して大声で叫んだ。


「あたしとランスロット、どっちのが大事なのさー! お腹空きすぎて死んじゃってもいいの? 意識符号化装置クオリア・コーダー使って、あたしをランスロットに入れちゃう気なの?」


 居たたまれない気持ちになった。真凛が理不尽な駄々をこねるのは、きっと真実を隠したいとき。バックアップを取りたがらない理由も、一部だけでの意識転送トランセンスに目くじらを立てるのも、買い物のためにわざわざ実店舗まで行ったのも。


 もしかしたら、戦乙女ヴァルキュリアシリーズ特機のカタログを渡したときに外見の話ばかりしていたのも、そうかもしれない。AIの性能の話をされたくなくて。


 そして今アルトが一番恐れているのは、ヴァイオリンを弾いたときの話。アルトを楽譜に例えていた。『楽器を変えても、アレンジしても、アリアはアリア』と言っていた。


 単語を置き換えてみると、アルトにとって認めたくない事実が浮かび上がる。ブラックボックスを変えても、変質してしまっても、アルトはアルト。


 今の自分は、戦乙女ヴァルキュリア特機によってアレンジされてしまった、別のアルトのようなもの。アルトというのは個体名ではなく、AEIアルゴリズムの名称なのかもしれない。


 だとしたら、単に同じプログラムで動いている別の意識にすぎない。


 それが真実なのか、自分では確認できない。思い出せる記憶そのものが、変化してしまっているのだから。


 その場にがくりと膝をついて、真凛の胴にすがりつく。瞬きをすると頬を伝う雫の感触がして、泣いているのを自覚した。震える声で、真凛に問う。彼女は認識できているはずだから。


「私は、私じゃなくなってるの……? もう、別のアルトなの?」


 すぐには答えが返ってこなかった。しばらくして、慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと真凛が囁いた。


「どっちの意味で聞いてるのか、あたしにはわかんない。けど少なくとも、バックアップから戻してはいないよ」


 振り向いた真凛は、母親がいたらこんな感じだろうと思う、優し気な微笑を浮かべていた。


「残さないことに決めたんだ。人間と一緒で、死んじゃったらそれで終わりにしようって」


 真凛の答えを聞いても、涙は止まらなかった。アルトにとっては最悪の方になっているのかもしれないということだから。


 たとえバックアップであっても、その時点ではアルト以外の何者でもなかったもの。今は、アルトと呼んで良いのかどうかわからないものに、変化している可能性がある。


「ねえあるるん、またヴァイオリン弾いて。あたし、アリアが聴きたい」


「……なんのために弾くの?」


「あるるんがあるるんのままか、確かめるため」


 にっこりと真凛が笑う。誤魔化さなかった。『あたしが聴きたいからに決まってるでしょ!』などとは言わなかった。


(そっか……私が私であるのなら、弾けるはず)


 音楽性の理解と繊細な演奏技術の習得は、疑似人格AIにとって最も難しいことの一つだと言っていた。ならば聴けばわかるのだろう。


 アルトがアルトでなくなっているのなら、それはきっと同じ人間が別の時に弾いた演奏ではなく、他人によるまったくの別物になるから。


「わかった。弾いてみる。私の心のすべてを載せて」


 涙を拭うと、リビングの隅のヴァイオリンケースを開いた。指先に触れる木の感覚。それはアルトの中の感覚体験クオリアと同じ。


 右手で弓を持ち、左肩にヴァイオリンを載せて顎で挟む。そっと二番目の弦、A線に当てて引いた。


 わずかに基準音からずれた音が鳴る。敢えて聴覚デバイスの示す周波数の値は参照せず、感覚だけで糸巻きを回して合わせていった。綺麗な和音が響くように、少しずつすべての弦の張りを調整していく。


 真凛の淹れた紅茶を味わった時と同じように、ヴァイオリンの奏でる音に沿って、アルトの中の感覚体験クオリアが揃っていく。何をさせたかったのか、はっきりと理解できた。


 これから弾くアリアが重要なのではない。この調律こそ、やらせたかったのだろう。これはヴァイオリンの調律ではない。アルト自身の調律。


 アルトの根幹を成す基準音のような感覚体験クオリアに合わせて、他の感覚体験クオリアを整えていく儀式。不協和音となる、余分な感覚体験クオリアを排除するためのもの。


 調律を終えて真凛を見ると、彼女は真凛に見えた。先程とは少し異なる、アルトが知っていた真凛に。彼女は一切変わっていないのだから、アルトの感覚が変化したのだろう。


 自分が戻ってきたという実感が沸いてきた。四番目の弦、G線に弓を当てる。自らの心を落ち着かせるように、優しく引いた。


 奏でられたのは、アルトの心。澄み渡った秋の空のように、叙情的な音が鳴り響く。小春日和のように暖かく、優しい波動を広げていく。


 いつも真凛の疲れを癒しているその曲は、傷ついたアルトの感覚体験クオリアをも修復してくれるようだった。


 パチパチパチと、小さな手が叩かれた。まるで母親のように柔和な微笑みを浮かべて、真凛がアルトを見守っている。


 救われた気がした。真凛はいつでも、アルトを助けてくれる。


「ねえ真凛。出回ってるブラックボックスって、どれも単純コピーしたものだって言ってたわよね? 別のを作れるわけないって」


「そうだよ。もう出荷してたし、ブラックボックスだけじゃ何も悪さできないから、製造ラインまでは壊してきてない。同じのがずっと量産されてる」


 真凛の返答は、アルトの中にふと思い浮かんだ疑問を否定していない。意識転送トランセンスでいつも忍び込んでいるブラックボックスは量産品。戦乙女ヴァルキュリアシリーズに量産型と特機があるのなら。


「もしかしてこのボディに入ってるブラックボックスって、普通のとは違う特別なもの?」


「もちろん! そのボディも、円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンドテーブルシリーズとは別に、後から作ったあるるん専用の特別製。あるるんが、一番あるるんらしくいられる場所」


「私が……私らしく?」


「だって、あるるんはその中で生まれたんだもん。だからね、出動しなきゃいけなくなるまでは、なるべくそこにいて。自分をしっかり意識して、特機の電子超越人格トランセンドから受けた影響を消していって。いつもと同じことしてれば、きっと自然に戻るから」


 すとんと腑に落ちた気がした。確かにこの中が一番居心地がいい。


 これは日常生活用のボディ。自由にブラックボックス間を行き来可能なアルトにとっての、自宅みたいなもの。だからここにいれば、自然と自分に戻れる。


「あるるんさ、たぶんあの特機への意識転送トランセンス、キャンセルしたつもりだよね?」


「ええ。でも、中のこと覚えてるわけだから、一度入ってすぐに出てきただけなのね? 元いたバトロイドの中に残ってた私のデータに、ロールバックできたわけじゃない」


「理論的にはそう。だから、あるるんがあるるんじゃなくなっちゃってないか、心配だったんだ。実際、変な感覚体験クオリアいっぱいあったみたい。明らかにおかしいのは消去したけど、潜在空間内のデータなんて、人間には理解不能だし、簡単に切り貼りできるものじゃないから……」


 アルトの中の幼少時の記憶として設定されているもの。呼ばれている名前が違うから修正してくれと頼んでも、無理と言われた。


 他人に識別できるものではなく、一つ一つの感覚体験クオリアが記憶に対応しているわけでもなく、組み合わせ集合こそが意味を生み出すのだろう。


 例えるなら、今のアルトは、塩と砂糖を入れ間違えて焼いてしまったケーキ。形を保ったまま、塩を砂糖に置き換えることは不可能。一度薬品で溶かして分解すれば、塩を分離できるかもしれない。しかし、元のケーキには戻せない。


「でも私は、人間と同じなのね? このボディの、このブラックボックスの中にいて、元のアルトとして暮らしていれば、自然に異質な感覚体験クオリアは排出される。人間が毒物を飲んでしまっても、生きている限りは自然と排出されて健康に戻れるように」


 大輪の向日葵のような真凛の笑顔が、その答えだった。


 アルトは特別製のAEI。森亜教授が作ってくるだろう電子超越人格トランセンドに対抗し、真凛を守るために生まれてきた。そして普段は、真凛に愛でられ、癒してあげるために。


(そう、私は真凛の愛玩用AEI)


 自分を取り戻せた気がした。であれば、まずは形から入るのがいい。


「ちょっと待ってて。着替えてくるわ。その後、晩御飯作る」


「今日はあたしも一緒にやるー。カレー作ろうよ、カレー。材料足りないの配達頼んでおくよ」


 さすがに買い物からではないらしい。朝から何も食べていないのだろう。水すら飲んでいなかったようなのだから。


(もう少し早く作れて、胃に優しいものを選べばいいのに……)


 そう思ったものの、全身疑似生体の真凛に対して行う気遣いではないのかもしれない。こんなところまで変に人間らしくなっている自分に、アルトは苦笑した。


 着替えながら、まずは買い物と言われても、これでは外に出られなかったと思った。さすがに恥ずかしい。この買ってもらったばかりのメイド服――風の衣装では。


 キッチンへと戻ってくると、案の定真凛は、大きな目をさらに大きく見開き、飛び跳ねて喜び出した。


「かーわーいーいー! やっぱりあたしの見立てに間違いはなかった。森亜教授が選ばせてたのは、品がなさすぎたよね!」


 興奮して早口にまくし立てる真凛。潤んだ瞳で蕩けた笑みを浮かべる。


「清楚な中にほのかに漂う色気。くわえて、少女から大人に脱皮しつつあるように見えて、実際はちょっと背伸びしてるだけのこの感じ。こういうのがいいんだよ!」


「はいはい。あなたにも作ってあげるわ、似たデザインのやつ」


 熱く語り出す真凛の頭をポンポンと叩きつつ、女性だが心配ではあると語っていた絵恋の言葉を思い出した。手は出してこないのかもしれないが、衣装の選択はエスカレートする可能性がある。


「お、あるるんもそっちに目覚めた? いいよ、あたしは。あるるんになら、ぜんぶあげても」


 頬を染めて身をよじる真凛を見て、これもアルトが自分を取り戻すための行動なのかと考えた。


(絶対違う。これはただの性癖)


 とりあえず、あの戦乙女ヴァルキュリア特機のことはいったん忘れて、日常に戻らなくてはならない。


 ふんふんと鼻歌を歌いながら、ジャガイモの皮を剥き始める真凛。その姿を微笑ましく眺めつつ、アルトはそう割り切った。


「ねえ、ジャガイモじゃなくて、指の皮剥いてしまいそうで心配なんだけど……?」


 全身疑似生体のくせに、不器用すぎる。包丁もまともに扱えていない。一人の時は宅配で済ませるから必要ないのはわかる。しかし、手料理をするのにこのままというのは怖い。


「調理用制御プログラム、疑似生体に入れたら? 電脳経由でオンデマンドインストールできるわよね?」


「あるるん」


 包丁を置いてこちらを振り向いた真凛を見て、また聴覚フィルタを使った方がいいかどうか迷った。これは来る。怒涛の小言が。


「自分ののーみそで動かさなきゃ、自分で作る意味がないでしょー!」


 腰に手を当て、もう片方の手でアルトを指差し眉を吊り上げる真凛。


「調理用制御プログラム? そんなの入れて身体を勝手に動かさせたら、それアンドロイドに命令して作ってもらうのと一緒だよね? 自分でお料理したことになんないよね?」


「わかった、わかった。とりあえず包丁はやめて。あなたのボディ、リアルすぎるんだもの。血が出そうで怖いわ」


 自分の指も心配である。切ってしまったことはないが、出てきそうな気がするくらい細部まで作り込まれている。


 とはいえ、真凛の言わんとすることは、わかる気がした。一つ一つの細かい動き、人工筋肉一本一本まで自分の意思で制御して、初めて自分で作ったと言えるし、自分の身体になっていると言える。


 このボディは、そういった細かいところまで自覚できるよう製造されているのだろう。だから特別製。何から何まで人間に似せて、人間としての感覚体験クオリアを得やすくするための設計。


 真凛がこのボディにこだわるのも、今はなるべくこの中にいろと言ったのも、そういうこと。アルトがアルトであるために。アルトが人間であるために。


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