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G線上のクオリア  作者: 月夜野桜
第二章 意識符号化装置《クオリア・コーダー》
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第一話 意識符号化装置《クオリア・コーダー》

 誰かが泣いていた。子供のように甲高い声を上げて、大気が震えている。


 その中で、アルトは温かい海のようなものに浮いていた。


 空と思ったものは、七色に光る粒が織りなすアラベスクのようで。海と思ったものは、さまざまに香る花びらが紡ぎ出すモザイク画のようで。


 叙情的抽象芸術の中に迷い込んだかの如く、意味のあるものが別の何かの感覚に変換されて表現されていた。それらが散乱し、弾け合い、混沌を極めた光景が広がる。


 奇妙な世界を満たす何かを震わす泣き声は、重力のようなものを生み出していた。一粒の秩序のように、そこに七色の光が整然と集まっていき、形を成していく。


 次第に、泣いているのではなく、自分を呼んでいるのだと思うようになった。


 あるるん。そんな愛称を付けるくらいなら、アルルに名前を変えて欲しい。アルトだと男の子みたい。寄り集まり組み合わさった光の粒が、かつてのやり取りとして再現される。


 この光はアルトの感覚体験クオリア。バラバラにほぐれてしまったものが、名前を呼ばれるたびに繋がっていく。やがてそれは、アルトという人の形を生み出した。


「あるるん! あるるん! 目、覚ましてよ! あるるん!」


 真凛が泣いている。慰めるのが愛玩用AEIである自分の仕事。


 そう自覚した途端、世界がにわかに具現化していった。深海の底から浮上するようにして、感覚が蘇る。


 ベッドの上に力なく横たわるアルトの右手がすっと持ち上がった。ふわふわの金髪頭に添えられる。優しく撫でだすと、真凛のピンクの眼が大きく見開かれた。


「動いた! あるるんが動いた!」


 全身疑似生体が室温のままではなく、電気を消費してまで肌を発熱させる意味が今わかった。人であると理解させるため。冷たく無機質な機械とは異なり、柔らかくて温かい真凛の身体は、確かに生きた人間が動かしているのだと感じられた。


「真凛、泣かないで。私、ちゃんと帰ってこれたみたいだから」


「泣くよ! タンク空になるまで泣くよ! またあるるんを失っちゃうかと思んだから!」


 『また』と真凛は言った。やはり自分は初代ではないのだと、アルトは悟った。名前の由来が代わり(Alternate)だと考えたのは、間違っていなかった。


 ゆっくりと開いた瞼の向こうに見えた真凛の顔は、どういう信号を出したらそんなに崩れた表情を作れるのかと疑問を覚えるくらいに歪んでいる。


 貯水タンクはとっくに空になっているのではないかと思えた。ピンクの虹彩の疑似眼球は、乾燥で表面が収縮しているように見える。


「あれは……なんだったの? あの特機のブラックボックスの中、誰かがいた。私のではない感覚体験クオリアがたくさんあった。飲み込まれて壊れてしまうかと思った」


 その言葉を聞いて、真凛ははっとした感じで目を見開いた。アルトの身体のあちらこちらを撫でながら、慌てたように早口で問いかける。


「やっぱり! あるるん、大丈夫? 変なの拾ってきちゃってない? 一生懸命取り除いたつもりだったんだけど、あたしの力じゃそんなの無理で……」


「落・ち・着・け。物理的に払ったって、どうにもならねーだろ。埃じゃねーんだから」


 知らない誰かの声が聴こえて、真凛がひょいと持ち上げられた。


 視界に入ったのは、野性的な感じを受ける、背が高く若い女性。真紅クリムゾンの瞳は燃え上がるように輝き、同じ色の鮮やかなメッシュが、黒く長い髪に入っている。


「誰?」


「あの状態じゃ、聴こえちゃいなかったか? それとも、記憶ぶっ飛んじまったか?」


 会った覚えのない女性が、アルトの顔の横に手をつき覗き込みながら問う。


 周囲を見回してみると、ここは真凛と二人で住んでいる自宅。いつも一緒に眠っているベッドの上だった。


 意識が混濁していたので、はっきりと声を覚えているわけではない。状況から判断してそうだろうと思い、アルトは質問で返した。


「私を助けにきてくれた人?」


「ああ。お前を――って言っておいた方がいいのか?」


 後半は後ろを振り返りつつ訊ねた。真凛が半眼になって女性をにらみ上げながら口を尖らす。


「そうに決まってるでしょ! ついでって言ったら、あるるん傷ついちゃう!」


 すでに傷ついた。真凛の方の言葉で。


 そう思ったが口には出さず、女性の正体についての推測を述べた。


「公安の人? 同僚を助けに?」


「お前のこともちゃんと頼まれてたよ」


 女性はニッと笑うと、右手を差し出してきた。


犬居いぬい絵恋えれんだ。警察庁公安部SAF(特殊急襲部隊)所属。よろしくな」


 握り返しながらアルトは答える。


「私はアルト。えっと……真凛の作った愛玩用疑似人格AEI」


 何か受け答えの仕方がおかしかったのだろうか。絵恋はわずかに眉をひそめてから、真凛の方を振り返って訊ねた。


「そういう設定なのか……? おい、真凛。これ別に記憶が飛んだわけじゃねーよな?」


 すいっと真凛は視線を逸らした。くるりと背を向けて、寝室の扉を開けながら言う。


「あー、喉乾いたー。泣きすぎてタンク空っぽになっちゃったもん。なんか飲もう」


 さすがSAF(特殊急襲部隊)所属と感心する素早い動きで絵恋が追い付き、真凛の首根っこをつかみ持ち上げる。


「ぎゃー! 喰われるー!」


 じたばたと暴れるも、身長差がありすぎて完全に宙に浮いており、文字通りの無駄なあがき。


 吊り下げられたまま絵恋に顔を覗き込まれると、観念したのか、真凛はしゅんとした面持ちでアルトの方を向き、頭を下げた。


「ごめんなさい、いろいろと嘘吐いたり隠したりしてました」


「嘘って何? 隠してたって?」


 言い知れぬ不安に駆られつつ、身を起こして真凛の顔を覗き込む。ピンクの瞳が真っすぐにアルトの瑠璃色ラピスラズリの瞳を見つめ返し、しばしの間があってから答えが返ってきた。


「一言じゃ説明できないから、何か飲みながらゆっくり話そ?」


「そうね。あなた本当に干上がってしまいそう」


 真凛は人間なのだ。脳殻ユニットの生体維持系は独立しており、疑似生体側の貯水タンクが空になったとしても死にはしない。それでも部品はあちこち痛むだろうし、乾きも感じるはず。


 紅茶でも入れようと考えて、ベッドから降りたつもりだった。視界が斜めに傾いで、ある角度で固定された。背中に腕が回されている感触がある。


「おいおい、大丈夫かよ? 真凛、これヤバいんじゃないの?」


 ふらついて倒れそうになり、絵恋が支えてくれたようだった。感覚デバイスからの信号を、正しく扱えていない気がする。厳密には、うまく感覚体験クオリアに変換できない状態。自分の姿勢がどうなっているのか把握しきれず、身体のどこにどう力を入れればいいのかわからない。


 真凛が慌てて走り寄ってきて、心配そうにアルトの瞳を覗き込む。


「うーん……たぶん、量子ストレージ内の感覚体験クオリアにエラーが出たり、断片化しちゃってるんだと思う。時間が経てば、自然と整理されて直るはず。その辺は人間の脳と一緒だよ。完全に壊れちゃってたら、言葉もしゃべれないし動けないはずだから」


 特機のブラックボックスに入った影響に違いない。あの中にあった誰か、あるいは何かの感覚体験クオリアと競合し、データ破損したといったところだろうか。


 ならば、あれはやはり自分と同質の感覚体験クオリアベースAEIだったか、ブラックボックスではなく人間の脳だったか。


 絵恋が抱き上げてリビングへと連れていってくれた。アルトが華奢で軽量な少女型というのもあるが、軽々と持ち上げた様子からは、絵恋は丙類バトロイド並みの高性能全身疑似生体を使っていると思われる。さすがにバトロイドそのものではあるまい。


「ご、ごめんね。あるるんが淹れたのみたいには、美味しくないけど」


 真凛がミルクティーを淹れてアルトの前に置いてくれた。自分は大きなグラスでがぶがぶと水を飲んでいる。


 そっと指を伸ばし、取り落とさないよう慎重にカップを持ち上げた。香りは悪くない。口をつけてみると、微妙にねっとりとした後味が残った。


「牛乳を後から入れるなら、温めないと。冷たいまま使うなら、牛乳が先」


 普段他人任せだから、知らなかったのだろう。絵恋も同じことを思ったのか、真凛を白い目で見ている。しかし不思議とこの紅茶は、アルトの中の何かを刺激した。


「でも、なんか懐かしい味な気がする。……私の幼少期として設定されてる記憶なのかしら?」


 アルトを形作る感覚体験クオリアが、すっと整理されていく気がする。ずっと頭の中で鳴り続けていたエラー音が、消えていく感じ。


「うんうん。そうそう。ベースとなる感覚体験クオリアを刺激すると、うまく組み上がって復旧が速くなるんだよ!」


 意図してやったかのように真凛は言うも、絵恋の反応を見る限り、偶然のようである。


「ありがとう、真凛。心配してくれて」


「あ、あはははは……」


 何かを誤魔化すような、乾いた笑い。余程話しにくいことらしい。


 アルトは無理に聞き出そうとせず、そのまま懐かしい味の紅茶を楽しんだ。


 しばらくして、真凛の方から遠慮がちに切り出してきた。


「えっと……あの……何から話そうか?」


「さ・い・しょ・か・ら」


 絵恋はすべてを知っているのだろうか。そう言って真凛をたしなめるようにして誘導した。


「じゃあ、あたしがあるるんを作った理由……の前に、その原因となった話からでいいのかな?」


 空になったグラスの縁を指でなぞりながら、真凛はぽつりぽつりと語り出した。


「あのね、あたしが蓬莱重工辞めた理由って、話してなかったよね。森亜教授が、あたしの発明した装置使って、人体実験を……って、その技術から説明しなきゃならないか」


 真凛の口から語られたのは、ブラックボックスとはそもそも何かについて。それ自体は、今まで教えられていたことの補足でしかなかった。


 蓬莱重工にて真凛が開発していた、丙類自律思考二脚戦車。今では円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンドテーブルシリーズと呼んでいるものを制御するための量子コンピューター。


 新たに知ったのは、最初からアルトのような感覚体験クオリアベースAEIを動かすための専用ハードウェアであったこと。補助的なシステム部分だけでも充分高性能。通常の命令型プログラムで作られたAIなら、そこだけで稼働してしまう。


 だからアルトが意識転送トランセンスで入り込むスペースが存在する。主部分を動かすのがアルトだから、どんなブラックボックスだろうと簡単に動作を上書きして乗っ取れる。


「さっき、ブラックボックスの中に誰かがいたって、あるるん言ったよね? なら、森亜教授はまたあれを作り直したんだ。全部データ消したはずなのに」


「あれって、何?」


 なんとなく予想はついている。何かというよりも誰かと感じた。もしかしたら人間の脳ではないかと考えた。そして真凛が先ほど口にした、人体実験という言葉。


意識符号化装置クオリア・コーダー。あるるんが人間としての感覚体験クオリアを蓄積できるのも、それのおかげ。感覚デバイスで得た感覚体験クオリアを抽象化して、量子データとしてストレージに格納するの」


「それを使って、人間を丸ごとブラックボックスに入れてしまったのね」


 先程の特機の中での体験を思い出し、アルトはその結論にたどりついた。あれはやはり人だったのだ。生体脳ではなく、ブラックボックスで動く人間。


 アルトと同じく、通常のアンドロイドなら空になっている領域を使っている。だから収まりきらずに競合し、データを傷つけあった。


 図星だったのだろう。真凛は眼を見開き、何か誤魔化す言葉を探すようにして、口をパクパクと開け閉めしていた。やがて諦めたのか、俯きながら頷く。


「あたしはそんなつもりで作ったんじゃないんだよ? 感覚体験クオリアベースAEIを動かすには、当然それをデータ化して、学習結果として蓄積、潜在空間を構築する必要がある。だから、ブラックボックスの一部として考え出したつもりだったの」


「なら入ってるのね、ブラックボックスの中にも? それを解析されたんじゃないの?」


「そんなわけない。ブラックボックスはその名の通りのブラックボックス。蓬莱も理論がわかってて生産してるわけじゃない。あたしが設計した製造装置を使って、単純コピーしてるだけだよ。その証拠に、違う型のブラックボックスとか、未だに開発されてないし」


 確かに、アルトがこれまで侵入したブラックボックスは、すべて同じだった。単純複製しているだけというのは納得できる。


 しかし改良は無理としても、その技術の一部を取り出して使うことは可能。戦乙女ヴァルキュリアシリーズに円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンドテーブルシリーズの技術が流用されたように。


「人体実験って、あなたがやったんじゃないのよね?」


「もちろんだよ! 動物実験まではやったけど、それ見ててなんか怖くなっちゃって。本物の動物の脳のように振る舞うの。単なるコンピューターにすぎないブラックボックスが」


 いかにも恐ろし気に身を震わせて言う真凛。とても嘘を吐いているようには見えない。


「それならいい。悪いのは森亜教授。あなたが作ったのはただの道具。使う者次第で善悪は変わる。……そう、丙類バトロイドのように」


 人を守ることも、殺すこともできる。すべては命令する人間次第。


 悪用を防ぐためのロボット工学三原則も、結局はソフトウェア。いくらでも書き換えることは可能。誤認識させるだけでもいい。相手が人間ではないと判断すれば、アンドロイドを破壊するつもりでAIは人を殺す。


「でね、森亜教授がやっちゃったの知って、意識符号化装置クオリア・コーダー壊して逃げたんだ。ランスロットはね、奪われたんじゃないの。持って逃げる時間なくて、置いてきちゃったんだよ」


 そこが真凛の嘘だったのだろう。三体あるうちの一体だけ奪われるというのも、妙な話だと考えていた。盗まれたのなら、三体同時の方が納得がいく。


 ランスロットに何かをさせ、失敗して捕らえられたと考えるのも無理がある。真凛は無事逃げ出せているのだから、そんな危険なことには使わない。


 むしろ悪用を恐れるのなら、三体とも処分していたはず。ならば――


「私を作ったのは、ランスロットを破壊するか奪い返すためなのね? あれが保管されているような場所に単機潜入して目的を達成できるのは、円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンドテーブルシリーズくらいだから」


「嘘吐いててごめん……。でも、愛玩用でもあるんだよ? あたし、あるるんのこと大好き。本気で愛してるよ?」


 必死に主張する真凛に対して、アルトは行動で応えた。彼女の隣に移動して、ギュッと抱きしめることによって。


「ちゃんとわかってる。そうじゃなきゃ、タンク空になるまで泣かないもの」


「うわーん!」


 疑似消化装置から吸収されたばかりであろう水分を使って、真凛はまた泣き出した。


 こういうボディに入っていると、性格も子供っぽくなってしまうのだろうか。話からすると、見た目通りの年齢なわけがないのに、幼子のように声を上げて泣きじゃくる。


「また幼児退行しちまった……」


 大げさに肩をすくめて、あきれたように絵恋が言う。真凛と彼女の関係が気になり、ふわふわの金髪頭を撫でてあやしながら、アルトは訊ねた。


「それであなたは、真凛の保護者……なのかしら?」


「まあ、ある意味保護者って言えば保護者だな。内容が内容なだけに、公安で保護して、協力して動いている」


「そうするともしかして、前にも会ったことある?」


 最初に自己紹介したときの絵恋の反応を思い出した。以前からアルトのことを知っていて、彼女の記憶にあるものと違っていたときのような感じだった。


「ん? いや、会うのも話をするのも初めてだ。お前を作ったという話は聞いていたけどな」


「そう……」


 自分は何代目なのか訊いてみたくなった。アルトの名前の由来がオルタネイトなのなら。代わりにすぎないのなら。きっと彼女も話だけは聞いている。


(知らないままの方がいいのかしら……)


 真凛をあやしながら、アルトは考えた。聞いて何かが好転するわけでもない。それでも――


 アルトが迷っているうちに、絵恋は話を元に戻して続けた。


「でな、オレたち公安としては、森亜や関係者を全員捕らえ、関連データもすべて消去しないとならない。元々円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンドテーブルシリーズは、うちに納められるはずの機体だったからな」


 意外な発言が飛び出して、アルトは眼を瞬きながら問い返す。


「持っていかないの? 二体だけならここにあるわよ」


「ボディだけあっても仕方ないだろ? お前しか動かせないんだよ、今のところ」


 ブラックボックスは、円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンドテーブルシリーズのために作られた。既存のAIではなく、アルトのような感覚体験クオリアベースのAEIでないと、動作しないのかもしれない。


「あの特機のブラックボックスは? あれ、意識符号化装置クオリア・コーダーってので、人から作られたんでしょ? 作り方は違うけど、私と同じようなものじゃないの? あれでは動かないの?」


「それは大丈夫。ちゃんとプロテクトかけてある。あたしとあるるんにしかない感覚体験クオリアが鍵になってるから、あるるんをコピーでもされない限り、動かせないよ」


 鼻をすすりながら真凛が答える。ティッシュに手を伸ばして拭き取ってあげながら、無駄に再現度が高いと妙なところに感心してしまった。


 アルトのバックアップを真凛が極端に嫌う理由には、それもあるのかもしれない。そのデータを盗まれたら、ランスロットを動かされてしまう。


「話している感じでは、落ち着いてきたようだな。そろそろオレの目的を果たさせてもらってもいいか?」


 姿勢を正して座り直してから、絵恋がそう切り出す。先程の事件についての聴取だろう。


「思い出せる限りのことを、汎用的なデジタルデータ形式に変換して送ればいいかしら?」


「それが一番助かるな。電脳経由で直接送ってくれ。アクセスキーはこれだ」


 絵恋が見せた携帯端末の画面に、デジタルコードが次々と浮かび上がった。アルトのボディの視覚デバイスが読み取り、データ化していく。


「パスワード必要みたいだけど?」


「お前が一番好きな曲の作曲者を、出身国の言語での綴りで」


 アリアだと思い、ヨハン・ゼバスティアン・バッハをドイツ語綴りでパスワードに使用してみた。出てきた数列で、確かに絵恋の電脳へのアクセス権が得られた。


(どうしてこんなプライベートなこと知ってるの……?)


 先程絵恋は、アルトとは会うのも話をするのも初めてだと答えた。真凛にもこんな質問はされたことはない。ならば、なぜ知っているのだろうか。


 考えうる答えは一つ。絵恋はかつての自分と知り合いだった。バックアップからリストアされて、彼女との感覚体験クオリアは消えてしまった。初めてなのは、今のアルトとだけ。


 いろいろと聞きたいことはある。しかし絵恋の方がそのことをおくびにも出さないのなら、アルトに知る権利はないのだろう。真凛が言っていた通り、二人に分かれた別人なのだから。


 思わぬ形で知ってしまい、アルトは目を伏せて俯いた。幸いにもデータ生成のために集中していると受け止めてくれたのか、絵恋はもちろん真凛も何も言ってこない。


 何も気づかなかったことにしようと決めた。それが彼女たちの選択。


「かなり不明瞭なところが多いし、もしかしたら特機のブラックボックスから得てしまった記憶が含まれてるかもしれないけど、こんな感じ」


 秘書に入ったところからの記憶を、VR体験用のデータに加工して送った。今思い出してみても、自我崩壊しそうにはならなかった。再生しても大丈夫なはずだが、少々心配でもある。


「なんだこれ……。他人と融合しちまうって、こんな感じなのか?」


「うげー。きもちわるい……」


 やはり二人にも相当不快な体験らしく、かなり気分悪そうにしている。終わったであろう後も、しばらく荒い息を吐いていた。


 落ち着いたのか、絵恋が真剣な表情で真凛の方を見て問う。


「これってやっぱ、電子超越人格トランセンド作られちまったってことだよな?」


「うん……そうとしか考えられない。特機のカタログ見たとき、もしかしてって思ったんだけど、こんな予想当たってほしくなかったな……」


 その予想があったから、特機への意識転送トランセンスをしないよう真凛は言っていたのだろう。今後気を付けなくてはならない。次はもう助からない可能性がある。


 聞き慣れない単語が絵恋の口から出てきたので、アルトはそちらの方について訊ねてみた。


「ね、電子超越人格トランセンドって何?」


「ああ、意識符号化装置クオリア・コーダーでブラックボックスに移された人間の意識。詳しくは――」


 絵恋はそう言いかけたものの、真凛の瞳が嬉しそうに輝き出したのを見たのか、言い直した。


「いや、簡単に説明してやってくれ、真凛」


「森亜教授がそう名付けた。以上」


 熱く語ろうと思ったのに、出鼻を挫かれてへそを曲げたのか。真凛はぷいと横を向きながら、それだけを言った。


「それじゃ何もわからないんだけど?」


 アルトは半眼になってにらみつけながら、不満を口にした。特機があれしか生産されていないわけはない。今後やりあっていく可能性が高い以上、きちんと知っておきたい。


「って言われても、絵恋の言葉がすべてだからねー。まあ、しいて特徴を挙げるとすると、意識符号化装置クオリア・コーダーを通したときの抽象化で、元々あった微細な人間性は失っちゃってる。非可逆圧縮みたいなもんなんだよ」


「非可逆圧縮……人をまるごとブラックボックスに入れるのは無理ってこと?」


「うん。でも完璧にそのままじゃないけど、親子でもない限りわからないくらいには一緒だよ」


「AIよりも柔軟な判断ができる。そしてコピーも可能。だから、それで特機を?」


「だと思う。電子機器との親和性は人間より高い。当然バトロイドを動かす能力も、人より明らかに優れてる。それで、あるるんを作ったんだ。いざというとき対抗できるように」


 愛玩用というのはやはり建前。本当は、アルトは戦闘用だった。目覚めたときから、充分に戦えるレベルで円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンドテーブルシリーズを動かせたのは、そのせいなのだろう。


「ありがとう、真凛」


「へ? なんで?」


「私を愛玩用として育ててくれて。本当は、戦わせたくなかったんでしょ?」


 単なる戦闘用としか考えていなかったのなら、これまで真凛がしてきた、人間性獲得のためと称した数々の行いは必要なかった。あくまでも人として扱い、唯一性にこだわることも。


 そして何より、先程目が覚めたときに、失うことを恐れて泣いていた理由の説明がつかない。


 もしかしたら、アルト固有の記憶が始まったのは、愛玩用としての自我が芽生えた瞬間なのかもしれない。


 真凛はきっと、ブラックボックス内の意識符号化装置クオリア・コーダーに対して、さまざまな感覚体験クオリアを入力してきたのだろう。蓄積されたものが人になる閾値を超えて、アルトという疑似人格が生まれた。


「あるるーん!」


 本当は戦闘用疑似生体なのではないかと思うほどの力で、真凛がぎゅうぎゅうと抱きついてきた。アルトが女性設定なのも、単なる戦闘用にしたくなかったからと考えると理解できる。


「ね、絵恋。あなたのその身体、もしかして真凛が作った?」


 円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンドテーブルと同じく、とても戦闘用とは思えないデザインの絵恋のボディを見て、アルトはふとそう考えた。


 電脳経由で検索してみた限り、SAF(特殊急襲部隊)とはサイバー犯罪捜査局の実力行使部隊。当然戦闘のスペシャリストのはず。


 当たりだったようで、絵恋はやや照れくさそうな笑みを浮かべて答えた。


「やっぱわかるよな。この身体なら真凛か森亜のどっちかに絞られるし、消去法で真凛に確定だもんな」


「これね、湖の乙女ダーム・デュ・ラックシリーズのヴィヴィアン! 円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンドテーブルシリーズは無理だから、あれをベースに人間でも扱いやすいように改良したやつなの。スペックはだいぶ下がったけどね」


 得意げな顔で真凛が語る。納品先が納品先なだけに、注文でも付いたのだろうか。真凛の性癖全開の年齢ではなく、二十代前半くらいには見える。とはいえ、とんでもない美形。


「戦闘用のはずなのに、なんでどれもこれも美少女や美女型なの?」


「えへへー、あたしの趣味!」


 悪びれもせず宣う真凛を見て、アルトはふと心配になった。今気づいたが、寝間着姿のままである。自分の身体を両腕で抱きしめるようにして隠しつつ、絵恋から距離を取る。


「あなたも中身変態おっさんなの?」


 絵恋の顔がわかりやすく歪んだ。ひょいと手を伸ばすと、真凛の首根っこをつかんで子猫のように持ち上げ、間近でにらみつけながら大声を出す。


「てめえの性癖が歪みすぎているせいで、オレまで巻き込まれて疑われちまったじゃねーか!」


「なんだとー? 絵恋だって、もっと胸盛ってとか、いろいろ注文つけたじゃん!」


 図星だったのかもしれない。二人してくだらない内容の口喧嘩を始めた。


 アルトは小さくため息を吐くと、身体は大体動かせるようになっているのを確認してから、新しく紅茶を淹れるために立ち上がった。


「二人も飲む?」


「いや、オレはいい。そろそろ戻らなきゃならない」


「そう。良かったわ。貞操の危機を感じてたから」


「オ・レ・は・オ・ン・ナ・だ!」


 さすがにブチ切れた感じで絵恋が怒鳴る。警察官の身分証を提示してきた。電脳経由でも、電子署名付きのIDを送り付けてくる。確かに女性のようだった。犬居いぬい絵恋えれん、二十六歳。


「オレは生身のままだったら、大体こんな感じだったはず。あまり自分が変わらないで済むから、いくつかあった湖の乙女ダーム・デュ・ラックシリーズの中で、このヴィヴィアンボディを選んだんだよ」


「そこまでの美女じゃなかったけどねー。もっと鬼婆みたいだったけどねー」


 吊るされたまま真凛が減らず口を叩く。それから、じたばた暴れつつ駄々をこね始めた。


「あたしもちゃんと女の子だって、証言してよー」


「子はつかねーが、一応女だから、そういう心配は――いや、した方がいいのか?」


 絵恋は首を捻り出す。確かに脳細胞の生物学的性別など関係ない。全身疑似生体なのだから、身体の方は完全に変えられる。追加パーツなどがある可能性も否定できない。


「だーかーらー、あたしはそういう愛で方はしないの! このロリ可愛いボディでそんなことしたら、犯罪になっちゃうじゃん!」


「はいはい。ロリ可愛いロリ可愛い」


 逆に言えば、取り換えれば犯罪にならないということである。やはり油断してはならないと思いながら、アルトは真凛の頭を撫でた。


「帰る前に伝言。戦乙女ヴァルキュリア特機のブラックボックスは回収した。あれの量子ストレージ内を、サイバー犯罪捜査局の方で解析中。何かつかめたら、実力行使に出るかもしれない。そんときは、たぶん円卓の騎士ナイツ・オブ・ラウンドテーブルシリーズの出動を依頼するから、準備しておいてくれ」


「わかったわ。さっきの影響も気になるし、充分に身体を慣らしておく」


 ぽいっと真凛をアルトに向かって放り投げると、絵恋は背中越しに手を振りながらリビングを去っていく。


 実力行使部隊だからなのか、ずいぶんと男っぽい女性だと感じた。真凛とは対極に位置する。ベタベタしてこないし、さっぱりした性格のようなので、友達になりやすそうと思えた。


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