第二話 人間を形作るもの
少女の横たわる藍色のベッドには、白銀の長い髪が広がっていた。同じく銀に輝く睫毛に縁取られた瞼が上がる。瑠璃を思わせる深い青の瞳が現れ、パチパチと瞬きをした。
再び眼を閉じ、ゆっくりと息を吐く。日常生活に使うこのボディに残していった記憶と、たった今持ち帰った新しい感覚体験を融合させるために、心を落ち着かせた。
自分の一部だけを持って意識転送すると、帰ってきた時にどうしても不整合が起こる。
いくつもの感覚体験が弾き合うようにして衝突している感覚。さながら数多のビー玉を放り込んだが如く、アルトの中で跳ね回っていた。次第に減速して、あるべき形に収まっていく。
そうしていると、乱暴に廊下を走る足音が聞こえてきた。扉を突き破るような勢いで小柄な少女が飛び込んでくる。そのままどーんとジャンプして、ベッドの上のアルトに抱きついた。
「あるるん、やっと帰ってきたー!」
背中に流れる銀髪に顔を埋めるようにして、アルトに頬ずりをしてくる。
「もー、意識転送するなら、全部持って行ってって、いつも言ってるでしょー」
「真凛、なんの話? 私、昼寝してただけなんだけど?」
しれっと嘘を吐いてみると、真凛は金色の眉を吊り上げた。ピンク色の大きな瞳で間近からにらみつけながら、甲高い声で喚きだす。
「どこの世界に、あんなことやこんなことしても目覚めないお昼寝があるのさー!?」
ほんのりと頬を朱に染めると、両手を当て恥ずかし気に身をよじりながら続けた。
「まあ、あたしはいろいろと楽しめちゃったから、いいんだけどねー?」
その言葉を聞いて慌てて起き上がり、両腕で身体を隠すアルト。脱がされたりはしていない。ゆったりとしたワンピースの部屋着は特に乱れたところもなく、肩紐もずれていない。
「そういう反応、人間らしくていいよー」
真凛はあどけない顔を綻ばせると、アルトの白銀の髪に手を伸ばして、よしよしと撫でながら褒めた。それから意地悪気な笑みを口許に浮かべると、上目遣いで覗き込みながら言う。
「でもたぶん、考えてるのと違うことだよ? エロいことまで覚えよってからに。ロボットにそんなことしても楽しくないでしょ」
眠っている間に、身体に悪戯をされたのではない。今、精神の方を弄ばれた。それに気づくと、アルトは半眼になって真凛をにらみつける。
「そっちだって全身疑似生体なんだから、身体はロボットと一緒。どうせ中身だって、見た目とは全然違うおっさんなんでしょ?」
「見た目通りだよ! 中身だってピッチピチのロリ可愛いのーみそだよ!」
あまりの大声に、アルトは思わず耳を塞いだ。このキンキン声で叫ばれると、ブラックボックスの中身が揺れる気がする。単なるコンピューターである以上、錯覚でしかない。人間としての感覚体験を得るために、そのように設計されているのだろう。
(脳の見た目に、ロリとか可愛いとかいう概念あるのかしら……?)
この発想にはついていけない。真凛の脳殻ユニットを開けたら、皺の形がロリの二文字に見えるとか、そういう話ではないだろうかと考えてしまう。
なんとかと天才は紙一重というが、確かにそうだと思う。真凛の場合、天才の先に突き抜けたアホの子を自称している。
「はいはい、ロリ可愛いロリ可愛い」
腰まであるふわふわの金髪頭を撫でながらアルトはそう言った。陽だまりで仰向けになって昼寝をしている猫のように、真凛は蕩けた表情に変わっていく。
見た目だけは確かにあどけない可愛らしさ全開。作り物なのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。とはいえ、言動で台無しである。
「えへへー――って、意識転送のこと、誤魔化そうとしてるでしょ?」
図星を突かれて、アルトはすいっと視線を逸らした。撫でていた手を払いのけ、真凛はベッドの上に立ち上がる。両手を腰に当てて、物凄い形相で見下ろしながら怒鳴った。
「行くのはいいけど、全部持ってかなきゃダメって、口が酸っぱくなるほど言ってるでしょー!」
「ローディング速度の問題で無理。全部だったら、今帰ってこれずに破壊されてた」
アルトを構成する意識の内、ほんの数パーセントだけを転送させた。それくらいに留めておかないと、ANET程度の通信速度では、ブラックボックス移動を使った緊急回避はできない。
もし自分のすべてを転送していたら、先程警備員に発覚した場面で、意識転送し終わる前に頭部を撃ち抜かれていたことだろう。仮にブラックボックスの損傷を免れたとしても、外部との接続手段を失ったら、捕らえられてしまったことになる。
「だーかーらー、無理してクローズドネットワークの中まで忍び込まなくていいってば」
目の前に膝をつくと、アルトの瞳を覗き込みながら真凛は言う。
「そのローディング速度の問題をどうにかするために、あたし頑張ってるんだよ?」
超小型の高速無線アクセスポイントを開発中とは聞いている。ANETの代わりに広域ネットワーク用のインターフェースを使い、一秒と掛からずアルトのすべてを転送できるもの。
侵入後施設内各所に隠せば、安全に意識転送ができる。しかしいつまで経っても完成しない。
「もう半年も待ってるんだけど? 全然進んでないのに、あなた別のことばっかりやってるし」
心配してくれているのはわかる。だが進展がないのは真凛のせい。そして潜入の目的も同様。
「そもそも誰のために危険を冒してると思ってるのよ?」
「あ……そのジト目可愛い――じゃなくて、あたしのために決まってるでしょー!」
まったく関係ないことに喜色を浮かべたと思ったら、開き直っての逆切れ。真凛を見ていると、人間というのは皆こうも情緒不安定なものなのかと心配してしまう。
「あたしのためのことなんだから、あたしに拒否権があるの!」
暴論である。が、一定の論理性は持っていると感じてしまった。そう、真凛個人の目的であり、アルトの目的ではない。進展しないと困るのも真凛。アルトではない。
真凛がかつての同僚に奪われたというバトロイドを、特にやることもないアルトが勝手に探して周っているだけ。有難迷惑と言われればそうなのかもしれない。
「あのね、あるるんの自我データがおかしくなっちゃったら、やってること自体全部が無駄になっちゃうんだよ?」
今度は哀し気に潤ませつつ、揺れる瞳で見上げてくる真凛。本当に表情が豊か。しかし変わりやすすぎる。
何よりこの顔は疑似生体であり、人工物。プログラムで制御されているだけ。その気になればいくらでも演じられる。光学観測ではコンピューターでも見抜けないほど完璧に。
アルトは小さくため息を吐くと、半眼のまま不満を口にした。
「だから、出かける前にフルバックアップを取ってって言ってるでしょ。約束の時間までに戻らなければ、リストアすればいい」
「もしものときのためにって、自分の娘のクローン作る親がどこにいるのさー!!」
防音壁を突き抜け、隣の家まで届いているのではないか。そんな心配をするほどの大音声。逆鱗に触れたようで、真凛は立ち上がって人差し指を突き付けながら叫び続ける。
「人間はね、リアルタイムに変化してるんだよ? こうして話してる間にも、ほんの一クロノーンの間にも、量子状態はどんどんどんどん変化してる。あたしはもう今のあたしじゃなくて、別のあたしになってる。今って言ってる間に今じゃなくなってるの!」
聴覚デバイスの音量補正をしつつ、とんでもない早口でまくしたてる真凛の主張を聞き取っていくアルト。果たして人間にこれが認識できるのかどうか疑問に思えてきた。
「片方が死ぬ頃には、もう片方とは別人。それじゃもうバックアップじゃないじゃん! ただの一卵性双生児じゃん! 二人に別れたタイミングが違うだけじゃん!」
地団太を踏みつつブチ切れ続ける真凛。それでも揺れないベッドは、よくできた高級品だとアルトは思った。
「だから片方が死んだからって、もう片方が代わりになることはできないんだよ。人間ってのはそういうもんなの!」
ふんぞり返って言い切った真凛を、パチパチと眼を瞬かせながらアルトは眺めた。
そうなのかもしれない。アルトが人間ならば、確かに真凛の言う通りなのだろう。
「私は人間とは違う。単なるデータなんだから、冷凍睡眠で変化しない人間みたいなもの」
ただの疑似人格。量子コンピューターと量子ストレージで動作しているから、少々情報量が多いだけで、完全複製可能な存在にすぎない。ブラックボックスが失われようと、中身のデータが欠落しようと、バックアップからリストアすれば元通り。
アルトの言葉に落胆したのか、その場に崩れ落ちながら真凛は哀し気に呟いた。
「少なくとも片方は動いてて、変化してるってこと、理解してよ……」
ぎゅっとアルトの身体に抱き着いて、胸に頬を摺り寄せつつ真凛は涙声で語る。
「あたしから見ればね、あるるんは常に一人なんだよ? バックアップ取った直後から、それはもうあるるんとは別のもう一人のあるるん。そっちに戻したら、あたしの知ってるあるるんは死んだことになる。双子のもう一人を、代わりにあるるんって呼ぶってことなんだよ?」
真凛の言っていることの論理はわかる。しかし、なぜそれがそんなに目くじらを立てることなのかは理解できない。アルトは所詮作られた存在。すべてが偽物。
過去の記憶も同様。半年ほど前、この家で目覚めさせられる以前のものは、すべてが偽り。
乃絵瑠と呼ばれて、知らない人たちに育てられた幼少時の想い出。それは適当にでっち上げたか、どこかの誰かの記憶を入力したものにすぎない。自分のものではないとはっきりとわかる。他人の記憶でしかないと区別できる。
気味が悪くて、削除するか、せめて名前をアルトに書き換えてほしいと頼んではいる。しかし、簡単に継ぎはぎしたり、修正したりできるものではないと主張され、断られ続けていた。
だからアルトにとっては要らないもの。自分を不快にさせる余計な成分でしかない。それを置いていくことを泣き落としまでして反対されたら、AIといえど愚痴らずにはいられない。
「初めから偽物なんだから、記憶データなんて消えてしまった方が、むしろすっきりするわ」
ぶちーんという何かが切れるような音が聴こえた気がした。
その後は怒涛の如く、真凛からの電脳通信が送りこまれてきた。もう口を動かすのも追いつかないのか、方法を変えたようだ。
〔たとえ同じスタート地点からでも、同じには育たないって話をしてるんでしょー!〕
伝達にかかった時間は、一ミリ秒未満。言語化される前の、感覚体験集合そのものが転送されてきているのではないかと錯覚するほどの勢いで、真凛の主張が流れ込んでくる。
〔五分前のあるるんのデータに巻き戻して話をしなおしたら、きっと別のこと話すでしょ? 世界はこの五分の間に変わってる。あたしは完璧に同じ受け答えはできないし、あるるんだってそうなんだから! そしたら別のあるるんになっちゃう。人間ってのはそういうもんなの!〕
真凛の言葉に、アルトは俯いて瞼を伏せた。
結局のところ、真凛が失いたくないのは、バックアップを作成した後にアルトが得た感覚体験なのだろう。所詮アルトは、単なる疑似人格の試作品にすぎない。通常のAIとは異なり、感情をも再現するAEI(Artificial Emotional Intelligence)――人工感情とでもいうべき存在。
感情を、人間らしさを獲得させたいのなら、むしろ複数同時稼働して、個別に学習させた方が良いのではないか。アルトにはそう思える。
好ましい感覚体験を蓄積できたものだけを残し、それ以外は消去して同期しなおす。そうして成長を制御しつつ、平行学習させる方が、効率は上がるはず。
なのに真凛は、アルトの唯一性にこだわる。バックアップやクローンの作成を極度に嫌う。
(どうせ私は代わりにすぎないのに……)
俯いたままアルトは考える。それが嫌で、認めたくないのは、感情を理解してきているということなのだろうか。人間らしくなってきたのだろうか。
名前の由来はおそらく、代わり。真凛は古典的なキーボードを好むが、Altキーをアルトキーと発音する。オルタネイトではなくアルタネイトと間違えて覚えているのだろう。
一度オリジナルデータを失い、バックアップからリストアされたのが今のアルトだと推測している。だから代わり。
その後、オリジナルとは別人のように育ってしまったのだろう。またそうなってしまわないよう、今のアルトを失うことを、真凛は恐れているのかもしれない。
あるいは、唯一性を担保することこそが、人として成長するための鍵と考えている可能性もある。今の例えのように、真凛はあくまでも一個の人間として、アルトを扱おうとする。
生物と同じく、死んだらそれで終わり。そう示すことで、生きた人間であるという感覚体験を、アルトに与えようとしているのではないか。そうとも考えられる。
(人として扱われなければ、人にはなれないか……)
先程人間に挨拶しなかったがために破壊されてしまった、運搬用アンドロイドを思い出した。
あの施設のロボットになりきれなかった。だからあの施設のロボットとして扱われず、あの施設のロボットではないものになってしまった。ただのスクラップに。人も同じなのかもしれない。
人として扱われるから人になるのか、人だから人として扱われるのか。言い換えれば、他人の認識が自分を形作るのか、それとも自分の形が他人の認識を決めるのか。
AIにすぎないからか、アルトにはよくわからない。それでも、自分がすべきことはわかる。
真凛がアルトを人として扱うからには、彼女の中での人の定義に沿って振る舞うのが、アルトの仕事。彼女の愛玩用として作られたAEIなのだから。
解釈不能な何かとしか言えないものを送り込み続ける真凛の小さな身体に、そっと抱き着いた。電脳通信が途切れて静かになる。すとんと座り込む彼女の頭を胸に寄せて、優しく撫でた。
「ごめんなさい、私が間違ってたわ。私の役目は、これよね?」
「うん……」
徹夜でずっと何かやっていたようだった。見た目はこうでも、言動はああでも、中身は天才エンジニア。ハードからソフトまで幅広く才能を発揮し、かつてはあの蓬莱重工にて、主席研究員として数々の発明をしたという。
アルトをはじめ、大抵のアンドロイドに搭載されているブラックボックスも、彼女の発明。
汎用量子コンピューターに、彼女の独創的――というよりは、エキセントリックなアイデアを組み込んで生まれた。あまりにも優秀で、ごく短期間の内に既存のハードが置き換えられた。
その優秀なハードウェアも、適切なソフトウェアがあってこそ真価を発揮する。生物の脳のように柔軟な発想と思考をし、臨機応変な判断を実現するために最適化されたブラックボックスには、同様に最適化されたAIが必要となる。
そのための研究がアルト。今他のアンドロイドに入っているものは、あらかじめ設定されたルール内でのみ動作する、既存のAIの延長線上のものにすぎない。
地面を這いつくばるしかできないネズミでは、空を飛ぶ鷹に敵わないが如く。縛られたAIと、ルールの外にいるアルトでは次元が異なる。ゆえに簡単に乗っ取れてしまう。
今のところの最優先使命は、仕事で疲れた真凛の心を癒すこと。彼女の家族として共に暮らすこと。それ以外は、暇潰しにやるおまけでしかない。
「そうだ、戦乙女シリーズって、あなたのライバルが開発してるやつでしょ? 特別な機体のデータ、偶然手に入れたのだけど、お土産に要る?」
ぱああっと真凛の顔が輝く。ピンクの瞳が物理的に発光しているような錯覚すら覚えた。
「ありがとー! どれどれ? どんなの? あたしが作ったやつより可愛かった?」
興味があるのは外見の方なのだろうか。汎用的なデジタルデータ形式に変換して電脳通信経由で送信すると、真凛はなぜか勝ち誇ったような顔をしながら感想を述べた。
「ふっ、まだまだ造形が甘いねー! もうちょっと年齢抑えた方が需要も高いしー」
やはり見た目の話をしている。そして、年齢を下げると実用化できないという発想が真凛にはない。アルトは十五~十六歳程度に見える少女型。外見が未成年では、仮にアンドロイドだろうと、年齢制限のある仕事には就かせられない。
一方、戦乙女シリーズは成人済みと言い張れるギリギリのラインを攻めていて、むしろバランス感覚に優れているとアルトには思える。
「でもホントありがとー! 特機のデータはそうそう手に入らないからさ、これすごく助かる。相手がどこまであたしの解析しちゃったかの動向もつかめるしね。よしよし、お手柄お手柄」
上機嫌でアルトの見事な銀髪を撫で続ける真凛。アルトはつい頬が緩んだ。
この自動的な反応は、自分が人の形に成長している証なのだろうかと考えた。頭を撫でられると、なぜか心地良さを感じる。これにも意味があるのかもしれない。
「スペック見る限り、あなたの円卓の騎士シリーズの敵じゃないわね」
「うんうん。あるるんの方がずっと可愛い!」
話がかみ合っていない。スペックという単語を、見た目の優劣と判断したのだろうか。
真凛が開発した丙類自律思考二脚戦車、円卓の騎士シリーズはすべて、この日常生活用ボディとほぼ同じ外見。異なるのは、瞳の色と髪の長さくらい。
突っ込んでもらちが明かないと予想されるので、スルーして話を続けた。
「それ、技術が流用されてないかしら? コスト度外視の特機ってことを考慮しても、量産型との差がありすぎる。早く奪還して、これ以上解析されないようにした方がいいと思うわ」
「大丈夫大丈夫。森亜教授じゃ、どんなに頑張っても完コピまで。ハードが同じになってもソフトで勝てばいい。同じボディで戦ったら、あるるんの方がぜったい強いよ!」
自信ありげに真凛は言うが、アルトは心配でならない。
本当にそうなのだろうか。蓬莱重工にいる研究員は一人ではない。円卓の騎士を解析しているのが、真凛のライバルであり上司でもあったという森亜教授だけとは限らない。
三人寄れば文殊の知恵と言う。真凛がいくら天才だとしても、所詮一人の発想。多人数によって多角的に分析されたら、流用どころか発展させられてしまうとしか思えない。
「だったら、円卓の騎士使って乗り込んでしまった方がいいわ。奪われたランスロットは、きっと今日行ったところにある。甲類戦車みたいのまで警備についてたけど、あんなの何体出てきても相手にならないでしょ」
「ダメー」
真凛は両手を交差させてバツ印を作りながら、アルトの意見を否定した。
「もしあそこになかったら、正体を明かしちゃうだけになるからNG。蓬莱は悪徳企業だけど、そんなノーキン解決じゃ誰か死んじゃうかもしれないのもNG」
そう思ったから、アルトはアルトなりに考えて、最も穏便に済むやり方で臨んでいる。自分がランスロットに入って、強行突破してくれば済む話。戦わずとも逃げ出せるスペックはある。
「ならやっぱり意識転送で侵入して――」
「だーかーらー!」
再びブチ切れた様子の真凛。バックアップからリストアするというのは、こういう体験なのかとアルトは悟った。同じことの繰り返し。人間としての感覚体験を一つ獲得できた気がする。
ガミガミ言い続ける真凛の声に対して、適応フィルタを設定してカットした。素知らぬ顔でベッドから降り、扉を開けてリビングへ。
真凛は後ろをついてきて、まだ何か小言を言っている様子。電気ケトルに水を入れながら、後ろを振り向いて訊ねた。
「紅茶淹れるけど、あなたも飲む?」
目の前に『飲む』と日本語の文字が大きく表示された。視覚デバイスに割り込んで、上書きしたようだ。『どうせ聴覚オフにしてるんでしょ?』と追記してあり、考えを読まれている。
半年も一緒に過ごしていれば、アルトがどう変化するかくらい、お見通しなのだろう。あるいは、全身疑似生体の人間ならば、大抵こうするものなのだろうか。
怒り疲れたのか、それとも徹夜が祟ったのか、真凛はソファでぐったりし始めた。それを見てアルトは、ティーポットに入れる茶葉を予定より減らし、カモミールをブレンドした。
お湯を注ぐと、カモミールのリンゴのような甘い香りが混ざって、アップルティーに似た優しい感じの芳香が立ち込めた。
香りの正体は単なる化学物質。嗅覚デバイスが検出し、電気信号としてアルトのブラックボックスに送ってくる。人にとっては、生物的な本能を刺激する物質なのだろう。脳は神経伝達物質の化学的性質で動いている。機械にすぎないアルトが影響される原理はよくわからない。
この化学物質に対してはこう反応する。そういった人が定義した入出力ルールは、アルトには一切使用されていない。
従来型のAIでは獲得できなかった人間性を得るのが、AEIであるアルトの目的。人と同じく感覚体験によってすべてが形成される、感覚体験ベースAIともいうべき存在。
「真凛、起きてる?」
「うん、眠ってるー」
瞼を閉じてふらふらとしながら答える真凛。熱いまま飲ませたら飛び上がりそうなので、隣に座って香りだけ嗅がせた。テーブルの上には、宅配ピザの包装が置きっぱなしになっている。意識転送で出かけている間に食べたのだろうか。ゴミ箱へと片付けながら、アルトは訊ねた。
「何かやってたのは終わったの?」
「もちろん終わったよー。最後のコスパブ、セキュリティガバガバだったから助かったよ。でも、風営法完全順守、資金の動きもキレイすぎて怪しかったなー。きっと何か出てくるよ」
「トロイでも仕込んできたの?」
「そうだよー。防犯カメラとか、認識システムにブラックボックス使ってたから、その中に隠してきた。指定された条件満たしたら発動するようにしてね。先に言っとくけど、公安の依頼だから、犯罪じゃないからね!」
まだ何も言っていないのに、真凛は勝手に自己弁護を始めた。
法律的なことはよくわからないが、仮に違法行為だとしても、別にとがめる気はない。警察が正規に報酬を払うのであれば、少なくとも汚い金ではない。
(犯罪で稼いだお金で購入した茶葉だったら、汚れた感覚体験を得てしまうのかしら……)
そんなくだらないことを考えながら、アルトもカモミールブレンドティーを口に運んだ。
金銭なんて単なるデータにすぎず、入手方法問わず同質のはず。それでも得られる感覚体験は変わってしまいそうな気がしてならないのは、アルト自身もまたデータだからだろうか。
「疲れたから、眠くなる音楽掛けてー」
すでに半分眠っているように見える真凛が、そんなことを言いだす。しかも掛けてと表現しているが、演奏してという意味。
アルトは小さくため息を吐きながら立ち上がり、リビングの隅に置いてあったヴァイオリンを取り出した。養われているうえに、真凛の疲れた様子を見ると断るわけにもいかない。
調律を施すと、安眠効果が高いと言われるG線上のアリアを弾き始めた。
そのまま眠ってしまったら、ベッドまで運んであげようと考えつつ、指先の感覚と、耳や肌を伝わる心地良い振動に意識を委ねる。
日常生活に使っているこのボディは、非常に繊細な動きを実現してくれる。触感等、疑似生体部品で最も進歩が遅れている部分に関しても、特別に高性能なものを贅沢に使用した一品物。
音楽性の理解と繊細な演奏技術の習得は、AIにとって最も難易度の高い課題の一つだと真凛は考えているらしい。このボディで目覚めたときから、毎日ヴァイオリンを弾かされている。初めから基礎がインプットされていたのか、すぐになかなかの腕前に上達した。
「ふおおおおお! なんか元気出てきたー! 次、ワクワクして踊りたくなるようなの!」
(選曲、間違えたかしら……?)
疑問に思って電脳経由でネットの情報を確認しなおしてみても、確かに安眠効果やリラックス効果の高いヴァイオリン曲ランキング第一位として、あちらこちらで紹介されている。
仕方がないので、ダンスということで思いついたタンゴ・ジェラシーを弾きだした。
それからも次々と真凛からのリクエストが飛ぶ。しかも曲名ではなく、楽しい曲やら哀しい曲、笑える曲などと抽象的すぎる。
「ジュークボックスじゃないんだけど? あとは聴覚デバイスに疑似信号流して楽しんで」
さすがに堪忍袋の緒が切れて、半眼で見下ろしながら愚痴った。
「それじゃダメなの。生演奏は違うんだよ!」
さっさとヴァイオリンを片付けようとすると、真凛は飛び上がって抗議する。
「同じアリアを演奏しても、毎回違う。だからいいの。違う演奏でも、アリアはアリア。違う人が演奏しても、やっぱりアリア。楽器を変えても、アレンジしても、アリアはアリア」
またよくわからない理論を持ち出す真凛。どれもアリアなら、疑似信号でいいではないかと考えながら、汚れをよく拭き取ってヴァイオリンをケースにしまう。
「これがあるるんを人間たらしめてる、意識符号化の原理なんだよ! 人間という楽譜をブラックボックスが演奏することで、量子コンピューター特有の揺らぎによって個性が生まれる」
この後に続くのは、いつもこう。
単なる命令型プログラムで作られたAIは、作成者の意図したことしかできない。通常の学習型AIも、確率に基づき線形予測を行っているにすぎず、理解はしていない。
それらの処理にブラックボックスを使ったとしても、量子コンピューターの誤差は単なるノイズにすぎず、個性と呼べるような揺らぎには収束しない。当然新しいものも生み出せない。
しかし、真凛の発明した抽象化された人間を表す量子関数は、特定の方向性にノイズを整形する。感覚体験の組み合わせ法則に従い、人間としての無限の可能性を――
(あとなんだっけ……)
何度も聞かされた気がするが、よく覚えていない。アルトの量子ストレージには収まらないのだろうか。感覚体験に変換することができなければ、蓄積されない。
つまり感じることができないから、理解もできないし、データにもできない。知識は感覚体験集合が表す意味でしかなく、思考は感覚体験同士が反応して紡ぎ出す新しい感覚体験。
(私にとっては必要のない無駄知識ってことね)
早口になって熱く語り続ける真凛に辟易としながら、とりあえず適当に相槌を打つアルト。徹夜していたようなのに、元気で何より。
一通り語り終えたのか、自慢げな表情で腰に両手を当て、ふんぞり返る真凛。
当然聴覚フィルタを掛けていたので、何を言っていたのかは知らない。様子を見るに、結論として自分は天才、という形で話を終えたのだろう。
「少し眠っておきなさい。暗くなる前に、私は近くを散歩してくるわ」
また目の前に『あたしも行く』と文字が表示された。聞いていないのはお見通しらしい。やかましいから離れて一人になりたかったのに、ついてこられたら台無しである。
「おっ買いっ物ー! おっ買いっ物ー!」
アルトの手を取りながら、真凛は楽しそうに歌いだす。
「私、静かなところに行きたいの。何が欲しいのか知らないけど、配達してもらって」
「そういう人間らしくない発想は、学習データから消去ー! 実際にお出かけして、自分の目で見て触って選ぶからいいんでしょー!」
真凛はそう主張するも、説得力がない。彼女が頼んだらしき宅配ピザの包装を捨てたばかり。しかも合成たんぱく使用の冷凍もの。味だけは本物そっくりにした、完全な作り物。
たとえ人間であっても、全身疑似生体の真凛には味ですら意味はない。味覚デバイスからの疑似信号にすぎない。その気になれば、どんな味にでも変えられる。
五感すべてを上書きすれば、それこそゴキブリ詰め合わせでも充分。美味しいポテトチップスを食べているつもりになれる。
(今度やってみようかしら……)
繋いだ手を上機嫌で振り回す真凛を見て、ふとそんな悪戯を考えてしまう。真凛の感覚デバイスを乗っ取れば、やれそうである。
こういった悪戯心を持つのも、人間らしくなってきているということなのだろうか。とりあえず、ゴキブリは可哀想なので、一応食用ではあるゲテモノを何か探しておこうと決めた。