終わりの始まり
「直君の馬鹿。もう知らない」私の声が保健室に響いた。
これで何度目かの直君とのケンカ。
原因はいつも他愛ない事ばかりだ。
今回だって今度の日曜日にデートの約束をしてあったのに、突然、直君が行けないと言い出したのだ。
両親と映画だか何かに出かける予定が入ってしまったそうで、それで私とは会えなくなったのだ。
私にだって分かっていた、小学五年生のまだまだ子供の私達には親の決める予定に逆らう力はあまりない。
他の家では違うのかもしれないけれど少なくとも私や直くんにとってはそういうものだ。
別に無理強いされているわけではない。
直君の両親もきっと私との先約があると言えば直君を無理に連れて行こうとはしないだろう、けれど、直君は知っているのだ。
直君の両親が誰のためと言って直君のためにその日の予定を立てたのを。
私だって忙しい両親が自分のためを思って用意してくれた予定を無碍に断れるわけではない。
それでも、なのだ。それでもこの気持ちはちっとも静まってはくれなかった。
直君は私より両親を選んだんだ、なんてそんなことを思ってしまう。
そんな卑屈な自分が嫌で余計にイライラしてしまう。
「ごめん、静穂。でも仕方がないんだよ」そう言って困った顔をする直君に謝りたい。
けれど口から出てくる言葉はいつも違って直君を責める言葉ばかり。
「私との約束なんてどうでもいいんでしょ」
「そんなことあるはずないだろ」少し怒ったように言う直君の言葉が胸に突き刺さる。
ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。わがまま言って、ごめんなさい。
「静穂、なんで分かってくれないの?」
こんな時、友恵先生が助けてくれないかとか他力本願なことを思うけれどこう言うときはまず先生は口をはさまない。
二人で解決しないと意味がないとかこの前言っていた気がする。
「分かってるわよ。分かってるけれど」結局、私は耐えきれなくなって泣き出してしまうのだ。
そんなどうしようもない私をいつも直君は優しく抱きしめてくれる。
ごめんな。直君のその言葉は優しくて、温かくて、そして痛いのだ。
日曜日、私はなにもすることがなくただ家でぼーっと過ごしていた。
朝、お母さんは私に直君とでかけるんじゃなかったの?と聞いてきたけれど私は不機嫌に行かないとしか言えなかった。私がリビングのソファでごろごろしているのを見てお母さんはしょうがないわねとつぶやいた。
お父さんは朝からゴルフだか何かに出かけている。
「久しぶりに、お母さんとお出かけする?」エプロンで手を拭きながらお母さんがそんなことを言った。
「え?」私が起き上がるとお母さんは笑って
「噂の直君とケンカでもしたんでしょ?今日の静ちゃんは機嫌が悪いみたいだし」そう言った。
お母さんは何でもお見通しなのだ。
「仲直りしたもん」私はそう言って拗ねるしかない。
「はいはい、じゃ、お母さんと映画でも行ってリフレッシュしてきましょ。準備してらっしゃい」
私は拗ねた顔をしたまま、それでも自分の部屋に行き、外出の準備をした。
考えてみれば、お母さんと二人きりでどこかへ出かけるのはずいぶんと久しぶりかもしれない。
ちょっぴり元気が出た。
お母さんと手をつないで家を出る。
映画館は少し歩いた先にある駅前の通りにある。
春の暖かな風は少しだけ熱を帯びてきていて夏が確実に近づいていることを感じさせた。
小さな映画館に着くとお母さんは古びたカウンターでチケットを買う。
観る映画はこの春出たばかりの新作アクションものだ。
私もお母さんもこういった種類の映画が好きなのだ。
ごちゃごちゃと難しいものよりもこっちの方がよっぽどスッキリと観られる。
お母さんにチケットを貰い係りの人に渡すと慣れた手つきでそれを半分に切り半券を返してくれる。
何となくその時の手つきが私は好きだ。
お母さんと一緒に暗い部屋に入る。
部屋の殆どが階段状の座席になっていてその向こうには大きなスクリーンがでかでかとあった。
わくわくしながら真中あたりの座席にお母さんと並んで座る。
もうすぐ上演だ。
そう言えば、直君も映画に行くとか言ってなかっただろうか。
そんなことを思った時、上演のベルが鳴った。
手に汗握る映画が終わり、お母さんと私は映画館から出てきた。外の通りの風が火照った頬に心地よい。
「ちょっと静ちゃん、ここで待っていて。お母さんお手洗い行ってくるわ」お母さんはそう言うと映画館の中に引き返して行った。
映画が終わってすぐに行けばいいのに、なんだってわざわざ外まで出てきてからそんなことを言い出すのだろう?
私は入口から少し離れてお母さんを待つことにする。
ふと気がつくと、私が立っている傍に空を見つめて煙草を燻らせる男の人がいた。
男の人も私に気がついた様でこちらを見る。
無精ひげを生やした四十くらいのおじさんだ。
と、そこで私はあることに気がつく。
向こうも同じことを考えたようで煙草を口から離すとそのおじさんは言った。
「お譲ちゃんは確か、直の…」
「ガールフレンドの静穂です。お久しぶりです。おじさん」そのおじさんは直くんのお父さんだった。
一度だけ直君の家へ遊びに行ったことがある。
その時に直君に紹介されたはずだ。
「静穂ちゃんも映画かい?」おじさんは煙草を携帯灰皿でもみ消すとそれをポケットにしまいながら言った。
笑った顔が直君にそっくりで少しおかしかった。
「はい、お母さんと一緒に」私がそう言うと、そうかとおじさんはつぶやいた。
直君の家でおじさんに会った時、おじさんは直君に隠すように私にありがとうと言った。
私は今でも鮮明にその時のおじさんの表情を覚えている。
本当に、嬉しそうな、けれど今にも泣きそうなそんなくしゃくしゃな顔でのありがとう。
決して、大の大人が子供に見せる顔ではない。
おじさんは直君が周りの人達から酷い扱いを受けていることを知っている。
この田舎では直君が生きていくのには少しばかり辛いことが多すぎることも。
保健室登校や私と直君の関係、全部分かった上でそれでも逃げずに直君を支えている。
簡単に、他の地方に引っ越してしまえばそれで済むのかもしれない、けれど直君が見つけたあの保健室での小さな幸福を守るために間違いなく頑張ってくれている私達の味方。
私は素直におじさんをかっこいいと思う。
素敵なお父さんを持って直君はとても幸せ者だ。
「待った?」不意に横合いから声がした。
振り向けばそこには直君がいた。
相変わらずフードを目深にかぶってけれどそれでも直君が今楽しそうに笑っているのが分かった。
大好きなお父さんと休日を過ごす嬉しさが隠しきれないで彼の周りに散らばっている。
「あれ?静穂?」直君は私がいることに気がついてびっくりしたように言った。
「偶然ってすごいかも」私は嬉しくて直君に飛びついた。
直君が素敵な人に囲まれていることが、その輪の中に私も一緒にいられることが嬉しくて仕方がなかった。
しばらくして、私のお母さんが映画館から出てきた。
「あら」お母さんはそうつぶやいて直君とおじさんを見る。
「あ、どうも、いつも息子が世話になっています」おじさんは丁寧に頭を下げて、私のお母さんも慌てた様にいえいえ、こちらこそと返した。
少しだけお母さんの顔は何故か引き攣っていた。
そうして、大人たちの世間話に耳を傾けながら私と直君はこそこそと小声で話をして、しばらくしてお互いに家に帰ることになった。
私とお母さんは前から行こうと言っていたカフェによることになっていた。
直君とおじさんに手を振って私はお母さんと手をつないで映画館の前から離れていった。
直君とおじさんはちょうど反対の方角へと歩いて行く。
「あの子が静穂の言っていた、直君?」歩きながらぽつりとお母さんが言った。
「うん、そうだよ。ハンサムじゃないけれどとっても頭がいいんだよ。それにやさしいし」私はそう言ってお母さんを見上げた。
そう言えばお母さんは直君と会ったことはなかったのかもしれない。
おじさんとは町内会のなんやかやで会ったことはあるだろうけれど。
「そう。あの子が」なんだろう、そう呟いたお母さんの顔はどこか辛そうに歪んでいた。
直と静穂の頭上にかすかな雲が陰り始めています。
大人たちの思いと彼ら子どもたちの思いがそれぞれ交差していきます。
次話をご期待ください。