アリスと白ウサギの恋
それから僕は相川静穂をアリスと呼んだ。彼女は僕の名前を聞くとそちらのほうを気に入って直君と僕のことを呼んだけれど、僕の方はずっとアリスだった。
彼女はほぼ一日置きぐらいに保健室にやってきては僕の横で本を読んだり宿題をしたりしていた。
「養護教諭としては保健室登校児が増えるのは喜ぶべきかどうか…」なんて、山口先生は言っていたけれど、僕は知っている、アリスが訪ねてこない日は少しだけ先生は寂しそうな顔をしていることを。
もちろん、僕も寂しかった。始めてできた友達だ、寂しくないわけがない。
アリスは僕と同じくらい本が好きだった。
僕の好きな太宰治とか宮沢賢治とかは彼女には少し難しい様だったけれどそれでも読めない漢字などを僕に聞きながら彼女は僕の勧める本を楽しそうに読んでいた。
僕も誰かのために本を選ぶという楽しみを知った。
昨日、アリスは銀河鉄道の夜を読み終えて、そして少しだけ目を潤ませた。
勇気をもらったジョバンニの様に私も。と、なにやら拳を握ったりもした。自分の感情が素直に表に出る子だった。
僕にはそんな彼女がまぶしかった。
けれど、ひとつだけ彼女には不思議なところがある。
あんなに感情が表に出る子なら、僕の肌を見て何か反応があってもいいはずなのだ。
彼女は何も言わないし、驚きもしなかった。僕の手に平気で触れ、いつも楽しそうに笑うのだ。
「アリスは僕の肌を見ても何も言わないんだね」ある時僕はそう、思い切って聞いた。
怖かったけれどそれでも確かめずにはいられなかったから。
「肌って、アトピーのこと?」
内心ビクビクしていた僕の想いとは裏腹に彼女の答えはひどくあっさりしたもので驚いたことに彼女は病名まで知っているようだった。彼女の話によれば、親戚に同じ疾患を患っている子がいるそうで、極端に言ってしまえば慣れていたのだ。
蓋を開けてみればなんということのない。
その日、彼女は僕のバリケードをまた一つ取り除いた。
彼女がそうやって今まで誰も踏み込んだことのない僕の心に小さな足跡を付けて行くたびに僕の頭は彼女のことでいっぱいになっていった。
これが恋というものなのかもしれない。今まで本の中でしか感じたことのない感情。
僕はアリスが好き、では彼女は?生まれて初めて手に入れた感情は僕に不思議な高揚感と深い不安をもたらした。
本を読むことで様々な経験を手に入れたと天狗になっていた僕にとってそれは恐怖と幸福が表裏に重なったコインを指ではじく事と似ていた。高く高くはじかれたコインはなかなか落ちてこない。
コインが落ちてきたのはかなり唐突だった。
それは、冬休みまであと何週間かとなったある日、保健室は珍しく何人かの生徒達で賑わっていた。
僕とアリスは隅っこの小さな机で二人並んで大人しく読書していた。
山口先生はちょっとした用事で少しの間席をはずしている。灯油ストーブの周りで寒い寒いと手をかざしていた生徒達の中に、僕のことを知っている男の子が一人混ざっていた。
彼は保健室に来てからじっと僕とアリスのことを見ていたがやがて僕に向って突然、叫んだ。
「なんだよ、教室にもこねぇで保健室で遊んでるかと思えば爬虫類のくせに女子と仲良く本なんか読んでんのか」
周りにいた彼の友人等が興味を持ちだす。爬虫類ってどういうことだ、あいつと知り合いなのか。
彼らは一気に盛り上がり、僕達を囃し立てる。
「マジだ、こいつ爬虫類みてぇじゃん」
「なになに、お前らできてんの?」
「爬虫類と人間の種族を超えた愛ってか?」
「やーい、H」
「スケベ、スケベ、スケベ」
彼らの拙い言葉は、それでも確実に僕の心を抉っていく。
僕はただ唇を噛んで俯くことしかできない。彼らに刃向ったところで体力的にも人数的にも勝ち目はない。
せめてアリスだけでもと僕は保健室から出て行こうと勇気を振り絞って立ち上がる。
アリスから離れることで野次の矛先を自分だけに向けようとしたのだ。
ところが静穂は立ち上がった僕の手をつかんだ。
彼女は驚いた僕の眼をまっすぐ見て小さく微笑むと、周りで囃し立てている男の子達を睨みつけて言った。
「私が直君のこと好きじゃいけないの?直君は爬虫類なんかじゃない」
まるで泣いている様な彼女の声はよく響いた。
保健室は水を打ったように静まりかえり、野次を飛ばしていた男の子達もどうしていいか分からずに黙ってしまう。
最初に僕に声をかけた男の子が何故か顔を赤くして黙って保健室を出て行った。
きっと彼はアリスのことが好きだったのだろう。僕に対する野次もそんな嫉妬心からに違いなかった。
けれど僕はそんなことを気にしている余裕も無かった。
アリスの言葉にただ驚いていた、おそらく保健室にいた男の子達の中で一番驚いていたのは僕だろう。
アリスが自分のことを好きだと言った。
それはいったいどういうことなのか、頭の中はごちゃごちゃで保健室にアリスと二人きりになっていることにも気づいていなかった。男の子達は結局逃げるように全員出て行ってしまったのだ。
「え?」僕は自分の声がひどく間抜けに響くのを聞いた。
「私は、直君が好きよ」
どこかさっぱりしたようにアリスはそう言った。
「僕は…、どうしよう、お話がめちゃくちゃだ。白ウサギはアリスに恋をしてもいいのかな?」僕は顔を赤くして、ぽつりと言った。
「だって、白ウサギとアリスじゃ釣り合わないよ。でも、そうだね、僕も静穂が好きだよ」
その時のアリスの笑顔を、相川静穂の笑顔を僕は一生忘れないと思った。
その日は、アリスがワンダーランドから帰って来た日だ。
アリスはお姉さんではなくて爬虫類に似た、大好きな人に出会うことができたから。
相川静穂、僕の初めて好きになった女の子はアリスによく似たちょっと変わった女の子。
幼い二人の恋。
直は幸せの輪郭に触れました。
これから二人の幼い恋はどうなっていくのか。
次話にご期待ください