アリスの探し人
「直くん、今日転校生が来たらしいわよ」
山口先生がそう言って僕の前に湯呑を置いた。小学四年生の初冬、僕はもう僕専用となった湯呑に入れられた熱い玄米茶を啜る。
「男?女?」最近の僕は少し、自分でも分かるくらいには生意気な口のきき方をするようになっていた。山口先生は腰に手を当ててよく言うのだ『生意気になっちゃって』と。
「女の子よ。ちょっとは気になるんじゃない?」先生は少しからかうような口調で言った。
「別に」その時の僕は本当に転校生なんぞに興味はなかった。その時は。
噂の転校生はある日突然保健室にやってきた。僕と、山口先生のための空間へ、と。
彼女は不思議の国のアリスだと僕は思った。
僕はさしずめ帽子屋だ。先生と二人で永遠と行われるティーパーティを楽しんでいたところに彼女はやってきたのだ。
黒い髪はさらさらとしていて彼女の腰まで届いていた。
頬は少し赤くてそれがはっきりとした黒い眉とよく合っていた。シンプルなワンピースは彼女を示す薄い空色だ。
僕は読んでいた本を持ったまま固まってしまっていた。
「あら、どうしたの?」僕と向かい合うように小さい机の小さい椅子に座っていた先生が突然迷い込んできたアリスに声をかける。
「ちょっと、探検していたの」
鈴を転がしたような彼女の声が僕の耳をくすぐる。
「探検?それは素敵ね。で、ゴールはここで会ってる?」山口先生がくすくすと笑って言った。
きっとアリスは白ウサギを追ってここまでやってきたに違いない。
「んー、ここじゃないかもしれないけれど。でも、いいや。ちょっと休憩してもいい?」アリスはおかしさを堪える様に口に手を当ててそう言った。
彼女が保健室の扉を閉めて初めて僕は彼女から眼をそらすことができた。そのまま読書に戻る。
けれどいくら読んでも内容が頭に入ってこなかった。僕のすべての感覚はしっかりと小さなアリスに向いていた。
「さてさて、小さなお客様ようこそ、保健室へ。あなたはたしかつい最近転校してきた…」
山口先生が保健室の隅の灯油ストーブの前の椅子に彼女を座らせて言う。
「四年三組、相川静穂です」小さなアリスが大仰に自己紹介して見せた。
「静穂ちゃんっていうのか」ふむふむとでも言いたげな表情で山口先生は腕を組んだ。
そして先生とアリスは二人で笑い合った。彼女たちの風変りな自己紹介はこれで御終い。
先生は普段の山口先生にもどって
「私はここの、保健室の先生で山口友恵っていうの。山口先生でも友恵先生でも好きに呼んで頂戴」
先生は小さなアリスが気に入ったのだろう、小さな湯呑にお茶を注いで彼女に渡した。
基本的に先生は保健室を訪れる生徒達にお茶をいれない。
強請られたり、僕のように丸一日保健室に居る様な生徒以外には。
「友恵先生」彼女は湯呑の中のお茶を見つめて言った。
「私、ある人を探しているの」
「あら、誰かしら?先生の知っている人?」
きっとアリスが探しているのは白ウサギだ。赤いチョッキを着て金の懐中時計を持っている。
「その人はね、私が転校してきてから一度も教室で会ったことがないの。名簿には名前があるのに、机だってちゃんと教室にあるの。だけど担任の先生も朝の点呼で名前を呼ばないし、他の子たちも気にしてないの。私はその人を探しているの」
彼女の言葉に僕は息が止まるかと思った。彼女のクラスは四年三組だ、そして僕のクラスも。
そして僕は毎日保健室登校をしている、教室に顔を出したことは一度もない。
僕は帽子屋ではなくて白ウサギだったのか。
「あら、その人のことなら心当たりがあるな」山口先生は意地悪い目をして固まっている僕のほうに眼を向けた。
僕はどうしていいかわからない。
「本当?先生」アリスはうれしそうに先生を見る。
「ええ、その子は教室ではなくていつも保健室にいるの。本が大好きでね難しい本をいっぱい呼んでいるのよ」先生が僕のほうを見たまま言った。
「やっぱり、そうなのね」
ついに白ウサギを見つけたアリスはうれしそうにそう言って僕のほうへやって来た。
正直に言って僕は怖かった。かわいらしいアリスが突然意地の悪いチェシャ猫に化けてしまいそうな気がした。
アリスは固まっている僕の横に立つと僕の持っている本、『不思議の国のアリス』をちらりと見るとその小さな手を差し出した。
僕が顔をあげるとにこりと笑い、そして、「初めまして。白ウサギさん」と言った。
「赤いチョッキも着てないし、金の懐中時計も持ってないけれど。でも、初めまして、アリス」僕はそう言って彼女の手を取った。
小さくて細くて、今にも壊れてしまいそうな、けれどとても温かい手だった。
直はアリスと出会いました。
物語はいったいどのようにすすみだすのか
不思議の国の様にはちゃめちゃになってしまうのか
次話にご期待ください