爬虫類と銀河鉄道
直にとって、小学校での生活は辛いことばかりだった。
同級生達は彼のことを爬虫類と呼んだ。
体中に出来た擦過傷は彼の肌をたくさんの瘡蓋で覆う、縦横無尽に走る彼の肌の歪な線、彼が体を引搔くたびに落ちる肌の切れ端、凹凸や引き攣れ、それらは爬虫類の肌を思わせる文様を描く。
肌の色は斑で、自分の手で作ってしまった擦過傷のせいで激しい動きは痛みを生む。
結果、彼は常に体を縮こまらせて、服で体全体を隠すようにし、教室でもフードをかぶったままだった。
誰も近寄ろうとせず、しかし、ある一定距離からは誹謗中傷が飛んでくる。
教師達は皆、厄介事には関わろうとはせず傍観するだけ。エスカレートする周りの子供達の言動を彼らの親達は止めようとしない。
不幸なことに、彼の住む地域には彼の疾患についてしっかりとした知識を持つものは医療関係者以外にはわずかしか居らず、そしてそこが田舎であることは彼を守る者の少なさを残酷に示した。
彼の持つ疾患がそれほど珍しいものではないのにも関わらず、だ。
小学校の六年間を彼は図書館と保健室を中心に過ごす。
学校の養護教諭は唯一彼が心を開ける人間だった。
彼女は彼の抱える問題を何とかしたかったが去年大学を出たばかりの新米教師である彼女には何もできなかった。
他の教師達は知らぬ存ぜぬを貫き通し、養護教諭である彼女には教室内で起こる問題に対処することは難しかった。
彼女に出来た事と言えば彼を保健室登校させ、彼のために図書館を開け、彼の気に入った本について貸与手続きをしてやる事ぐらいだった。それですら、教頭に無理を言ってなんとかという状態だった。
彼女にとってそれはなりたかった保健室の先生という夢を根本から崩すものだった。
たくさんの子供達から愛される先生、心や体に怪我をした子供達が最終的に頼る、信頼を寄せられる先生。
それが一般教師達は子供達を面倒を起こす厄介な仕事の一部としか考えておらず、養護教諭である彼女自身は子供達どころかたった一人の子供の苦悩を取り除いてやることすらできない。
それなのに彼は、可哀想に学校のほとんどの人間から差別を受ける彼は、彼女だけは信じられるとでも言うようにそのあどけない笑顔を向けてくる。彼のために何もしてやれない彼女に笑顔を向けて照れたように言うのだ。
「山口せんせ、今日も図書館で本借りていい?」
このところ彼は保健室登校を続けている。登校すると教室には行かず、真直ぐに保健室に来るとランドセルを下ろし、小さな机に座り本を読んだ。彼女に教えてもらいながら勉強もした。給食でさえ保健室で食べる。
彼にとって学校とは保健室と図書館で、先生は保健室の先生だけだ。
山口友恵、それが彼にとっての唯一の先生、養護教諭である彼女の名前だ。
友恵は自分の白衣についている名前の記されたネームプレートを時折、いじった。
養護教諭なんてたいそうな肩書の下に山口友恵と自分の名前が書いてある。彼女は思う。
こんなものを胸につけて、さも私は保健室の先生ですなどと子供達に言っていて良いはずがないと。
自分を信頼してくれている子供を救ってやれない保健室の先生など意味がないと。
友恵は、今は楽しそうに本を読んでいる男の子を見る。
彼は二年生、あと四年間で自分は彼を救ってやることがきるのだろうか。
もしかしたら来年にも、転勤になるかもしれない。
そうなったらその後、いったい誰が彼のために図書館を開けてやる?
自分の次にくる養護教諭が他の教師達と同じサラリーマン教師だったらどうする?
彼は本当に居場所をなくしてしまうかもしれない。
彼の抱える問題を改善させることができないのであればせめて彼がやっと手に入れたこの居場所をつぶしたくはない。
彼女の今の願いはそれだけだった。
彼はまだ八歳、彼は読書が好きらしく、すでに子供向けの絵本などは卒業していて今手に取っている本も高学年向けの文庫サイズの一般小説だった。
彼の文学に対する知識はおそらく他の一般の子供達とは比べ物にならないだろうと彼女は思う。
けれど、それを喜ぶ気にはなれなかった。
それだけ、彼が本を読む事ぐらいしかできない環境にいたという事なのだから。
国語教師ではないのでわからないけれど、本というものは絵本から徐々に文学へとステップアップしていくものだと思う。
始めは、絵を見ることが中心に文というものに慣れていき、だんだんと文学というものを理解するにいたるはずだ。
彼が読んでいるのは図書館においてはあるものの本が好きな高学年の人間がとるかとらないかという様な純文学。
活字離れが叫ばれる今、ハッキリ言ってこの学校にいったい何人の子がその本を卒業までにとるのか。
実際、貸出カードにはここ数年名前を書き込まれた形跡はなく本があった棚にはうっすらとほこりが積もっていた。
「ねぇ、せんせ。カムパネルラって外人さんの名前でよくある名前なの?」直が読んでいた本を閉じて友恵を見た。
「さて、どうだろうね。私はあんまり海外のことはよく知らないから」友恵はできるだけやさしい笑みをつくり答える。
いったいどれだけ辛い環境にいれば八歳の子供が『銀河鉄道の夜』を理解するまでにいたるのか。
たった八年間、しかも文字を覚えたのはここ数年のはずだ、それだけの間にいったい彼は何冊の本を読んだのか。
それだけの時間を読書以外の子供らしい遊びに興じられなかったのは誰のせいか。
同情を顔にだしてはいけない、それは友恵が自分に決めた彼に対するルールだった。
「親友ってよくわからないけれど、なんとなくジョバンニのことはわかる気がする」
孤独な少年ジョバンニに共感する彼はどこかザネリを助けて死んだカムパネルラに似ている気がした。
直にとってのたったひとりの先生、友恵先生の登場です。
これから、彼らはどうしていくのでしょうか。
直は友恵先生以外には心を許せないのでしょうか。
次話をご期待ください