家主出張編
「それでは行ってまいります」
「はい、いってらっしゃいませ」
ドアがゆっくり閉まっていくのを、一応の礼儀として見送る。
大荷物を抱えていた彼の気配が消えた後に、ドアの鍵をかけるとそそくさとその場を後にする。
なんとなく気が向いたので、彼の部屋に入り。はしたなく寝台の上に登り窓を覗き込む。階下には階段から降りて、駅へと続く道を進んでいく彼の姿が見える。
別に毎日ここから見ているわけではなく、ただ今日は時間があったのでそうしただけである。
本日は金曜日。平均的な会社員は普通ならば早く帰ってのんびりするか、息抜きを兼ねてなじみの酒屋に顔を出すなどする日。
しかし、彼は本日より二泊三日の出張である。
地方で行われる同業種のお偉いさんの意見交換会なる、ホテルで酒飲んで、本番前の土曜日はゴルフして、飯を食うのが主体の集まりに。日曜日の本番に参加する上司の付き添いで行くことになっている。
いつものカバンに加えて赤いキャリーケースを引いているのが、それを物語っている。
彼女が重たく持ち上げられないそれは、その気になれば彼女自身が入ることが出来る程度のサイズだ。
そんなえも言われぬことを考えつつ、彼が角を曲がり見えなくなると。さてととばかりに彼女はギアを入れなおす。考えるべきはいかにこの3日を有意義に過ごすか。
家主がいない3日間の間は、完全に一人である。誰を期にすることもない。前の小さなワンルームでは治安等の関係から息をひそめていたが、今の暮らしは底を期にする必要はない。
とは言っても元より今の生活も日中は一人であり、のびのびと羽を伸ばせている。
彼の妹より習った、動画配信というのは大した手間ではないので、あまり時間もかからない。それでいてすぐに収益化が出来たとやらで、お金が入るらしい。
匿名でパトロンを募集するシステムかつ、それに広告を張り付けるという、ビジネスモデルの搾取性の高さには驚いたものであるが。彼との生活費の足しになるのならばあまり問題はない。閑話休題。
ともかく彼女は、出張に彼が行くのを聞いて、まず心配したのは自身の食事だった。
家計をともにするようになり、金銭感覚もしっかりと身についたので、宅配ばかり頼むのも変な感じがしたのである。元は一国の姫がずいぶん倹約を覚えたというべきであるか。まぁ本当のところは、食べるものを自分で決めるというのが面倒なだけというのが大きいのだが。
ともかく、家主にそう伝えると。彼は出張前だというのに2晩かけて、多くの料理を大き目のタッパーに小分けにして大量に作って見せた。
殆どは料理好きの母親に聞いたレシピ通りに作ったとのことだが、日に日に料理のスキルが上がっているのを姫は実感していた。味というよりもレパートリーの面での進化を優先しているのが、なんというか家主のズレっぷりで、少しおかしく感じたが。
キッチンスペースで彼の入れておいた、コーヒーの香りを楽しみながら、この後のことを考える。今確認したが食事は十分にある、仕事もない。普段ならば適当に映画を見るなり、本を読むなりで終わる。
この世界で唯一の友人といえる、彼の妹が以前遊びに来た時もあったが。
彼女は金土日は基本忙しいとのことだ。
なれば、何をするか。仕事の準備は昨日終わらせてしまったし、完全に自由に使える一人の時間。結局編み物や刺繍は始める気力も起きない。
電源の有無にかかわらずゲームは家主とするためのものであり、配信でお金が入るのは仕事だからやっているという認識なので、あまりやりたいとも思えない。
読書も図書館より借りた本は読み終えてしまっている。無計画に昼間読むのではなかったと内省するが、改善する気はおきない。
結局飲み終わったコーヒーを下げて、コップを洗って籠においてから、彼女は家主の部屋へと向かう。そのまま彼の部屋の寝台に横になり、布団をかぶる。寝てから考えることにしたのだ。いつものように。
昨晩の彼はこの寝台で寝ていないからか、彼の匂いはそれほどでもない。気にするほどでもないし、自分の寝台を既に持っているのについ癖でいまだにこちらで仮眠をとるのだ。
起きてから、そう後で考えればよいと考えつつ、まずは眠りにつくのだった。
「んっ……ふぅ」
微睡んだ意識と甘い吐息を漏らして、息を整えてからゆっくりとベッドから抜け出す。時刻は既に午後になっており。いつも通りの午前の二度寝を終えたというところか。
昨晩の食事から朝食は非常に簡素なそれだったため。夜半の消費カロリーを補うために体が空腹を訴えている。
本能に従うべく、キッチへと向かい冷蔵庫から一番左のタッパーを取り出して、電子レンジにかける。生活のスタイルが現代日本人としては完全に慣れてしまっている。元亡国の美姫にして傾国の姫である。
しかし、こういった高度な魔道具と呼んでいた、電子機器や家具によって、この世界に来て使えなくなった魔法を鑑みても快適な生活を送れていた。
すぐに程よく大量のお湯が出るのならば、清めの魔法でごまかす必要もなければ。温めることも、毒見も必要ない食事にありつけて。
一人で暮らすとしたら最低限出来なければならなかった家事も、魔法を使うよりも簡単にできる。家主の家にはないが、掃除を自動でする機械もあるのだから驚きだ。
あまり味のしない食事を終えて、一先ず彼女は彼の妹に購入してもらった自身のパソコンを立ち上げる。将来の姉か妹という理由でかなり甘やかされている。恐らくは妹が欲しかったという理由による、妹扱いであろう。
もはやなれたもので、ニュースサイトを適当に眺めてから、テキトーに目星をつけていた、映像作品を鑑賞し始める。
ぼーっと。ただ何の感動も得ていないような目でそれを眺めながら。それでも一定以上には楽しいという感情を得ていれば。そろそろ夕方になるかと時計を見ても、まだ3時のおやつにちょうど良いといえるような時間で。少しばかりの驚きを得る。
こうした無為につぶす時間が経過するのがいつもより遅い。どうやら、早送りで映像を見ていることを失念していたようだ。
まぁよいかとばかりに次の作品を漁る。そしてふとした時に目に入る時計の進み具合に首をひねりながら。彼女は午後を無為に過ごすのであった。
夜一人での好きな時間に取れる食事を終えて、それから湯船につかる。
体を温めるという目的での入浴は、あまりなじみのない習慣ではあったが。やってみるとよいものだ。
この家を借りる際にマイナスポイントとなっていた、あまり大きくないという触れ込みの浴槽も。彼女からすれば足を延ばしてもなお、余るほどなのだから。
ふと見下ろせば、目に見える範囲に傷一つない肌が見える。化粧が肌にあっていたのか、性能が良いのか。こちらの世界に来てから肌の調子は良い。食事のおかげかも知れないが。
以前よりは、だいぶましになったとは言え、相も変わらずまぐわっているというのに、痕跡が残らない。少し前にさんざん遠回しに、かつ長い時間をかけて強請って。やっとこさつけた彼からのヒキィは既にほぼ消えている。鏡とにらめっこして、うっすらとあるかもしれないというほどだ。
彼からの傷が欲しいのではなく、ただあまりにも大切にされるのが座りが悪いだけだ。独占欲を暴走させるくらい求められれる方が、安心できるだけだ。
一方で家主は、彼女を自分の家に閉じ込めているというだけでだいぶ倒錯的な感情になっているので、それ以上の束縛をしたいと思えないという、微妙なすれ違いがあった。
彼好みらしいこの短い髪は、乾くのも早くて楽だと改めて実感しながら、彼女は着替えて、自室へと戻る。彼の視線を考える必要もないので、地味かつラフなものだ。
目も疲れたので自身の寝台で横になり、灯りを消すのも億劫なまま、天井を眺める。まんじりと何もしない時間がただ過ぎていく。昼寝もしてしまったので、すぐに寝付ける訳では無い。
ふと横を見れば通信端末がある。回線の契約をしていないが、通話もチャットもできる。しかしそういう気分ではなかった。
彼と話したいのでも声を聴きたいのでもないのだ。
そう、彼女はただ目の前で彼が困ったように笑いながら、いうことを聞くのが好きなのであって。彼がいないと寂しくて何もできないというわけではない。
彼がそれに恥じらったり期待したり躊躇うのが。それがとても楽しいのだ。
だからこそ、執拗にこちらを束縛する事にこだわってしまうのかもしれない。
歪んではいるものの、倫理観は比較的全うな彼は、そういった点で二の足を踏んでいるのか。
そんなことに改めて思いなおしつつ。意識が薄れるまでぼーっと天井の染みでも数えるのであった。
一人で暮らすことは楽しい。
何せ彼女のもともとの目的は隠居だったのだから。
しかし、いまはすこしだけ違う。日中の一人でのんびりする時間は、気楽でリラックスできて好きだ。絶対に欠かしてはいけない。
しかし、それと同時にこの昔に比べて随分と窮屈で、息苦しこともある、パートナーのいる生活は悪いものではない。
そう、言ってしまえば、この暮らしが好きだった。たまにはこういった数日彼と会えない日があっても良い。そう自分で考えるくらいには。
どんな相手でも。それこそ還暦を過ぎた脂ぎった老人一歩前の男でも、必要とあれば嫁いで寵愛を得るために。撓垂れ掛かって蠱惑する。口で手で躰で魅了し虜にする。
そういった覚悟すら持っていた彼女。王家という契約に縛られて生きてきた以上、対価を徴収されれば否応無しとそう思っていたから。
冴えないが害意のない都合の良い男で妥協した。それがスタートだったはずだ。
妥協とはいえ、自身で決めた終の棲家である以上。それを良くしていこうと考えるのは当然の帰結で。
彼を好ましく思うことに、彼からの対応の改善というメリットがあるのならば。彼を好きな所作をすることも、やぶさかではないのだ。
もう充分以上に彼が姫に溺れていることも。放っておいても十分なほどに盲目になっていることなど棚に上げて。
彼女はより良いものを自分に向けるために、あくまでその為に彼へのアプローチをかける。
いじらしい言い訳だと、冷静な自分が指摘することなど聞く耳持たない。
ただ、彼にしてあげたいことをしているだけだと呆れられても気になどしない。
可愛いと言われることも、何気ない仕草に見惚れていることも。もはやただの確認行為でしか無いのに、そう仕向けてしまうのだから。
ジャックポットを当てているのに、彼女はレイズをやめないのだ。ただただ無駄にップを投げているのと何ら変わりがないのに。それを彼女はレイズと言い張っているのだから。
「ただいま帰りました」
調子の抜けた声。移動かそれとも仕事が原因か。疲れが感じ取れる声に、帰ってきた安心感と喜びがないまぜになった。そんないつも通りの顔で、家主は帰ってきた。
通勤用のカバンを背負い、キャリーケースを引いて、その上には、お土産らしき紙袋を載せて。
「おかえりなさい、家主様。お風呂沸いてますよ」
「え? ありがとうございます」
そんな彼を出迎えた彼女は、お土産の紙袋を受け取りながらそう返す。食後に入浴するのを好む彼女と、帰宅直後に入浴をすることを好む彼では。こういった、風呂の準備をしてあるといったことは、今までほとんどなく。
彼女を待たせるわけにも行かず、肌寒い季節となっても尚シャワーで済ませていた彼は、多少の狼狽を隠せなかった。
ただまぁありがたいことに変わりはないので。靴を脱いで、雑巾でキャリーのホイールを拭いてとしていると。見送りが終わりご希望であろうお土産を渡したのにまだ部屋に戻らない彼女が、床に座った彼とあまり変わらない目線で問いかけてくる。
「それとも、ご飯を準備しましょうか? まだ作り置きが余っていますので」
「いえ、まずは汗を流したい……ん?」
彼はここでまさかとは思うが、お風呂ご飯と来たらという可能性に気づく。いや、そんなお約束の会話をするような彼女ではなかったな。
姫様は王道よりも、少し外れた倒錯的なものがお好きなようだと。彼は常々思っていたからである。またはそれを加味してからかいに来ているかというわけだ。そう思えば玄関から蹴らない理由も納得できる。
「家主様?」
「っと、どうしました?」
彼が拭き終わったキャリーを床に置いたタイミングで、彼女は彼が立ち上がる前に膝の上に滑り込むように、膝を乗せて座り込むように拘束してくる。
彼女は歩いていて熱くなったためにネクタイは外している彼の、ボタンも2つ目まで外しているYシャツの胸元に頭を擦りつける。
「ん……あまり汗をかいていませんね」
「いや、もう涼しくなってきましたし」
匂いをかいでいるのか、吐息かなにかに少しの冷たさを覚えながら、姫の様子にたじたじとする家主。
何か伝えづらいことでもできたのだろうか? 皿を割ったり、家電を壊したり等の? 彼がそう訝しんでいることなど露知らずに、彼女は彼の胸元の汗を少しばかり口に含んでいた。
匂いもそうだが、時期のせいかあまり汗をかいていない。
そして何よりも男の性の匂いが、想定したよりもかなり薄かった。
ここで彼女の中にいくつかの疑問が鎌首をもたげる。
彼女は、少なくともあまり表層上は気にしていないが、彼がいわゆる女娼に入れ込んでいた過去があるのをしっかりと把握している。
この家に引っ越す前くらいまで、財布にその手の店のポイントカードと外泊施設の割引券が入っていたことも、当然把握している。不用心に財布を置いておく彼が悪いのだから。
別に、肉体関係を持つ前までの彼の経験はあまり気にしていないのだが。
では今はとなると。確かに外に女を作るのは彼の自由意志だが。それはそれとして気に食わない。というところか。
まだ世継ぎを作ってないのに? という経験則で培った感覚と。相手がいるのならば不誠実では? と思うべきだという、この世界の常識での判断だ。
二人の関係は形式上は婚約ないし結婚しており、親への挨拶も済んでいるのにだ。
彼は普段から金がないと言いつつ、彼女の計算上今月は2万円弱ほどの会計外の所持金があるはずで。ホテル代が浮く会社の金の出張で。羽目を外したのではないか?
仕事で行って上司も同道していると聞いていたが、部屋は一人とのことも把握していたのだ。
そうならぬよう、出立前夜はさんざ搾り取ったというのに。
疑惑を持ってしまえば、急に怪しく見えてくる。彼女はすこし鎌をかけることにした。
「呼びました?」
「え? いや何も」
一先ず『呼ぶ』という言葉にも反応がなく、こちらに対してやましいことはない発言だ。胸元に耳を当てて聞いていた、脈拍と呼吸も正常、発汗もない。むしろだんだんと落ち着いていっている。
これほどの美姫が懐にいるのに落ち着くとは、どういった了見かと。今度はまた別の疑不満が持ち上がるが、ひと先ずは推定無罪と判断しよう。
「それよりも、折角なんでお土産見てください、姫様」
「あ、そうですね」
まるで、投げたボールをとってきてどや顔をしている、撫でられることを待つ大型犬のように、笑いながら様子を見ている彼を後目に。彼女は、家主の言うとおりに、紙袋の中身を取り出す。膝から退くこともなくその場でだが双方気にすることはなかった。
全くこの人は、毎回驚いて喜ぶ反応をするこちらの身にもなれと思いつつも。中から出てきたものを見て、本当に少し驚く。
「まぁ、これは」
「一房12kの輝いているやつです。時期と場所が良かったので」
なんとまぁ、簡単な話だったようだ。出張の場所が決まった時点で、買って帰ることを考えて計画していたのであろう。目の前の男はそういう事をする。
あとで食べましょう。なんてニコニコしながら言ってくる彼に彼女は小さくため息をつく。
あまりにも不毛だ。
決して根っからのまっさらな善政といえるほどの清廉潔白な男ではないが。なんというか、彼はこの手のことで駆け引きが出来るほど、大人ではないのだ。
「ふふ、ありがとうございます。家主様」
「いえいえ、いつもお世話に案ってますし」
どの口がと正直彼女は言いたいほど内心で毒づく。客観的に見てお世話になっているのは少なくとも今はこちらなのだから。それを改めようとは思わないあたりが、彼女ではあるが。
「ふふっ、お礼は後ほど。寝屋でたっぷりとさせてもらいます。それを期待してのものでしょう?」
別に、家事を少し手伝ったり、何か贈り物をしたりなんて言う、ちょっとしたお礼なんて幾らでもできる。だが、彼女の本質的にこの方が面白くて、メリットが多くて。ないによりも我慢が嫌いだから、即物的なものを出す。
そうすることこによって、彼の心に、体を差し出すしかできない哀れな女をかくまっているという、罪悪感が植えつけられることも。善意の贈り物で、彼女を買ってしまっているのではないかという倒錯感を。そして直接的な肉欲を。
それらを刺激して、彼女に振り向かせる。既にまっすぐ彼女しか見ていないのに。それ自体が彼女が内心望んでいる関係を遠ざけているのに。
「え、いや。その、お気持ちはうれしいですが、別にそんなつもりでは」
「この前の続きでも致しましょうか?」
「いや、あれは……なんというか、やりすぎというか」
先週あたりの彼女がしかけたイメージプレイの迫真すぎる演技が、彼に二の足を踏ませる。
小柄で非現実的な体を活かした「嫌ぁ!! 人間の子なんて産みたくない!!」と迫真の声で泣き叫ぶ、手を縛られて腰を浮かせた姫を前に、彼は興奮よりも先にとてつもない罪悪感を覚えてしまったのだから。
「たまには、家主様主導でやってみたいですね」
「え、えっとー」
いつの間にか、お礼とかそういう話ではなくなっており、また彼がたじたじだ。でも、それでいいのだ。最終的に彼は満足するのだから。
彼女の心はこういった関係を続ける以上満足していないから、実際のところ良くはないのだが。
「じゃあ、その、折角だしこのまま新婚さんプレイを」
「もう、家主様は……ではお風呂で私を……ってことですね」
もう従ってしまおうか? 彼に導かれるままに。ただ普通の恋人のような関係を作れるだろうか? そう思う自分を振り払う。もう彼とは契約をしたのだ。故にそんな形の関係はきっと作れないだろう。彼女自身ですらわかりかねてしまっている素直な内心を全部吐露でもしない限り。
「ところで、水着は星条旗ビキニと、ユニオンジャック。どっちがいいですか?」
「えぇ…」
だが、それはそれとして肉欲に溺れさせるのは楽しいので、彼女は全力でやりきるのだ。




