第十五話 洞窟の中では
険しい山の斜面を下り、どうにか洞窟の入口に到達したとき、元気だったのはマサカー教授だけであった。
滑落の恐怖に未だ青ざめた弟子たち、イーライとヒイラギがまっ黒い口を開いた洞窟の前でへたり込んでいるというのに、教授は一人、迷いのない足取りで闇の中に吸い込まれていった。
「ちょ、まってください教授!」
二人は慌ただしく荷物をかき回し、ランプに火をともしてから教授の後を追った。気にしないように努めていたが、腐敗した魚のような生臭さが、闇に一歩踏み出した途端強くなった。思わず鼻を覆った二人は、教授に追いつこうと足を速めた。
気のせいか、先を行く小さな教授の背中がかすかに光を帯びているかのように、ぼんやりと闇の中に浮かんでいる。
その異常さに、気が急いている二人は気付かない。
灯りを持たない教授が、なぜああも迷いのない足運びで先に進んでいけるのか。それは疑問に思っているが、簡易ランプの乏しい光を分け合いながら、地面から不規則に突き出ている岩に足を取られて怪我をしないために奮闘している彼らには、教授を見失わないかどうかが最大の懸念事項になっている。背後を振り向いても既に入口の明かりは見えなくなっている。闇の中で方向感覚を失い、このうえ教授に置いて行かれたら、二度と再び日の目を見られるかどうか。
そのせいもあって、徐々にきつくなる悪臭にはじき慣れてしまった。
マサカー教授は洞窟の中に入った瞬間から、邪魔な色眼鏡を投げ捨てていた。カシャン、と頼りなく響いた音を置き去りにして、彼女はずんずん奥へと進んでいく。といっても、ここに来るのは初めてである。それでも、正しい方角は、感じることができた。
たとえば、この徐々に強くなっていく生臭さ。
それから、淀んだ空気をわずかに震えさせる振動。
目を閉じていたとしても、目的地まではたどり着くことができるだろう。
邪魔な色眼鏡を取り払った彼女の瞳は、光源などどこにもない闇の中で黄金色に輝いている。はるか後方を歩く二人の弟子たちがみているのは、その金の光に縁どられた彼女の輪郭だ。
忌まわしい邪眼だと、生まれ落ちた途端に危うく抹殺されかけた緑みを帯びた金色。
王家の人間は、皆特徴的なグリーンの瞳をしているのだと。少なくとも、王位を継ぐものとして必須なのがその瞳。
馬鹿げている。
知能が劣っていようが政治の才に欠けていようが、その瞳さえあれば、正当な王位継承者として王の座につく資格があるのだと。
テキサ王女は、幼少の頃より知力、武力ともに誰にもひけをとらなかった。それなのに、生かされているのは、寛大な王の恩情によるものだと、事あるごとに聞かされてきた。
あの多情な男を父だと思ったことはない。
テキサの母――短い期間王の妃だった女――は、王が他の女と結婚するために公衆の面前で首を斬られた。特に悲しくはなかったが、屈辱は感じていた。彼女の母親を顧みなかった男は、当然その娘も軽んじているに決まっている。
あの王の後継者になりたいと思ったことはなかった。
しかし、自分より明らかに劣っている者に偉そうにされることは我慢がならなかった。
眼下に広がる、容赦ない破壊の跡――
彼女がまだ城に住んでいた幼い頃、王都がドラゴンに襲われた。侍女に連れられて彼女は地下の迷路に避難させられた。反逆罪を疑われ拉致されてきた貴族など、表沙汰にできない罪人が捕えられた地下牢の前を通過して、迷宮の深部へ。鉄格子のはまった小さな窓から覗く、伸び放題の蓬髪と髭に埋もれた顔の中の小さな怯えた瞳が、従者の掲げる松明の灯りを映して煌めくところはなかなかの見ものだったが、彼女は外界から微かに漏れ聞こえてくるケモノの咆哮や大砲の音に気を取られていた。
どれだけ懇願して駄々をこねても、ドラゴンを一目見るために地上に出ることは許されなかった。暗くじめじめした通路で、とりまきたちと怯えた顔を突き合わせ震えている王の姿のなんと惨めなこと。
すべてが終わってからようやく城のバルコニーから見下ろした風景は一変していた。
廃墟。
あれだけ栄えていた都が、死と瓦礫の街と化していた。
幼い王女の全身に震えが走った。
あの時以来、テキサはドラゴンを追い求めてきた。古語を学び古文書を読むことから始めて、生物学や科学・化学を含む最新の学問まで。学業に没頭していれば、父王から受ける不遇もあまり気にならなかった。彼女を監視する老魔法使いのことも。
ドラゴンであれば、ちっぽけなヒトなど物乞いも王も等しく冷たい炎で焼き尽くすだろう。その姿を拝む千載一遇のチャンスを阻んだ侍女はのちに、全身を野犬に咬み裂かれた無残な姿で発見された。「野犬」の姿を見たものはおらず、咬み傷の鋭さは犬のそれとは一致しないようだったが、他に説明がつかないため犬の仕業ということで処理された。
どれほど、あの完膚なきまでの破壊を成し遂げたドラゴンの姿を見たいと渇望したことか。
テキサの足が止まった。
闇の中に、白い壁が浮かび上がった。
指先で触れてみると、硬くざらついていた。両の掌を推し当て、片方の耳をつけてみる。
とくん、とくんと、微かだが淀みない拍動が脈打っている。
テキサの口の両端が持ち上がり、牙のような犬歯が剥き出しになった。
「いたぞ、教授だ」
弱々しいランプの光を掲げた弟子たちがようやく追いついてきた。
「なんだ、これは」愚鈍な声を上げたのはヒイラギだ。振り返ってみなくともわかる。無防備に駆け寄ってくる足音がいかにも重たげだ。
イーライは手にしたランプを掲げ、慎重に周囲を見回して――といってもほとんど闇の中に沈んでいるのだが――洞窟の中でもひときわ天井が高い開けた場所に出たことを確認し、その風景の中では明らかに異質で、白く巨大なそれを抱き抱えるようにして立っている小柄な教授の三倍ぐらいの高さのある、丸みを帯びた物体の上で視線が止まった。
あれは、まさか
「教授、ご無事ですか」
ヒイラギの大声が洞窟内で反射するのも、イーライのは気にしなかった。白い物体の周囲から、強烈な異臭が発せられていた。それは、大量の魚や獣、さらに何体かの明らかにヒトだと思われる物体の、動く気配のないシルエット。
こつこつ、ぱりぱりと乾いた音がした。
「マサカー教授」
ヒイラギの声は大きすぎる、とその場に立ち尽くすイーライは思う。その遠慮のない声を通して聞こえてくる不穏な物音になぜ彼は気付かないのかと。
そして、白い物体の前に立っている教授。彼女がこの物音に気付いていないはずがなかった。明らかにその音は白い物体の中から発せられているのだから。
マサカー教授は、満面の笑みを浮かべ、片手を白く硬い表面にあてたまま、振り返った。その瞳が異常な光を放っていることに気付く余裕は、二人のうちいずれにもなかった。
まるまる太って、おいしそうだこと。
壁の一部が破れて、教授の頭ほどもある破片が彼女の足下に落ちた。ようやく異変に気付いたヒイラギが足を止めたが、彼は既に近づきすぎていた。
白い壁が内側からの力で破られ、中から飛び出してきたそれの大きく開かれた口、三重に上下に並ぶ鋭い歯とその奥に広がる深淵に呑みこまれたあと、ヒイラギの意識は途絶えた。
「たんとめしあがれ」
楽しそうに呟いた教授の言葉は、既に彼の耳には届かなかった。




