第十話 森の中
「なんだ、これは」
鬱蒼と茂る木々を抜けて視界が開けたところに出現したのは、黒焦げになってあらかた焼け落ちた小屋の残骸。小屋からはまだ煙が上がっており近づくと熱を感じたが、炎はどこにも上がっていない。
小屋が建っていた周辺は木が倒されちょっとした畑や作業スペースになっていたが、それでも、周囲を厚く囲む木々には一切飛び火しておらず、小屋だけ程よく燃やしたあとに大人しく鎮火したように見える光景は異常であった。小屋の中――屋根や壁は焼け落ち、かろうじて焼け残った竈や床の一部などが剥き出しの状態――でひときわ損傷が激しくここが出火場所であろうと思える場所には、黒焦げの塊、性別は不明だがヒトであることは間違いない骸が一体。
どうして出火したのか、またどうやって消し止められたのかも不明だった。小さな井戸は小屋のすぐそばにあるが、ポンプで持続的に大量の水をくみ上げる装置がなければ、無意味だ。だいいち、火災現場のどこにも大量の水を被った跡はなく、乾いている。
「一体どうなっているんだ」男は無精髭の伸びた顎をさすりながら首を傾げる。燃え残った木材が発する煙を眺めながら。
背の高い男だった。年の頃は五十歳前後。がっしりした体格だが、やや締まりがない感じがする。顔には深い皺が刻まれ、若い頃はさぞかしいい男だったのだろうと感じさせるが、こちらも少したるみが見られ、不健康な生活を送っていることが窺えた。光を反射すると鈍色に光る胴着を身に着けているが、それは現在の彼にはやや窮屈そうで、この昼なお暗き森の中では、手入れを怠った銀食器のように黒ずんで見える。
「あらっ。こんなところに男の子が落ちていますよ!」
二日酔いの際にはキンキンと脳の奥まで響く元気すぎる声は、二日酔いではなくともキンキンと頭に響き、男は顔をしかめた。
「声がでかい。トロールはまだ寝ているとしても、どんな魔物や獣が潜んでいるかもしれないんだぞ。こんなところにニンゲンが落ちているわけが――あ」
声のデカい女の元に歩み寄った男は、今なお煙を発している小屋の残骸の外側に、膝を抱えた胎児のような姿勢で転がっているそれを見て口をつぐんだ。
「この家の子でしょうか」
女は地面に倒れている子供にかがみこみ、赤い液体を頭から被って酷い見た目の割に、どこも怪我をしていないことを確認してほっと息を吐いた。
「子供というほど、幼くはないんじゃないか」
女の作業を少し離れて見守っていた男はやはり顎をさすりながら言う。
「でも、大人でもないでしょう」
女は立ち上がると、元気に宣言した。
「よーし。抱えて連れて行きましょう!」
「はあ?」
「夜になったらトロールが徘徊する危険極まりない森ですよ。こんなところに置いていけませんよ。ほら、そっち持ってくださいヘルシさん」
「俺にはドラゴンから村を救うっていう重大な任務が」
ヘルシの言葉を女は遮る。
「急に正気に返ってダイエットに励み短期間でそこまで絞り込んだのには素直に感心しますけど、長年飲んだくれたなまくらな体じゃ返り討ちに合うのが関の山じゃないですか。この子を助ければ、少なくとも一人の命は救えたことになれます。まずは、小さなことからこつこつ始めるのがリハビリってもんですよ」
ヘルシはかつてのドラゴン・スレイヤーとしての威厳も何もなく溜息をついた。彼の最も情けない姿を長年見続けてきた女、シスター・ウーヤには頭があがらないのだった。シスターはヘルシの全盛期を知らない。知っていれば、こんな態度はとらないはずで、彼女に思い知らせるためには、ドラゴンを倒して見せる以外にない。
しかし――
「あんたが勝手に俺の剣をどこかのぼんくらに貸したりするからこんな惨めなことになってるんだろうが」
ヘルシは不満たらたらながら、地面に転がる少年の両脇に手を差し入れて持ち上げた。シスターは足の方を持つ。
「どこかのぼんくらではなく、ヌガキヤ村の正直者こと、聖人シロ様ですわ。あの時点では、酒浸りでぶくぶく太ったあなたよりはよほど頼りになりそうでしたからね。それに、ちょっといい男だったし」
「神に仕える身で何を言ってるんだ、この生臭シスターが」
「若かりし頃のあなたなんかと違って、自分の魅力に気づいてないところがまたウブでよかったんですよ。あれは、魔法のせいですかねえ。ものすごくいい男なのに、全然魅力的に思えないんです。でも、神に仕える私の清い心が見抜いたんですわ」
「何が清い心だ」
「ああー、男の嫉妬は醜いですよ。いいじゃないですか、ヘルシさんは聖人様と違って、女なんて若い頃に好きなだけ食い尽くしたでしょう。もう十分じゃないですか。爺さんになってまでモテたいなんて、そういう無茶な望みが人を不幸にするんですよ」
「勝手に決めるな。俺が愛したのはただひとり――」
ヘルシは言葉を切った。ドラゴン襲撃の報を受けて彼が王都に赴いた時、王宮の厨房で各国から取り寄せた贅沢な食材に囲まれてうっとりと相好を崩した女の顔が浮かんだ。
昔の話だ。
『あんたのせいでご飯がまずくなるのよ』という言葉を残して女は去った。瀕死の重傷を負った彼を見捨てて。ドラゴンを仕留め損ねた末の無様な姿をさらす必要がなくなったと、喜ぶべきだった。しかし
「なーに追憶に浸っちゃってるんです。日暮れまでに森を抜けないと、私たち全員まずいことになりますからね、後にしてもらえますか。どんまーい!」
ぴしゃりと右の二の腕の辺りをひっぱたかれて、ヘルシは悲鳴をあげそうになった。ずり落ちそうになった少年の体を抱え上げながら、彼は情けない声で抗議した。
「それはやめろと言っているだろう。本当に痛いんだからな」




