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竜を喰らう:悪食の魔女 “ドラゴン・イーター” は忌み嫌われる  作者: 春泥
第五章 ヌガキヤ村の惨劇(フルバージョン)
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第九話 竜の谷

 ごつごつした急勾配を登りきった眼前に深い谷が姿を現し、教授は思わず感嘆の声をもらした。

 谷を形成する山々の斜面はほぼ垂直で、谷底を縫うように流れる川は糸のように細い。そして、谷底のあちこちに、朽ちた石造りの神殿跡。天井は崩れ柱は折れ、きちんと建っていた頃の荘厳さは想像するより仕方ない。

 調査に同行した地質学者あるいは民俗学者のリュウデン教授が存命であったなら、そこが太古のドラゴン伝説発祥の地であることを説明してくれたはずだ。昼なお暗き森に守られた、最古の都、その跡地。


 だが、若くしてドラゴン学の権威であるマサカー教授にそのような講釈は必要ない。この古い都については、文献もいくつか残されている。老いぼれた民俗学者が目指していたのは、この地に他ならない。志半ばで果ててさぞ無念であろう。教授は口の片端を持ち上げた。


 崇高なドラゴンよりも、とうの昔に滅びた都の伝説に固執する愚か者が。


 遠方に向けていた視線を手繰り寄せ下降させた教授は、思わず身震いした。

 彼女が立っている頂上から谷へ降りていく山肌もかなりの急勾配である。足を滑らせればまず命はない。落下しながらごつごつした岩に全身を砕かれ、ずたぼろの肉片になって地面に激突することになろうか。


「うわっ」


 ようやく追いついたヒイラギとイーライが肩で息をしながら、教授の両脇に立った。二人も眼前に広がる景色に目を奪われた。とりわけ、谷底に広がる廃墟の光景は、イーライに戦慄をもたらした。彼が生まれ育ったヌガキヤ村を囲う昼なお暗き森よりもなお村人から忌避されるのがこの太古の都の跡地だった。もっとも、村と直結している森との接触はときに避けられないこととはいえ、こんな辺鄙な場所へわざわざ村の禁を侵して足を運ぼうとする村人はいなかったが。


 自分は、とんでもないところに足を踏み入れようとしている。


 だが、今さら後悔しても始まらないとイーライは思い直した。やり直すチャンスはあった。キンシャチの歓楽街で久しぶりに再会したシロに借金を清算してもらったときだ。それももう、はるか昔のことのように思える。


「何を考えているの?」


 優しい声音で、イーライは我に返った。まるで心臓を鷲掴みにするような甘やかな声。イーライは小柄な教授の愛らしい顔から苦労して視線を引き剥がし、谷に向けた。 

「あそこに、影がありますね。洞窟があるのでしょうか」

 イーライの指先は、三人が立っている位置から右手側の急勾配を下っていった中腹を指していた。三人が立っている位置からはごつごつした岩肌に遮られてはっきりとはわからなかったが、黒い口をあけた洞のようなものがあるようだ。


「あなたは眼がいいのね、イーライ」


 教授は黒眼鏡の奥の目を細めて言った。彼女の色素の薄い瞳は、日中の太陽の下では黒いレンズ越しでも光が滲んで眼球の奥がずきずきと痛んだ。

「姿を隠してドラゴンを観察するのにちょうどいいかもしれないわね。あなたたちも、疲れたでしょう」

 教授の声は優しかった。少々優しすぎるぐらいだ。二人の弟子たちは身震いした。

「あそこまで下りるんですか」

 ヒイラギの声には恐怖が滲んでいた。

「あら。登ったからにはどこかに下りないといけないものよ。それに、こんな見晴らしのいいところに突っ立っていて、ドラゴンに見つかったらどうなるかしら」

 教授はこともなげに言った。


 洞は想像していたよりも大きかった。急な斜面を最後の気力を振り切って洞窟の入口まで下降した三人は、巨大な黒い穴の前で立ち尽くしていた。

「これは――」ヒイラギが絶句した。穴倉から漂ってくる臭気に、思わず鼻を手で覆ったからだ。

「教授、この洞窟は――」

 くしゃくしゃになったハンカチでやはり口元を押さえながら隣に立つ小柄な女性に向き直ったイーライも、途中で言葉を切った。泥まみれでもやはりどこか崇高な雰囲気を漂わせる華奢な女の横顔は、笑っていた。その笑みには、知性が感じられぬ無防備さがあった。


 つまり彼女は、本心をさらけ出していた。


「教授。危険です。この中には何か、獣か何かが」

 イーライの言葉を教授は薄笑いを浮かべたまま遮った。

「何かって、たとえばドラゴンとか? こんな狭い洞窟にあのゴーガンが入れるものですか」

「ゴーガン?」

「二十年以上前に王都タカツチを襲ったドラゴンよ。私はまだ子供だったけど、よく覚えている。村人の話を聞いて確信したわ。ヌガキヤ村を襲っているのはゴーガン、最古のドラゴンと呼ばれるクイーンよ」

「ですが」

「普通の獣が相手なら、あなたたち二人が私を守ってくれると思っていたけど、無理な相談だったかしら。こんなところに住んでいるのは、せいぜいコウモリとか、断崖絶壁を好んで暮らす山羊ぐらいでしょう。愚鈍なトロールは、こんな険しい崖の中腹をねぐらに選んだりしない。そうよね、イーライ?」

「そうかもしれません」

「では、この卵が腐ったような臭いは?」ヒイラギが鼻を手で覆ったままくぐもった声で訊く。

「この辺一帯の山は休火山だといわれているけど、活動を再開し始めているのかもね」

「そんな……」


 泣き言をいう二人の弟子を無視して、教授は暗い洞穴に足を踏み入れた。外からの光は入口から数歩で遮られ、内部は漆黒の闇だ。

 闇の中に教授の背中が吸い込まれた。イーライとヒイラギは慌てて簡易ランプを携えて彼女の後を追った。

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