第六話 記憶
入信の儀式を済ませても村人から疎まれ敬遠されていたシロの母ディオネアだったが、夫が浮気を始めると、大きなお腹で熱心に教会に通うようになったと神父は言った。
「信仰というのは、迷える人々を救うためにあるから、動機など関係ないんだ。私は喜んで彼女を受け入れた。初めは彼女を避けていた村人たちも、彼女の熱心な信仰と奉仕活動に励む姿によって、次第に彼女を受け入れていった」
「村の人達は、俺の母親が魔女だと初めから知っていたのでしょうか」
「知っていただろう。誰も口には出さなかったがね。魔女は、恐れられる存在だったから」
子供の頃から感じていた違和感。母親に連れられて、幼い頃のシロは週に一度の休息日には欠かさず教会に通っていた。父は大概不在であった。教会に集った信徒の人々が親切な顔で迎えてくれてもどこかよそよそしいのは、てっきり浮気者で大酒飲みの父親のせいだと思っていた。
シロが教会に足を運ばなくなったのは十歳になる前のこと。それは――母親が教会に足を運ばなくなったから。なぜなら――
「俺は、母親は死んだのだと思っていました」
シロはぽつりと言った。
「お母さんは、最後に教会にやって来た時に、告解をした。神のもとに告白したのだ。その内容は、例え息子のお前であっても、話すことはできない。だが、もしお前が自ら教会にやってきて自分のことを尋ねたら、伝えてやってほしいと頼まれたことがある」
ステンドグラスを通して礼拝堂に降り注いでいた午後の眩しい光が、雲にでも遮られたのか、さっと翳った。神父の声は穏やかだったが、その沈痛な面持ちは、歪んで見えた。
「お前の父親の息の根を止めるのは、お母さんなのだと。そう伝えてくれと彼女は言っていた」
あなたのために、私は何もかも捨てたのに。
シロの母親は悲鳴にも似た声で叫んでいた。
あんたみたいな、ごく潰しのために!
貧しいながらいつも清潔に保たれていた小屋の中が、荒れ放題に荒れていた。父親の浮気を詰る言葉に、泥酔した父はまともに取り合おうとせず、激高した母がだらしなく椅子に座っていた父親の頬を叩いた。酔っている父は、素面であれば女に手を上げるような男ではなかったのに、母を拳で殴った。酔ってはいても、体は大きく力も強かったので、小柄な母親は軽々と吹き飛んで壁に激突、床に崩れ落ちた。
暖炉に近い部屋の隅にしつらえた藁にシーツを被せただけの粗末なベッドで枕を頭から被って眠っていたふりをしていたシロは、異常を察知して枕の隙間からそっと覗き見た。壁際に母親が倒れていた。
「お母さん」
薄い毛布の下から飛び出し駆け寄ったシロを、父親は片手で払いのけた。たいした力ではなかったのだろうが、痩せてひょろひょろしていた当時のシロは、これまた軽々と床を転がって壁に激突した。
「何するのよ」
起き上がった母親が父に飛びついていた。小柄な彼女は、文字通りジャンプして夫の首の辺りに縋りついた。
ごつ
と鈍い音がして、父親が顔を手で押さえていた。そして反対の手で母の金色の髪を掴むと、彼女の細い体を乱暴に引きはがした。
床に転げ落ちた母に父親が蹴りを入れた。顔を押さえた手の下からは、血がしたたり落ちていた。
そこから先は、展開が早すぎて、シロに甦った記憶の中でも完全に再現することは不可能だった。鼻血を流しながら逆上した父が、床にうずくまっている母親の髪を掴んだ。
シロはぐらぐらする頭で、床を這った。手に触れたのは、薪割用の小さな斧だ。
やめて!
叫び声が遠くの方から聞こえた。それが自分の声であることはうっすらと自覚していた。
父親の頭頂部に、先程まで自分が手にしていた斧が刺さっているのをシロは夢でも見ているようなふわふわした感覚の中で見つめていた。
父親は信じられないという顔で顔の前に垂れ下がる斧の柄を凝視して寄り目になっていた。
「ああ、シロ、シロ、なんてことをしたの」
母の悲痛な叫び。
父親の頭に斧を叩き込んだのは、母親ではなかった。
「俺がやったんだ」
シロの大きな体がぐらりと揺れた。神父はそれを両手で支える。
「俺が、殺した」
「だがお前の父親は、斧の一撃では死ななかった」
神父の声が遠くから聞こえた。
死ななかっただと。シロは込み上げてきた吐き気と戦いながら思う。あんな状態で森をうろついてはいるが、まだ死んでないから大丈夫だとでも?
「あれは、死ぬより悪い状態だ。俺のせいで、親父はあんな風になった。それでお袋は――」
母親は父親の度重なる裏切りのために失意のうちに死んだと思っていた。今思い返してみると、いつ、どのように亡くなったのか全く思い出せないというのに。自分の残虐な犯行の目撃者を亡き者にしたかったのか。
どうして、こんな時に魔法が使えないの
こんな男のために!
母親の悲痛な叫びが甦った。
「魔法。まさか、母さんは、俺に魔法を」
「まだいくらかの力は残っていたようだ、と彼女は言っていた。それによって、お前は……今のお前になった」
「村の人達は、俺がやったことも知っていたんですか」
「ある種の《《事故》》が起きたことは知っていた。あのあと、森の中でお前の父親に出くわした者もいる。こんな小さな村で隠し事はできない」
「母さんが魔法で何をしたにせよ、俺が親父を殺したことには違いない。斧は頭蓋を割って脳に食い込む深手だった。助かる見込みはない」
「お前のお母さんの言葉を思い出しなさい。『お前の父親の息の根を止めるのは、お母さんなのだ』。彼女はそう言った」
「でも」
「私は、一度お前の家を訪問したことがある。あの事故のあとだ。そして、森の中を彷徨う父親にも会った。最初は、あんなむごい姿で森を徘徊させることに忍びなかった。神の名のもとに、私が終わらせてやろう。そう思った。だが、斧の柄にかけようとした私の手を、お前の父親は払いのけた。一瞬だが、あの白く濁った眼に光が灯るのを私は確かに見た。『息子のためだ』とタロは言った。お前は誰も殺してなどいない、そうするために、彼はああなることを進んで受け入れたんだ」
そんな詭弁がまかり通るわけがない。
シロはおぼつかない足取りで教会を後にした。広場では昼食の配給が始まっていた。シロの姿を認め、親し気に話しかけてくる者もいたが、シロは焦点の定まらぬ目であらぬ方向を見つめるばかりだった。
何が正直者だ
自分も、父母も、村人も、神父も、何もかもが厭わしかった。




