第五話 調査隊残党
ヌガキヤ村は周囲を山に囲まれた盆地で、見渡す限りほぼたいらな立地だ。アックスクラウン大学からドラゴンの調査にやって来たという若い女教授と学生二人の「小隊」は、村長のヌーからけんもほろろの扱いを受けた。
「この村がどういう状況に置かれているのか、全く理解されていないようですが」
無礼な田舎者は、マサカー教授にそう言った。
「ドラゴンの生態調査? スレイヤーに退治されたあとの骸だったら、喜んで差し上げますよ」
不遜なヌー村長をただちに爪で切り裂かなかったのは、放っておけばドラゴンの餌食になるだろうと思ったからだ。炎に焼かれ爪で裂かれ尻尾で叩き潰されればよい。煮えくりかえる腹の中でそう思いながら、マサカー教授はヌー村長に丁重に頭を下げ、その場を辞した。
最初は、この村の外れにでもキャンプを張って、ドラゴンが再来するのを待つ予定であったが、村長の話を聞いて、気が変わった。ドラゴンは、最初に現れてから一日あけて再来し、さらにまた一日置いて村に飛来したという。ところが、三回目の襲撃のこの日は、途中で明らかに様子がおかしくなり、さしたる被害も与えず引き返していったのだという。それは、マサカー教授がキンシャチで炭焼きと再会を果たした日であった。それ以来、襲撃が途絶えていると村長は言っていた。ここで待っていてはいけない、とマサカー教授の直感が告げていた。
こちらからドラゴンに会いに行かなければ。
この村出身のイーライは、村長や両親が止めるのを振り切って教授に従うことを選んだが、泣いていた。
「その女と一緒に行くのならば、もう二度と村には戻って来るな」
イーライの父親は、息子の背中にそう吐き捨てた。母親も泣いていた。奴らもドラゴンに喰われてしまえばよい、と教授は心の中で呪いの言葉を吐く。
まったく、人間などというのは面倒臭い。
不本意ながら、教授は両親と生まれ育った村を捨てることに迷い逡巡するイーライに魔法を使った。彼はトロールの襲撃からどうにか逃げおおせたあと、はぐれてしまっていた教授と再会できた高揚感に突き動かされ、暗い森の中で彼女をきつく抱きしめた。彼女は、彼のするままに任せていた。
「あなたは、私を守ってくれるわね。何があっても」
彼の頭をかき抱きながら、彼女は耳元にそう囁いた。彼は何度も誓った。
男を繋ぎ止めておくためにわざわざ魔法を使う必要などないのだが、念のための措置だった。荷物持ちが一人だけでは心もとない。もう一人生き延びた男は、卒業後も大学に残り教授の助手となった、彼女の崇拝者の一人だ。体を与えるまでもなく、彼女が微笑みかけてやるだけで何でもする醜く愚鈍な男。名をヒイラギという。頭のできはそれほどでもないが、体は農夫のように頑丈そうで、たしか田舎領主の三男か四男だったはずだ。
つまり、いなくなったとしても取り立てて大騒ぎになることはない。
だがそのヒイラギでさえも、重い荷物を背負って剥き出しの岩肌の斜面を登る表情は苦しそうで、むっつりと黙り込んでいた。農村出身の割にひ弱いイーライはかなりの後れを取って後方に小さく霞んでいる。
平坦なヌガキヤ村を突っ切って東側の森に入ってから三日が経過していた。この日の早朝にシロとリヴァイアがヌガキヤ村のヌー村長宅に現れたことをマサカー教授は知らない。知りようがないのだが、ナガミ村から昼なお暗き森に入ってから、彼女は胸苦しさを感じていた。
この森は私を歓迎していない。
それをひしひしと、毛穴から侵入して来る森の重苦しい空気から感じた。マサカー教授は少女時代に初めてこの森に足を踏み入れた時の不安な、今にも押し潰されるのではないかという、不快な感情を思い出した。
そして、背が高くいっぱしの男のようだが、よく見れば幼い顔をした炭焼きの少年のこと。
それから、トロールにしては貧相な、子供のトロール。
調査隊を襲わせた愚鈍な成体トロールのことを思い出し、教授はやはり手間暇を惜しまずトロールも始末しておけばよかった、と悔やんだ。
だが、あれは見ものだった。彼女が毛嫌いする大学の人間、教員も学生も、皆みっともなく泣き叫んで、四肢を引きちぎられ、頭を潰され死んでいった。
トロールは醜い生き物だが、あのように情け容赦のない破壊は、彼女をうっとりとさせた。恍惚の表情を浮かべ殺戮に見とれている間に、トロールを仕留める機は失われた。
しかし、目障りな民俗学教授とハッチョ屋の小僧はもくろみ通りトロールの餌食になったようだから。
そう言い聞かせても、気持ちが晴れないのは、イーライと合流してお互い気のすむまで貪りあっている最中に感じた、わけのわからないあれのせい。
形容し難い感覚だった。強いて言うならば――そう、強風が彼女の体を吹き抜けていった、しかし、髪の毛一本揺らすことなく、そんな感覚。
森の中の深く濃い闇が夜明けによって少し薄らいだ気配があった。
イーライの体の下で彼女はびくんと体を逸らせた。彼は勿論、それを歓喜の反応と捉え一層激しく彼女を求めてきただけだったが。
敵
あの暗い森の中で、そのような言葉がはっきりと浮かんだわけではなかったが、漠然と理解していた。彼女にとって酷くいやらしく禍々しいものが、彼女の前に立ち塞がることになる。そういう、予感。
だが、それは、一体なんだ。
確かに殺したはずが、呆けた老魔法使いのせいで死にぞこなった炭焼きか。あんなものは、ただ運がよかっただけ。あれが少年時代に殺してしまわなかったのも、彼女の気まぐれゆえのこと。仮にナガミ村で手配したチンピラが用を果たさなかったとしても、人間の男などになにができよう。
老魔法使いも、成長した彼女の敵ではなかった。ドラゴン・スレイヤー? 食堂で今も飲んだくれているはずだ。森の魔女? 豚みたいに食い意地のはったまじない師の末裔だ。魔法使いの間でも蔑まれる彼女たちなど、恐るるに足りない。
「――教授。マサカー教授。待ってください」
か細い声に背後から呼ばれていた。教授は足を止めて振り向くと、ヒイラギがはるか後方、イーライは点にしか見えないぐらい距離が開いていた。
あちらに聞こえる距離ではないからと、教授はあからさまな舌打ちをした。しかし、声だけは優しく、言った。
「ここで休憩しましょう。ゆっくり来るといいわ。お茶の用意をしておくから。可能ならイーライにもそう伝えてちょうだい」
ヒイラギは手を振って教授に合図すると、後方に向かって何やら叫んだが、興味を失った教授には何を言っているのかわからなかった。
鬱蒼とした森を抜けた先は、かなりの傾斜のある岩場の中腹だった。周囲を連なる山々と異なり、この山には草さえ生えておらず、頂上付近はさらに足場が悪く苦労しそうだった。
いっそのこと、あの二人をここに置いて――
マサカー教授は首を振ってその考えを締め出した。トロールの残忍性に見とれてつい向うの気が済むまで殺戮を続けることを許してしまった。七、八人は残しておくべきだったかもしれない。
しかしそれも、あちらの状況次第であるから、それほどの人数は必要ないかもしれないが。
マサカー教授は、情けない男二人が不満げに弱音を吐くので仕方なく自分も手を貸して運ぶことにした荷物を地面に下し、火を起こすのに丁度よさそうな大岩の陰でお茶の準備をした。軽く食事をとって休憩すれば、陽が沈むまでには頂上に辿りつけるだろう。




