第三話 もう一人の魔女
シロが村の教会を訪れるのは、ドラゴンが最初に襲来した日の翌日、古都キンシャチに向けて旅立った日以来だった。いや、正確には、あの日は教会の前を通過しただけだったが、わずか十日ほどで随分様変わりしていた。
教会への新たな加害はあれ以降なされなかったようで、折れた尖塔はそのままだったが、そこいらじゅうに散乱していた瓦礫は撤去されていた。応急処置を施されただけで教会前の広場に血まみれで寝かされてい負傷者は、村外れの仮設病院に収容され、自力歩行が可能な者は隣のナガミ村まで避難を終えていた。シーツを被せられ並べられていた死者は、既に埋葬が済んでいた。
現在の教会前広場は、食事の配給場所になっており、昼食時に向けて準備を進めていた。
「シロじゃないか」
野菜をカットしていた少年が叫んだ。まだ十五歳だが、避難組には加わらず、こちらに残ることを選択した農家の息子だ。大鍋では白濁したスープがぐらぐらと煮立っていた。豚骨を煮ているのだ。ここでも白スープを作っているらしい。
「帰って来たんだね! ドラゴン・スレイヤーを連れてきたんだろ?」
瞳を輝かせている少年に対し、シロは返答に困った。しかし、ここで彼が黙っていても、間もなく村中が知ることになろう。
広場で配給の準備をしていた人々がシロの周りに集まって来たので、シロは正直に打ち明けることにした。
「スレイヤーは、もう廃人同然でダメだった。二十年前に王都がドラゴンに襲われた時に負った傷が完治していないせいでね。そのかわり、スレイヤーの剣を借りてきた」
剣ときいて少年の顔が明るくなった。
「かっこいいな。それ、俺も触らせてもらえる?」
「危ないからだめだよ」
「シロがそれでドラゴンと戦うの? すげえ」
「いや、それは」
「シロ、戻ったのか」
神父が教会の入口に立っていた。シロはほっとして、神父のもとに駆け寄った。
「神父様」シロは頭を下げた。神父は黙って頷くと、
「中で話そう」とシロを招き入れた。
礼拝堂は、ステンドグラスの破損個所を板で塞ぐなどの応急処置がなされているのが見て取れたが、ほとんど無傷といってよかった。しかし、ミサの時に信徒が並んで座る木製のベンチは、概ね取り払われていた。シロはもう長らくこの礼拝堂には足を踏み入れていなかった。
「表の配給所と、それから村外れに設置した病院に運んだんだ。元は倉庫なんだが、ドラゴンの襲撃から逃れられそうな村はずれの広い場所はそこしかなくてな」
神父はそう説明した。まだ午前中の明るい光が差し込む礼拝堂でシロと向き合った彼は、シロの頬に軽く触れて、言った。
「酷い傷だ。あのような子供騙しのお守りではやはりお前を守ることはできなかったか」
シロは驚いた。テキサにつけられた傷跡は、昨晩自宅の鏡で確認したが、ほとんど消えてわからなくなっていた。少なくとも、外見上は。
「いえ、お守りは、とても役に立ちました。ありがとうございました」
首から下げていた小さな匂い袋がテキサの手を焼いたことを思い出し、シロは頭を下げた。
「ですが、あのようなものが必要になると、神父様はご存知だったのでしょうか」
「もちろん、そんなことは一介の神父に過ぎない私にはわからないよ。ただ、あれの世話になるようなことがなければいいと祈っていたが」
二人の間に沈黙が訪れた。シロは、一体何から話せばよいのか、何を訊けばよいのかわからず途方に暮れていた。神父の方でも、何から切り出したらよいか決めかねている様子だった。
「俺は」シロは重い口を開いた。「村長に言われたんです。死んだ母親のことについては、神父様にお尋ねするようにと」
神父は眉を寄せた。
「お前の母親は、死んでいない」
神父の穏やかな声が、シロには落雷のように感じられた。
炭焼き小屋の煙突から細い煙が立ちあがっていた。
小屋の中ではシロの母親が忙しく立ち働いていた。暖炉にかけた鍋には、干しイモやキノコを加えた粥が蒸気を噴きながらコトコト音を立てていた。テーブルについているシロの父親とトロちゃんは、手持無沙汰にしている。
全身泥にまみれていたトロちゃんは、家の中に入る前にシロの母親によって外のたらいで丸洗いされ、今はきれいな服に着替えさせられていた。シロの服はトロちゃんには大きすぎるので、クロゼットの奥から引っぱり出した母親の野良仕事用の服(襟のない丸首のシャツに、ゆったりしているが足首のところでぎゅっと絞られたズボン)を着た彼は、農家の子供に見えなくもない。
いや
きれいに洗われた髪は殆どシルバーに近いプラチナブロンドで柔らかくカールしていたし、繊細なグリーンの瞳はこの辺りではあまり見ない色だ。染み一つない皮膚は田舎の子にしては白すぎて、血管が青く透けて見えるほどだ。細い指は「袖で何かを拭いたくなった時は、かわりにこれを使いなさい」と渡された手拭いを握りしめている(ポケットに物を入れるという習慣をまだ習得していなかったから)。そして、靴はシロの母親のでは小さすぎたので、シロのスペアのブーツに詰め物をして紐をきつく縛って履いていた。
赤子と大差ないようなトロちゃんの世話をするシロの母親の瞳は穏やかで、少しだけ嬉しそうに見えた。トロちゃんは、彼女のガラス玉のような青い瞳が見ているのは、自分ではなくかつてのシロの姿なのではないかと思い、されるがままになっていた。
シロの母親は、シロとは似ていなかった。彼女は華奢で、背は高い方ではない。そして、この地方の女性の半分程度がそうであるように、黄金色の髪と青い瞳をしているが、息子のシロは髪も瞳も黒く、長身でがっしりしている。それらは、ほぼすべて父親から受け継いだものだった。
父親は、トロちゃんが最初に会った時点で、頭から斧を生やした状態だった。その異様な姿は、夜の森を徘徊してもなぜかトロールや肉食の獣から無視されていた。いや、むしろ避けられていたというべきか。昔は息子と同様に黒かったのであろう髪も含めて、身に着けている衣類までもが白っぽく色が抜け落ちており、暗い森の中で彼の姿は仄白く浮かび上がって見える。トロちゃんをはじめ森の住民は、彼のことを白い影と認識している。
だがよくよく見れば、彼の姿は、息子のシロとよく似ていた。二人が親子であることは容易に見て取れるほどに。彼がなぜこんな姿のまま森の中をうろついているのか、トロちゃんは今まで考えたことがなかった。それもまた不思議といえば不思議。
「さあ、できた」
シロの母親が陽気に言い、テーブルの上には粥の入ったボウルが三つ並べられた。トロちゃんは朝から何も食べていないことを思い出し、急に空腹を覚えた。
「もう少し時間があったら、パンも焼いてあげられたんだけど」
自身もテーブルについたシロの母は言う。
「おばさん、どこかいくのー」
トロちゃんの問いに、彼女は微笑んだ。
「私は、とっくにここにはいないことになってるの」
「でも、おばさんは、死んでないよね」
トロちゃんはちらりとシロの父に目をやった。彼は湯気をあげるボウルを前に、普段と変わらぬ虚ろな目で虚空を見つめている。
「つまり、生きてるよね。だったら、ここに居ればいいじゃない。おばさんが魔女だってことは、オレだれにも言わないようにするから」
トロちゃんは、スプーンの柄を鷲掴みにしてボウルの中身をひとすくい、口まで運ぼうとしたが、手が震えてうまくいかず、ほとんどテーブルの上にこぼしてしまった。
「あ」
「まだ、人間の体に慣れていないのねえ」
シロの母はトロちゃんの横に座ると、スプーンの持ち方を直し、その手をそっと握って、ゆっくりとボウルから粥をすくってトロちゃんの口まで運んで食べさせた。
「今の調子で、やってみて。慌てなくていいから、ゆっくりと」
「うん、ありがとう、おばさん」
シロの母は立ち上がって戸棚の引き出しから布巾を二枚出すと、一枚でテーブルの上を拭き、もう一枚はトロちゃんのシャツの襟もとに端っこを入れて残りを胸の前に垂らし、よだれかけにした。
「慣れるまでは、こうしておきましょう」
「うわー、おばさん、ありがとう」トロちゃんはにっこり笑った。
「ねえ、おばさん。シロは今朝、ヌガキヤ村を襲うドラゴンを退治するためにリヴィおば――おねえさんと一緒に出掛けて行ったよ。帰って来た時におばさんがいたら、シロはすごく喜ぶと思うんだ」
「私がここにいられるのは、今日が最後なの。私のせいで、あの子をひどい目に遭わせてしまった。私はずっとあの子の側にいたけど、あの子には私が見えないの」
「それって……どういうこと?」
トロちゃんは首を傾げて、尋ねた。
「おばさん、魔法を使ったの?」
「私はね、魔法が使えないの。駄目な、情けない魔女なのよ」
それからシロの母は、長い昔話をした。




