第一話 ヌガキヤ村に魔女降臨
シロとリヴァイアがヌガキヤ村のヌー村長宅に現れたのは、村にドラゴンが最初に飛来してから十日目の早朝のことだった。
家屋を失い村長宅に泊まり込んでいた村人に起こされたヌー村長は、喜び勇んで寝巻姿のまま寝室から飛び出した。しかし、皆で待ち望んでいた屈強なドラゴン・スレイヤーの姿は、なかった。
玄関ホールに佇んでいるシロは、約十日ほど前に見た姿とは変わり果てていた。鍛え上げられた屈強な体は萎んで二回りほども細くなったようで、髪にも白いものが目立った。落ちくぼんだ目は暗く伏し目がちで、ヌー村長をまっすぐ見ようとしない。そして彼の傍らに立つのは、艶然と微笑む背が高い女。若干縮んだかに見えるシロだが、それでも十分に長身で、男ぶりがよかった。見栄えのいい女の隣に立ち堂々見劣りしない男だ。このような状況でなければ、偏屈な炭焼きにもついに春が訪れたと喜んでもよかった。だが
「お前は、古都キンシャチまで行って、金貨十枚で嫁を買ってきたのか」
普段は温和な村長が、抑えきれない怒りで頬を痙攣させながら言った。
「村長。すみません。俺、俺は、止めたんです。でも、この人がどうしてもって」
シロの肩が小刻みに震えていた。女は妖艶に微笑んでいた。
「どういうつもりか知らんが、これは遊びじゃないんだ。数日前にも大学の調査隊とかいうふざけた連中がやって来たが――」
シロはびくりと体を震わせた。
「その大学の調査隊とやらは、この村に滞在しているのかしら」
魅惑的に微笑む女が尋ねた。見た目に寄らずハスキーな声だが、それがまたなんとも魅力的であった。こんな非常時でなければ、独身男性は勿論、妻帯者までもが女に夢中になったかもしれない。だが
ヌー村長は魅惑的なカーブを描く女の胸元から視線を引き剥がして、言った。
「とんでもない。女子供は隣のナガミ村に避難させた。村は厳戒態勢なんだ。余所者なんかにうろつかれてたまるもんか。調査隊と言ってもたったの三人、うち一人は子供みたいな女の教授で、犬みたいに従っている学生の一人は、あろうことかこの村から大学に行かせたイーライだ。この非常時に、ガクジュツケンキュウなどとぬかしおった。連中はドラゴンが飛来してきた方角を目指していった。父親に泣きつかれてもイーライは女教授の尻を追いかけて行った。母親やまだ幼い弟妹たちが隣村に避難していてあの堕落した姿を見ないで済んだのが不幸中の幸いだった。まったく、どいつもこいつも」
最後の捨て台詞は明らかにシロにも向けられた罵倒だった。シロの生気を吸い取られたかのような憔悴具合が、一層村長の怒りをかった。
女にうつつをぬかしてもいいが、今じゃない。
「違うんです、村長。俺は――」
「そんな学者センセイたちと一緒にしないでもらいたいわね。私は、あいつの息の根を止めるために来たのよ。でもその前に、色々聞きたいこともあるのよ。とりあえず、ヌガキヤ村名物の白スープとやらでもご馳走になりながらお話を伺おうかしら」
女はふっくらとした唇をぬめぬめとした舌で舐めまわした。ヌー村長はうなじの毛が逆立つのを感じた。
「な。馬鹿なことを言っていないで、あんたも怪我したくなかったらとっとと村を出」ヌー村長は急に口が重く感じられ、黙った。村長をまっすぐに見つめる女の青い瞳から目が離せなくなっていた。
「いいから、食べるものを次々持って来て。まさかあなたたち、奥さんが居なけりゃ料理の一つもできないとか、ふざけたこと言わないわよね」
女が鼻の頭に皺を寄せて言った。その手には、鞘から抜かれたドラゴン・スレイヤーの剣の刃が青白い光を放っていた。
テーブルに運ばれる食べ物を片っ端から恐ろしい速さで平らげていく女を横目で恐々と眺めながら、シロは村長そしてまだ存命で軽傷な顔役および村人たちから吊るし上げられていた。村の顔役とは医者や大農場の主や広大な田畑を所有する地主、神父といった村の名士たちだが、医者や神父は犠牲者の遺族や怪我人とその家族たちのケアに忙しく不在だった。家を焼け出された人々に対する配給食作りのために早朝から忙しく立ち働いていた村でただ一つの酒場の店主が呼び出され、村長宅の台所でせわしなく働いていた。
「村はなあ、大変なことになっているんだよ。お前が古都に向けて旅立ってから十日にも満たない間に二度ドラゴンの襲撃があってなあ。都合三回だ。二度目の襲撃の後にナガミ村から避難民を受け入れるという申し出があってなあ。それはお前が素早くナガミ村に辿りついてこっちの窮状を報告してくれたおかげだってなあ。今では年寄りと病人の避難も完了しててな。それは感謝している。だが」
ヌー村長は言葉を切って女の方を見た。
「ちょっと、お代わりまだ? この豚の丸焼きはおいしかったわ。え。ドラゴンに焼かれた? 道理でねえ。まあ、私は焼きすぎて少し炭になってるぐらいのお肉、嫌いじゃないのよねうふふ。それで、名物の白スープとやらは?」
女は素早く咀嚼する間は決して言葉を発しないのだが、それでも淀みなく喋っていた。
「おい、白スープはどうなってる?」村人の一人がドアの外に向かって叫んだ。
「白スープは煮込みに時間がかかるんだよ。もうちょっと待ってくれ」台所から酒場の店主が怒鳴り返す。
「なんであんなほそっこい娘っ子を連れてきた。やけくそか? 自暴自棄になったのか? あの食べっぷりは確かにすごい。そこらの男でも敵わないだろう。だが、あんななよなよした女に、一体何ができる。相手はドラゴンだぞ」とヌー村長。
「でも、彼女は剣を持っている。正確には、俺がドラゴン・スレイヤーから借りたものだが、俺にはあの剣は使えない。剣が使う者を選ぶんだと言っていた」
「剣か」顔役の一人、大地主が苦々しく言った。「我々にあるのは、剣一本と、細腕の女が一人。ドラゴンに立ち向かうにはあまりにも頼りなくないか」
「だけど、スレイヤーは剣で戦うものだろう」と村人。
「それは、スレイヤーによる。ヘルシは剣の使い手として有名だが、弓矢や魔法を使う者もいた。歌にも歌われるハルーは弓の名手で」
「今は歴代スレイヤーについて語っている場合じゃない」ヌー村長がぴしゃりと言い放ち、村人たちは口をつぐんだ。重苦しい沈黙のなか、一見優雅ですらある女の迷いなきナイフとフォーク運びと咀嚼音、満足げに漏らす感嘆の声のみが部屋を満たした。
「しかし、すごい食べっぷりだな。あの細い体のどこにあんな量が」
深く溜息をついた村長ははたと口をつぐんだ。
「あんなに、食べられるわけがない。普通の人間ならば」
顔役たちがぎょっとして村長を見た。
「どういう意味だ」
「人間ではないなら、一体なんだ」
「魔女よ」
女はブドウ酒を上等な銀のカップから豪快に飲み干し、フラスコからなみなみとカップに継ぎ足して、言った。
「この辺の人達は、森の魔女とか悪食の魔女とか呼ぶらしいわね。私は割と早くに森を出たから、よく知らないけど」
「森の魔女だと」
「悪食の魔女だと」顔役の顔が蒼白になった。
「まさか」ヌー村長が恐々といった。
「あんたまさか、ドラゴン・イー……」
「そんな馬鹿な、魔女は、最後の森の魔女は死んだはずだ」大地主が青い顔で言った。「俺たちは呪いから解放されたはずだ。あとは、あの魔女の子供さえいなくなれば」
大地主からの悪意のこもった視線を受け、シロは弾かれたように椅子から立ち上がってドアまで後ずさった。
「あんたたち、一体何を言っているんだ」
「いつまで罪滅ぼしをさせられる。魔女を迫害し森に追いやったのは俺達の先祖だぞ。それは確かに、色々むごいことをしたらしいが」
「黙れ」ヌー村長が言ったが、村人たちは黙らなかった。
「魔女の子など、受け入れるのではなかった」と農場主が言った。
「この村に次々と災いに襲われるのは、あいつのせいだ。何が正直者だ」




