第五話 トロール(2)
小さいトロールは、まだ温かい子供の体をばらばらにして、狼の谷に投げ込んだ。こうしておけば、明日の朝までには骨になっているはずだし、万一兄たちに見つかったとしても、途中で子供の血の匂いを嗅ぎつけた狼の群に襲われ、子供を奪われてしまったと言えばいい。
小さいトロールは、またはらはらと涙を流した。
彼には、彼のことをトロちゃんと呼ぶ人間の友があった。トロールは互いを個別の名前で認識することがないから、彼にはその名前しかない。
トロちゃんは人間を食べたことがない。人間の友達には見栄を張って追剥のような悪党だけは捕まえて食べると言ってあったが、実は兎すら食べない菜食主義のトロールだった。物心ついた時から、なぜか彼はヒトの肉を食べることができなかった。兄に馬鹿にされ、母から叱られても、無理だった。当初は食べていた獣の肉も、段々嫌になって食べるのをよしてしまい、木の実や草で飢えを満たすようになった。この頃は、人間の真似をしてこっそり野菜畑を作ったりもしている。
幸いこの昼なお暗き森に分け入る人間は少なかったし、森を移動する人間は用心深く夜間の移動は控えるのが常だったから、人間が捕獲されることは稀だった。だから彼は、仲間がヒトを捕まえて来ても、都度どうにか理由をつけて、一緒に食べるのを避けてきた。そして、可能であれば、憐れな獲物を逃がしてやっていた。
だが、そんなチャンスは、人間を捕獲する機会よりもさらに稀であった。トロールは雑食で食い意地が張っているから、捕まえた獲物は皆食べてしまう。しかし、今日はうまくいくと思ったのに――
昔、初めて出会った頃の人間の友を彷彿とさせる子供。助けてやれると思ったのに。飼育して太らせているふりをして、怪我を治し、親元へ返してやれると思ったのに。
呆然と森を彷徨っていると、いつの間にか崖に出ていた。ここは、花を摘もうとして足を滑らせ、危うく死にかけた場所だ。崖の途中にひっかかり、上ることも下りることもできず、そのまま朝を迎えて石になるところを、ヒトの子が森から蔦をとってきて助けてくれた。
あの時、死んでいればよかった。
それは、親切な友の前では決して口にできない言葉だったが、トロちゃんはそう思うことが度々あった。彼には、どうにも、トロールとしての暮らしが性に合わないのだ。
トロちゃんは崖っぷちに立って下を覗いた。
遥か下の谷底に糸のように細い川が流れているのが見える。この高さから落ちれば、トロールといえども助からないだろう。
そんな痛い思いをするのは嫌だなあ、とトロちゃんは思う。トロールはごつごつとした岩のような皮膚を持ち感覚が鈍いとはいえ、痛みを感じないわけではない。
ぼんやり崖っぷちに座り込んでいると、いつの間にか闇が薄くなっていることに気付いた。
ああ、そうか。別にここから飛び降りなくてもいいんじゃないか、とトロちゃんは思う。
トロールの最大の弱点は、日光だ。だから昼間は日の差さない洞窟で眠っている。陽の光に当たると、トロールは石になって死んでしまうという。
そういえば自分は、太陽というものを見たことがなかった。まあ、当然だけど。トロちゃんはうっすらとほほ笑んだ。
「俺は必ず戻って来るから、待ってて」
別れ際の、人間の友の言葉が甦ってきた。
ごめん、シロ。
谷の向こうの山から朝陽が徐々に輝きを増し、トロちゃんの頬を伝う涙が、石になって固まった。




