第三話 襲われた調査隊
なにやら騒がしいが、遠くの方から聞こえるそれは現実味を伴わない。それでも、よくないことが起きているのは確かだ。
「トロールだ!」
悲鳴にも似た叫びは、これまでよりずっと近くで聞こえた。
はっとしたキは目を開けた。焚火はまだ燃えていたが、そこに教授の姿はなかった。いや、民俗学の老教授はいる。炎から少し離れたところで片肘を突いて上半身を起こしているが、美しい女教授の姿はなかった。
「トロールだ、みんな起きろ。ぎゃっ」
逼迫した声が、唐突に途切れる。何かあったのか、知りたくない。動悸が激しくなり、焦燥感に汗が噴き出す、体が動かなかった。これは悪夢なのだろうか、とキは重たい頭で考える。
「何をしているんだ、君。早く逃げるんだ。寝ぼけている暇はないぞ」
老教授が屈みこんで、キの体を揺さぶっているのが、見える。見えて入るのだから、目は開いているはずなのだが、いかんせん体が重い。動かない。キは目を大きく見開いたまま、横になったままだ。
「しっかりしないか!」老教授の皺だらけの手が彼の頬を数回打った。「君は、ドラゴンが見たいのだろう。こんなところでトロールの餌食になるつもりか」
ドラゴン!
キは地面に貼りついてしまったかに思える体を両腕で引き剥がした。毛布が滑り落ちる。老教授はそれをキの肩に巻き付けると、彼の腕を引っ張って立たせようとした。
「いそげ。わっ」
べきべきと木が折れる音がして、岩のように醜いトロールが姿を現した。隊員たちの悲鳴が響き渡り、逃げていく姿を視界の端に捕らえながら、キはトロールから目を離すことができなかった。
成人男性の四倍はあろうかとうい大きさで、勿論横幅もある。隊員の一人――まだ学生と思しき若い男だ――を片手で楽々と掴んで持ち上げると、悲鳴を上げて泣き叫ぶ男の頭を齧り取った。まるで木の実のように、男の頭部は二度三度と咀嚼され、飲み下された。頭部を失った胴体からは勢いよく血が噴き出していた。
老教授の皺だらけの手で口をふさがれて、初めてキは自分が叫んでいたことに気付いた。トロールの、顔の大きさの割には小さい目がぎょろりと彼の方を見た。手に持っている男の体は、胴体が半分なくなっており、トロールの顔、それに口から胸にかけてべっとりと赤黒い液体に濡れていた。
「逃げるぞ」
老教授の声も、彼の口を塞いでいる手も震えていた。
トロールが彼等に向かって一歩踏み出し、弱々しい炎を上げていた焚火が蹴散らされ、火花を飛ばしてやがて消えた。
周囲はほぼ闇に包まれた。老教授の細い体からは想像できない力で引きずられて、キは木々の間を進んだ。
「どうした、歩けないのか?」教授がキの耳元で囁いた。意識は完全に戻っているのに、体は動かすことができず、力を振り絞っても微かに首を動かし頷くのがやっとだった。老教授に引きずられて、キは大木の影に身を潜めていた。キの体を支える老人の腕がプルプル振るえていた。キは、ほとんど動かない口から、どうにか囁いた。
「ぼくを、置いて、行って」
老教授は小さく溜息をつくと、キの体を地面に座らせ大木の幹にもたれさせたが、彼の側から動こうとしなかった。少し離れた闇から、木の枝が折れる音や隊員たちの悲鳴が聞こえてきた。
「おじいさん、逃げて」
キがまた動かない唇の間から言葉を発したたが、老人は人差し指を彼の口に当てて黙らせた。
「私は年寄りだ。子供を見捨てて自分だけ生き延びても意味がない」
すぐそばで、誰かの足の下で枝の折れる音がした。老教授はびくりと体を震わせ振り向いた。キは目だけ動かしてそちらを見た。
闇に溶け込むようにして、マサカー教授が立っていた。黒髪が被さっていない白い顔だけは、闇の中でもよく見えた。相変わらず黒い色眼鏡をかけていたが。
「まだ生きていたの」
マサカー教授は低い声で囁いた。リュウデン教授の表情が険しくなった。
「あなたは、この子に何をした」
にたり、と白い顔がゆがんだ。
「気付いていたの、老いぼれが」
「トロールもあなたの仕業か」
「そうよ。昼間、トロールの洞窟の近くを通ったの。人間の臭いを追って来られるように」
「なぜそんなことを」
「その子供にはここで死んでもらわないといけないからよ」
動かないキの顔の筋肉が恐怖で歪んだ。
「や、めて。ぼく、誰にも、しゃべらない」
「そんな約束、信じられるものですか」
マサカー教授の背後でばきばきと高い位置の枝が折れる音がした。
「老いぼれも足手まといだと思っていたから、ちょうどいい。あなたもここで死ぬのよリュウデン教授」
そう言うと、マサカー教授の姿はかき消えた。それと入れ替わるように、恐ろしい音を立てて、巨大なトロールが姿を現した。




