第二話 昼なお暗き森の行進と魔女の伝説
数時間の後にマサカー教授が戻り、ドラゴン調査隊の一行は森の中へと足を踏み入れた。日中はまだ温かい秋の日というのに、薄暗い森の中には淀んだ冷気が漂っていた。緑がほぼ黒く見える常緑樹の中には樹齢何百年も過ぎていそうな大木も多く、上からのしかかって来る何かを感じるのか、皆口が重い。地表に現れている太い根っこは複雑に絡み合い注意力散漫な者の足を容赦なく捕える。転び方が悪ければ足の骨を折りかねないので、当然歩みは遅くなる。
先頭を行くマサカー教授以外のメンバーは重い荷物を背負っているからというのも皆の歩みを遅らせ、口を重くさせている原因である。森の中には夜行性なので当面は無視してよいトロールや狼などの他にも様々な脅威が存在していると言われており、皆不安を感じていた。
森を抜けるには最低限の装備でフルスピードで移動しても丸一日かかるが、彼等は重装備、そもそもひ弱な学者とエリート学生の集団(プラス子供)である。出発も遅く、昼過ぎてから森に入ったので、当然森で一夜を過ごすことになった。
「トロールの洞窟とその周辺の彼らの生活圏内さえ避ければ、こちらは大人数だし、野生動物も避けて通るはず」
マサカー教授はそう言ってキャンプ地を選んだが、漆黒の闇に包まれた森の中で弱々しい焚火は彼らの指先を温めるだけで、彼らは夜の森の寒さに震えていた。交代で見張りを立て仮眠をとることにし、テントは持参していたが、それは張らずに仮眠組は毛布にくるまって地べたに横になった。
「この森はなぜこんなに静かなんでしょうか」焚火を絶やさぬよう枝を足しながらイーライが呟く。
「あなたは、この森に詳しいんじゃないの?」とマサカー教授。彼女は夜でも色眼鏡を外さず、肩から毛布にくるまっている。
「私は、昆虫が好きでしたから森にはよく入りましたが、危険だから奥に踏み入るのは禁止されていたし、勿論夜間になどもってのほかです。昼でも暗く不気味でしたが、夜は格別に……」
確かに、夜行性の鳥の鳴き声も羽音もしないし、虫も鳴かない。森が全てをのみ込んでしまったかのように。
「それは多分、悪食の魔女に食べられてしまったからだな」
そう言ったのは、調査隊の中では最年長のリュウデン教授、民俗学が専門だ。彼は枯れ枝のように痩せているせいか寒がりで、毛布二枚にくるまりながら、引火するのではないかと心配になるほど近くで焚火にあたっている。
「あくじきのまじょ!? なんですか、それ?」焚火から少し離れたところで横になっていたキが目を輝かせている。どうやら興奮のため眠れないらしい。
リュウデン教授は分厚い眼鏡の奥の目を細めた。温厚そうな老人にキは好感を抱いた。
「それはね、この森に棲むと言われている魔女のことだよ。大層美しい女の姿をしているんだが、その実貪欲で常に腹を空かせており、森の獣は勿論、トロールさえも食うほどの悪食なんだそうだ。牛一頭ぐらい、頭からぺろりと食べてしまうそうだから、君のような子供なら一口で丸呑みかな」
「ええ……」
心細そうな顔をするキに、リュウデン教授は笑って「いや、おどかすつもりじゃなかったんだが、この手の言い伝えっていうのはね、大抵理由があるんだ。この森の静けさを説明するのに、何でも食べてしまう魔女が目ぼしい動物を食べ尽くしてしまったから、といえば、それっぽく聞こえるだろう。それに、子供が一人で森の中に入って迷子になったり怪我をしたりするのを防ぐために脅しとしても使えるし、応用して『いい子にしてないと悪食の魔女が来てお前を食べてしまうぞ』と脅すこともできる」
「じゃあ、本当は魔女なんかいないんですね」
ホッとした顔のキに、リュウデン教授は悪戯っぽく笑う。
「それはわからない。誰も見たことがないからといって、いないという証明にはならないからね」
「えーっ」
「子供の頃に、聞いたことがあります」とイーライが炎を見つめながら言った。
「悪食の魔女は、ドラゴンをも喰らうと」
「そうらしいね。ナガミ村からヌガキヤ村にかけてのこの一帯は、その種の言い伝えに事欠かない。民俗学的に興味深い土地だよ。死ぬ前に一度この森に来てみたかったんだ」
「ドラゴンは、おとなしく食べられると」
「うん?」
マサカー教授は低い声で囁く。「気高いドラゴンが、下品な魔女にむざむざと喰われると」
リュウデン教授は微笑を浮かべながら若い教授を見た。自分の娘程の若さだが、今時ドラゴン学などという時代遅れになりつつある学門を選択した彼女に民俗学教授は親近感を抱いていた。もっとも、ドラゴン学教授の方では、民俗学に対する興味も敬意も薄いらしかったが。
「実際に、そんな強い魔力を持つ魔女が存在するのかどうかは別として、悪食の魔女のお陰でドラゴンが増えすぎないよう数が保たれていたことになっている。でなければ、あのように強靭で禍々しい生き物が絶滅の危機に瀕しているというのはおかしいからね。ここいら一帯では、ドラゴンを倒すのはスレイヤーではなく、悪食の魔女だということになっていた」
「この頃は都から新聞が届くようになり、村もかなり開けているし、吟遊詩人がふらりとやってきたりするから、スレイヤー伝説の方が今では有名なぐらいです。というのも、悪食の魔女の話は、村では禁忌みたいになっていた。村の人々は、魔女に対して恐れを抱いているようだった。ドラゴンを喰って退治してくれるなら、もう少し感謝されてもよさそうなものなのに」イーライが炎を見つめながら言う。
「そこが興味深いところでね。魔女は、ただドラゴンを退治するだけじゃなくて、大きな災いももたらすから。初めは、恐れつつ崇めていたものが、ドラゴンの数が減って、ただただ厭われるようになった。そして、ついには村人に狩られる存在になった。まるで獰猛な動物みたいに、悪食の魔女も駆除されてしまう存在になったんだそうだ」
「それは、気の毒だな」
イーライの呟きに、マサカー教授が眉を吊り上げた。
「気の毒?」
「だって、役に立つ時には崇めていたのに、ドラゴンの脅威がなくなったら厄介者扱いだなんて」
「そうね。あなたの村の祖先がそんなひどいことをしたのよね」彼女の声は冷たかった。
「そうですね。でも、その魔女の子孫が今も存命だったら、私の村は救われたかもしれないのに。因果応報でしょうか」
沈痛な面持ちのイーライにリュウデン教授は陽気に言った。
「なに、言い伝えがどれほど正確なのか、今では誰もわからないんだよ。そんな魔女が本当にいたのかどうかさえ怪しいんだからね」
「言い伝えって、結局ウソなの?」キが目を丸くして言う。
「全てが嘘だったとは思わない。何かしらの術を使う魔女かまじない師の類はいたんだろう。何もないところから伝承は生まれない。でもその魔女が、実際に巨大なドラゴンを喰うほどの力を持っていたのかどうかはわからないってことだよ」老教授は優しく微笑むと「もう遅いから、君はもう寝なさい。年寄りの私もそうするよ」と言った。
リュウデン教授が焚火から少し離れて横になった後も、マサカー教授はじっと炎を見つめたまま動かなかった。その横顔にしばらくみとれていたキだが、いつのまにか眠りに落ちていた。




