第十話 井戸端の再会
四つ辻の左手へ進む道を少し進むと、井戸があった。丸く石で囲った井戸端に人影があった。
シロは荷馬車が停止するのももどかしく、荷台から飛び降り――ようとして足を引っかけて転げ落ちた。それには目もくれないで御者台から降りた女が足早に近づいていく。シロも少し遅れて追いついた。女が屈みこんで抱き起しているのは、シロが往路で出会った老人だった。いや、老人だったもの、と言った方が正確だろうか。老人のグレーのローブの胸元には、獣に切り裂かれたような数本の傷が生々しく口を開け、血がじくじくと滲んでいた。
「これは一体……?」
暗い部屋の記憶が甦って来てシロは身震いした。
「しっ」
女はシロを制して、老人の耳に口を近づけた。
「このザマはなに、大魔法使いムル=ジバルともあろう者が」
「おお、お嬢ちゃんや。誰だったかな?」
「やめてよ、本当に呆けてるのか見分けがつかないわ」
老魔法使いは口の端を持ち上げてにやりと笑った。唇には渇いた血がこびりついていた。
「あの女がやったのね?」
「どの女かな」
月明かりの下では真っ黒に見える女の瞳に無言で見つめられ、老師は溜息をついた。
「無論、あの女だ。ドラゴンに近づくにつれ、あの女の力は増していく。わしでは、もはや止めることはできなんだ」
「嘘おっしゃい。二十年前でも十年前でも、殺す機会は何度も訪れたのに、みすみす見逃した。あなたは、あの女を殺したくないのよね」
「赤子が邪悪な金の瞳を持って生まれたからといって、赤子に罪があろうか」
「ええ、赤ちゃんは可哀想かもね。でも、あなたがどれだけ骨を折っても、期待通りの外道に成長したじゃないの。それを、情にほだされるなんて」
「それが人間というものではないかの。人間は、弱いものだ」
「あなた、魔法使いじゃないの」
「魔法使いだとて、人から生まれてくることには違いない」老魔法使いは激しく咳き込んで血を吐いた。
「ひとおもいにとどめを刺してあげましょうか」
「冷たいのお」
「あなたが甘やかすから、王都で何万人もの死者が出たのよ。その上、今度はヌガキヤ村とかいう辺境のど田舎の人達が」
「お前さんの恋人にも悪いことをしたな。だが――あやつならドラゴンに勝てるのではないかと少し期待しておったんじゃ」
「少しって、随分見くびられたもんね」女の声に苛立ちが混じった。「弱り切ったあんたなんて、頭からばりばり喰ってやってもいいのよ。そうすれば私の魔力も増すでしょうね」
「お前さんには、そんなことはできん。結局、お前さんだって情に流される弱い人間だから」
「私は魔法使いよ」
「ものを喰らう時にしか魔力を発揮できないような半端者がか」
老人を抱き抱える女の背後に立って見守っていたシロにも、女の全身に殺気が漲るのが感じられた。シロの脳裏に悪夢のような光景が甦った。
「やめろ! それだけはやめてくれ、お願いだ」
「あなたはちょっと黙っててくれないかしら。関係ないでしょう」
「俺が今生きているのは、その人のお陰だ。いや、実はよく思い出せないんだが、その人の秘薬のお陰なんだと思う。俺の命の恩人だ」
「ああ、あれな。飲めばトロールみたいな醜い姿になるはずだったのに、しくじったようじゃ」
「はい?」
「年のせいで物忘れが激しくなっての」
「ちょっと、どうでもいい世間話は後にしてくれる? あなたがやらないなら、私があの女の息の根を止めてあげる。でもまあ、なかなか強敵であることは否定できないわね。あいつの弱点を教えなさい」
女は老人の体を揺さぶりながら言う。老人が苦痛の呻き声をあげる。
「おい、乱暴は――」シロは慌てて女の肩に手をかけた。
「うるさい」
女が軽く腕をひと振りしただけで、シロの体は数メートルも吹っ飛んで背中から着地した。胸にくさびを打ち込まれたかのような痛みが走り、意識が遠のいた。
「弱点か。ちょっと思いつかないんだが」老人が弱々しく言った。
女は溜息をついて「じゃ、もう用済みだから喰うわよ」
「あの男」
「え?」
「あの男は、少年の頃と今回、二度もテキサ王女に遭遇しているが、まだ生きておる。理由はよくわからんが、あの男には、この件に関して何かしらの役割があるのだろう。あまり邪険にするな」
「そういうことはもう少し早く言ってくれる?」
女がちらと背後に目をやると、少し離れたところに大の字に伸びているシロの姿が確認できた。




