第四話 聖人、老いやすく
ぼやけた視界の焦点が定まり、最初に見えたのは、覗き込んでいる人の顔だった。
これはタケさん。ナガミ村のハッチョ屋のおやじ。
いや違う。古のナガミ地方の言葉を話すのは、キンシャチ支店のナカさんだ。いやでも同じ顔だろ、これ。双子だからって、ここまで似る?
「ミラクル聖人! ようやっとお目覚めかね!」
「――?」
一階の簡素な部屋より移動した二階の豪勢な客間の、大きなベッドにシロは寝かされていた。
「三日も寝とりゃーしたよ。心配したがね」
テキサと対峙した日から三晩眠り続け、朝を迎えていた。ヌガキヤ村をドラゴンが襲ってから八日目、シロのキンシャチ滞在五日目である。
致命傷と思われる深手を負って発見されて以降のことをナカさんから説明されて、シロは「ご迷惑をおかけしました」と上半身を起こして、頭を下げた。
「んなーなーなー、なーにいっとりゃーすの!」ナカさんは慌ててシロの背中に枕を重ねてもたれさせた。
聖人が奇蹟を起こし死の淵から甦ったという噂はたちまちキンシャチ中に広がった。無論、先頭に立って広めたのはナカさんだ。そこに、大教会経由でやってくる敬虔な人々のネットワークが手を貸した。
「都の北東にある貧民街にまでもう知れ渡っとって、びっくりしたがね」
「貧民街?」
「なんでも、無料食堂を運営しとる施設から、若いシスターが訪ねていりゃーたわ」
「あ……どんまい女」
「んあ?」
「いえ、なんでもありません。シスターは何と?」
「なんでも、ドラゴン・スレイヤーが話したいことがあるから、食堂まで来てほしいと」
「――」シロは布団を跳ね除け、ベッドを抜け出そうとしたが、床に足をついて立ち上がった途端眩暈に襲われ、ナカさんに抱き抱えられた。
「無茶だわ。傷はミラクルで癒えても、憔悴が激しくてこのまま目を覚まさんのじゃにゃーかとひやひやしとったがね。ようやく起きられるようになったばっかで無茶はだちかんで」
「しかし――」反論しようとして、部屋の隅に置かれた姿見に映った自分の姿が目に飛び込んできて、シロはぎょっとした。炭焼きの肉体労働に加え、トロちゃんとじゃれたぐらいでは破壊されないことを目標に鍛錬し引き締まっているが肉付きの良かった体は二回りほどもしぼみ、頭髪は一気に白髪が増えグレーになっていた。
ナカさんに体を支えられ、シロはベッドに腰かけた。
「あの教授に、一体何をされたんかね」
「よく、覚えてないんです」闇の中で金色に光るモノ、シューシューと音を立てて蠢く黒いもの、そんな断片的イメージが一瞬浮かんで、消えていった。
「あの教授、あんたと面会した後に、ぎょうぎょうしい調査隊とやらを従えて大急ぎで出発したらしいわ。大量の食料品を買い込んだって、大学近辺の食料品店のおやじが言っとりゃーしたわ」
「くそっ」
シロは唇を噛んだ。あの教授は、ドラゴンの生態観測が目的の調査隊を派遣するといっていたが、教授の正体がテキサだとわかっては、調査以外の何かを企んでいるとしか思えなかった。
「どうしても、どうしてもスレイヤーの元へ行かなければならないんです。あの教授にはなにか邪な企みがある」
シロに熱心に口説かれて、ナカさんは溜息をついた。
「そこまで言うなら、仕方にゃーわ」
ナカさんがパンパンと手を叩くと、すぐさま若い奉公人が二人やって来た。ナカさんはテキパキと指示をだす。
「まずは風呂、それから食事。消化のいいものを、少しでも胃に入れてもらう。それから、うちの馬車でお送りするがね。そんなに弱っていては、歩いて北の街外れまで歩いて行けるわけがない」
シロは問答無用で浴室に運ばれていった。
「あれ、そういえば、キはどうした?」
湯船に突っ込まれたシロは、無抵抗に背中を柄付ブラシでこすられながら尋ねた。
「それが、いなくなっちまったんですよ」
湯が冷めないように継ぎ足す係の奉公人が言った。
部屋に戻ったシロは、着せ替え人形のように清潔な服を着せられた。蝦茶色の印半纏を着せられ、財布を二つ渡された。一つは金貨を入れていた革財布、もう一つは、路銀を入れていた巾着袋。革の財布をナカさんから受け取ったシロは、おや、と眉をしかめた。ナカさんが気まずそうに目を逸らせた。
「あの、ナカさん。これ」
「それは、中身が床に散乱しとったもんで、拾い集めておいたんだがね」
「それはありがとうございます。でも――」
「でも?」
「重くなってますね、これ」
シロは財布のひもを解いて中身を出してみた。金貨は、きっちり十枚。
「増えてます」
ヌガキヤ村を出た時は十枚持っていた。しかし、村から学都に進学したイーライが酒場で作った借金の返済に四枚、生活費や学費の清算のためにさらに三枚を渡していた。残りは三枚であることをシロは忘れていなかった。
「それは……」床に散らばった金貨を拾い集めたのはナカさんだった。三枚。ドラゴン・スレイヤーに払う前金を持参しているとは聞いていたが、こんな《《はした金》》でどうにかなるのだろうかと心配になったナカさんは「少しばかりイロをつけといたんだがね。あんたのお陰で店はようけ儲けさせてもらっとるから」。商売人として儲けるチャンスを逃さないがめつさはあるが、決してケチではないナカさんは、利益は一人占めせずに分け合う方針の持主だった。奉公人にも余計に働いた分のボーナスを支給する予定でいる。当然、大儲けさせてもらったシロに対しても礼は惜しまないつもりだ。
「ありがたいのですが、散々お世話になったうえに……」
「おみゃーさん、今からスレイヤーに会いにいくんでしょう? 交渉するなら、金はいくらあっても邪魔にはならんがね」
あのヘルシ相手に交渉してどうにかなるのだろうか、とシロは思ったが、頑として金を受け取ろうとしないナカさんに、結局シロが折れた。
「何から何まで、ありがとうございます」
「なあに、気にしやーすな。あ、出かけるときは裏口からにしてちょーでゃー。表のお客さんにミラクル聖人の姿を見られたら、パニックになってまうわ」
奉公人に案内されて、裏口にまわったシロは、中庭を通過する際に、大きなシートを被せられた壁を見た。
「あれは?」
「ミラクル聖人の前のお部屋です。窓が大破してしまっているので、臨時措置として」
「そんな……迷惑をかけて申し訳ない」
「大丈夫ですよ。旦那さんは、そのうちあの部屋を『ミラクルの起きた聖地』として一般公開する予定ですから。またがっぽり儲かります。ミラクル聖人はお気になさらないでください」
「それは、よかった……のかな。とりあえず、ミラクル聖人はやめてくれないか」
「はいっ、シロ聖人」
「聖人はやめてくれ」
「あ、そうですね。聖人様の正体がばれたら、大変なことになりますもんね。シロ様、恐れ入りますが、こちらにお乗りください」
厩の前に懐かしい黒い馬と荷馬車が停まっていた。
「やあ、クロ。久しぶりだなあ」
シロは懐かしそうに馬のたてがみをそっと撫でた。それはシロがナガミ村から乗ってきた荷馬車を引いていた馬だった。
「この荷台に横になってください。上からシートを被せて、荷物のふりをしていただきます」
「うん? 随分念入りだね。誰も俺の顔なんて知らないだろう?」一部大教会の人々を覗いて、とシロは心の中で付け加えた。
「ご謙遜を」
若い奉公人は、畳んだ新聞を差し出した。日付は、昨日だ。嫌な予感がシロをよぎった。
『死の淵からの復活!? 正直者の少年、聖人になって奇蹟を起こす!』
そんな派手な見出しの下に、現在のシロの似顔絵が堂々添えられていた。




