第二話 その男、正直者につき
のどかな田園風景が、一転して阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
それは確かにドラゴンであった。
存命の村人に、実際にその姿を見たことがある者はいなかった。文明の進歩により山の木が切り倒され未開の地が暴かれたため、ドラゴンの居場所は年々減少し、生存している個体数は僅かだと子供たちは学校で習うあのドラゴンが、突如として平和なヌガキヤ村に襲来したのだ。
「ドラゴンだ。みんな、慌てず、落ち着いて山の中に逃げるんだ」
そう叫んだ本人の声が震えていたのだから説得力のないことこの上ない。
総出で農作業に励んでいた村人たちは、信じられない速度で見る見る近づいてくるドラゴンの姿を認め、一大パニックに陥った。
逃げ惑う人々
悲鳴
影
恐ろしい風と羽音
総毛立たせる不快な鳴き声
倒壊する建物
悲鳴
炎
黒煙
鞭の如く振り下ろされる尻尾
悲鳴、悲鳴、悲鳴――
倒壊または焼失した家屋、踏み潰された農作物、怪我人、死者――ヌー村長は顔役たちと一緒にドラゴンの襲撃を逃れた集会場にて、次々ともたらされる被害報告に溜息をついた。
「どうしたもんかな」
「どうしたもこうしたも、一旦目を付けたら、焦土と化すまでドラゴンは諦めないって話だぜ」
避難する際に転んでけがをした腕を布で吊った顔役がそう言った。
「また来るのか」
別の顔役が絶望の声をあげる。
「山向うの町で農業を学んだ子等が帰って来て、害虫や自然災害に強い農作物を育てる技術がもたらされてからというもの、この村の将来は明るいと思ったのだが……」と村長は暗い顔で言った。「退治するしかあるまいな」
「おいおい、俺たちは農民だぜ。熊ですら森で出くわしたら死んだふりでやり過ごすような俺たちが、あんなでかいバケモノを一体どうやって」
「自分たちでできないのであれば、誰か代わりの者にやってもらうしかない」
「ドラゴン・スレイヤーか。だが、ドラゴンが絶滅に瀕している今、スレイヤーも廃業が増えてるって話だぜ。見つけられるのか」
「見つけるしかあるまい。我らには、鳥や鹿を射る弓ぐらいしかない。自力でドラゴンを排除するのは絶望的だ」
話し合いで、ドラゴン・スレイヤーを捜し出し、契約を結ぶために誰かを派遣することになった。人選にはさほど時間を要さなかった。
「俺ですか?」
シロは困惑を隠せない顔でテーブルの上に置かれた金貨を見た。きらきらと蠱惑的な光を発するそれは、きっかり十枚。大金だ。
「お前でなくてはならんのだ。お前は村一番の正直者だと評判だ。疲れきった顔をしておるが、炭焼きのお前の家は森の中にあり、ドラゴンの襲撃を逃れただろう。お前自身は無傷だったにもかかわらず、服は汚れ、血塗れだ。おおかた怪我人を搬送したり、被害を受けた者の家の片づけを手伝ってでもいたのだろう」
「はい、それは、その通りです」
ヌー村長の言葉に、シロはまるで叱責を受けたかのように頭を垂れた。短い髪が灰色になっているのは、倒壊した家の瓦礫の中から生存者を救出する際に粉塵を被ったせいだ。
「そんな申し訳なさそうな顔をせずともよい。そういうお前だからこそ、頼みたいのだ。村の誰もがお前を信頼している。だから、大金を預け大役を託すことができる。お前ならドラゴン・スレイヤーをこの村まで連れてきてくれると。お前で駄目なら、他の誰でも駄目だろうと諦めもつこうというものだ。だから、すまんが頼まれてくれんか」
説得は簡単ではなかった。なにしろ、正直な男なのである。行きたくない、自信がないということも、ちゃんと正直に口にするからだ。
だが、結局は折れた。
金貨十枚という大金を前にしたら、例え女房子供のいる子煩悩な男でも金を持ち逃げしたい衝動に駆られるかもしれない。独り身で恋人もいない自分は尚更ドラゴンに目をつけられた村を逃げ出すかもしれないではないかとシロは反論したが、そこはやはり信頼の問題だと村長は説き伏せた。お前ですら誘惑に耐えられないのであれば、他の誰でも無理だ。そして、金は、村長の虎の子である。それを失ったら、もう新たな費用は捻出できない云々。
農作業の手伝いで疲弊していたところへドラゴンの襲撃があり、暗くなっても他の村人の手伝いで奔走していたところを呼び出され、村長の家で夜が明けるまで懇々と説かれたのである。半ば洗脳されたような状態で、シロは「わかりました」と返事をしてしまった。そしてぶっ倒れるように眠りに落ちた。
重苦しい夢にうなされていたシロが叩き起こされたのは、昼の刻の少し前だった。村長の家の、こざっぱりとした客間に寝かされていた。
有無を言わせず湯あみをさせられ、食事したあと、旅装束に着替えさせられ弁当の包みと金貨の入った財布、それとは別に路銀を渡された。戸口までは、村長の末娘のデイジーも見送りに来た。奥さんを早くに亡くした村長が、再婚もしないで男手一つで育てた三人娘の末っ子だ。上の娘二人は既に嫁に行って家を出ており、子煩悩な村長が一番可愛がっているという娘。
「シロさんなら、必ず戻って来てくれますね」
デイジーはシロの両手をそっと握って、言った。彼の目を見つめる彼女の瞳はスミレ色だった。
「は、はい」
シロは落ち着かない気持ちになって後ずさりしながら言った。
「最善を尽くします」
シロの旅立ちには、村長と顔役たちがぞろぞろとついて来た。笑顔で手を振る娘から十分に離れたところで、ヌー村長はシロに小声で言った。
「スレイヤーを連れて来てくれたら、娘との結婚を許してやってもいい」
「あの」シロは困惑した顔で問う。
「娘さんはまだ十二歳ですよね」
「じきに十三だ。お前はいくつだ」
「二十六です」
「丁度いいだろう」
「そうは思えません」
「お前は、正直だがつまらない男だなあ」
「いくら平均寿命が五十に満たない時代だからって、俺は反対ですよ。お産はただでさえ命がけなのに、あんな子供を嫁にだなんて」
「よし、ますます気に入った」
「やめてください。村長ともあろうお人が、自分の娘をまるでモノみたいに」
「馬鹿を言え。可愛い娘に無理強いなどせんぞ。わしはただ、娘の前でお前を《《べた褒め》》してやるだけだ。あいつはわしを尊敬し愛しているから、簡単に引っかかるだろう」
「引っかかるとか言わないでください」
「本当に、お前はつまらない男だなあ」
「行くのやめてもいいんですよ」
村の外れの森の入口に到着するまでに、ドラゴンの傷跡が深く残された区域を通過した。炎で燃やされた畑や、倒壊した家屋、生々しく残る血の跡……片付けに勤しむ人々は、うなだれて浮かない顔をしていたが、シロと村長・顔役たちの一行を見て、顔を輝かせた。どうやら、もう噂が村中に広まっているらしかった。
「シロ、気をつけてな!」
「できるだけ早く戻って来てちょうだいね!」
シロの母親がまだ生きていた頃、熱心に通っていた教会の石造りの尖塔も崩れてしまっていた。教会前の広場が死傷者および家を失った者の避難所になっていた。
「シロじゃないか」
うなだれる信者の肩をさすり力づけていた神父がシロに気付いて駆け寄ってきた。シロはしばらく教会から遠ざかっている後ろ暗さから目を逸らせた。
「これを持って行きなさい」と神父から手渡されたのは、細い革紐のついた小さな匂い袋のようなものだった。
「森の獣や、邪な者が嫌う薬草が入っている。お守りだ」
シロは無言で頭を下げ、神父はシロの首にお守りをかけた。
「都会では、正直さはあまり役に立たないかもしれないが、お前は馬鹿ではない。親切そうにする人間を易々と信用してはならない。嫌な言葉だが」
神父の言葉でますます気が重くなったが、森の入口に到達するまでには、シロの気持ちは固まっていた。