第十一話 優雅に風呂に浸かっている場合ではないが
シロがハッチョ屋に戻ったのは、夜も白々と明ける頃だった。ベッドに倒れ込み目を瞑った、と思った次の瞬間には体を揺り起こされた。重い瞼を開くと、覗き込んでいるキの顔があった。
「君の兄さんには、二度とドラゴン通りの酒場には近寄らないように忠告すべきだな」
「えっ?」
「いや、なんでもない」
シロのキンシャチ滞在二日目は、こうして始まった。ヌガキヤ村にドラゴンが飛来してから五日目である。
シロが目覚めたのは、昼近くと言うほどではないが、日は既に高く上っている時刻、疲労の色を滲ませてまだぼんやりしているシロのために、キはテキパキと指示を出す。
「湯の用意ができていますから、ひとっプロ浴びてください」
「それはありがたいんだが、俺はお客じゃないんだよ。ただの居候だ」しかも、今のところ本来の目的を何一つ遂げられそうにない無能な輩だ、とシロは心の中で自虐的に付け加えた。
しかし問答無用で衣類を剥がれ浴槽に放り込まれたシロは、背中を流すといってきかないキを毅然とした態度で浴室から追い出し、手早く体を洗いながら、浴室の外で待っているキから事の次第をきかされた。
昨日、シロが弁当持参で出かけていってから、ハッチョ屋では大変な騒動が持ち上がったのだという。それは昼もかなりすぎて、夕方近くになってから始まった。
「あの、こちらにヌガキヤ村からいらしたという方がご滞在と聞いたのですが」
それは三人連れの年配の女性たちで、善良そうな顔をしていた。
揉み手で客を迎えた店主のナカさんは、おやと思ったが、すぐに商売人の笑顔に戻った。ドラゴンの問題は、ヌガキヤ村の隣ナガミ村出身のナカさんにとっても重大な懸念事項だ。この女性たちはきっと、ドラゴン退治に関する重要な情報を提供しに来たに違いない。ナカさんの商売人としての勘がそう告げていた。
「お嬢さん方、よういりゃーたなも。ヌガキヤ村の若いお方は、今出かけとりゃーすわ。なんぞ伝言でもありゃーすの?」
愛想よく言うナカさんに、女性たちは顔を見合わせて、言った。
「いえ、あの、わたくしたち、聖人にお会いしたくて」
「せいじん(成人)?」
「ヌガキヤ村の正直者、聖人シロ様にお会いしたいと、大教会からやってまいりました」
シロは浴槽で足を滑らせ泡立った湯の中に頭から沈み、危うく溺れるところだった。
異常を察知し浴室内に乱入し、湯の中でもがいているシロを引っ張り上げたあと、背中を拭くと言ってきかないキを再度部屋から閉め出し、大急ぎで体を拭いて、用意してあった清潔な着替えに袖を通した。自室に戻ると、昨日の内に洗濯しておいてくれたヌガキヤ村出発時にシロが着ていた衣類が畳まれてクロゼットの中に仕舞われていた。シロは既に整えられたベッドに腰かけると、頭を抱えた。
昨日は、大教会のシスターや信徒、聖人シロを一目見ようという訪問客が閉店間際まで絶えなかったという。
「ナガミ村の本店も含めて、ハッチョ屋さんにはとてもお世話になっているというのに、そんな迷惑をかけてしまったなんて、合わせる顔がないよ」シロの脳裏にナガミ村のタケさんとこちらのナカさんの顔が浮かぶが、それはどう見ても同一人物であった。二人は非常によく似た双子だった。
「迷惑どころか、聖人様様ですよ」と盆に載せた朝食兼昼食を部屋まで運んできたキは明るく言う。
「商人がタダで転ぶわけがないでしょう。旦那さん、シロ聖人目当てで来たお客さんたちに、あなたの大好物だといってハッチョを大量にご購入いただいてました。隣のヤマトモ屋でも、さっそく『シロ聖人の大好物赤煮込みフェア』ということで売り込んでいます」
シロはひと風呂浴びてさっぱりしてきたばかりとは思えないげっそりした顔で、黙って机の上に置かれた食事を口に運び始めた。本日のメニューはハッチョベースの甘辛ソースをかけた赤カツレツだ。
「そういえば、昨日変わったお客さんが来たってヤマトモ屋の連中が噂してましたね」
シロが食事する傍らに立って見守っているキが言った。シロは、もう下がっていいと伝える気力すらないので黙って咀嚼に専念している。
「その人は、丁度昨日シロ聖人が出かけられた頃合いに、隣の食堂にやって来たそうで、ちょっとそんじょそこらにはいないようないい女だったって話です。どこぞの領主様の愛人でもおかしくないような気品が漂う淑女にしか見えないのに、その女、赤煮込みを十回もお代わりして、さらに赤カツレツも十人前、ぺろりと平らげたんだそうです」
豚肉に衣をつけて油で揚げたカツレツは、外はサクサク中はジューシーで、濃厚な赤ソースに絡めて食べると絶品だが、これを十人前食べろと言われたら、さすがに胃がもたないなとシロはぼんやり考えている。何か――暗い路地? の風景――が頭をよぎったが、すぐに忘れてしまった。
「そんなに食べるなら、さぞ太ってるんだろうな」
「いやそれが、もう出るところは出て、ウエストなんかはきゅっと締まった抜群のプロポーションなんだそうですよ。スカートは足首までのを履いてたそうですけど。オレも見たかったなあ~」
そういう年齢だから仕方がないとはいえ、キに対しスカート丈について苦言を呈しておくべきだろうかとシロが考えていると、せかせかした足取りでナカさんが部屋に入って来た。
「おはようございます、シロ聖人!」
「聖人はやめてください。昨日はとんだご迷惑をおかけしたようで」
椅子から立ち上がりかけたシロの肩を両手で抑えた店主は、上機嫌だった。
「ここキンシャチで今も語り継がれる伝説の正直者の少年だったとは、まったくご謙遜が過ぎるがね。今日も朝から、あんた目当てのお客さんがぎょーさん『聖地巡礼』にいりゃーて、この店も隣の食堂も大繁盛だわ。ありがたや、ありがたや~」
両手を合わせて拝んだあと、ナカさんははたと気づいた様子で言った。
「あんたに会いたいと、今大学からどえりゃあえりゃあ先生が来とりゃーすわ。さすがに学者先生を門前払いはできんから、お待ちいただいとるんだけど、あんた会やーす?」
「大学?」
シロは動悸が高まるのを感じた。イーライは、昨晩の騒動のあと、さっそく朝一で大学にかけあってくれたのだろう。
「ぜひ、お会いしたい」
「それじゃあ、ここにお通しするでよ。キ、急いで皿を片付けやー。それから、椅子をもう一脚運んできてちょ」
「はい!」
キが騒々しい音をたてながら食器を盆に載せて出て行った。
「あとからお茶運ばせるでよ。ごゆっくり」
ナカさんが部屋を出て行ってしばらくすると、部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
緊張した面持ちでシロは言った。




