第十話 地に堕ちた神童
「兄ちゃんなんて呼ぶな。なにをやっているんだお前は」
シロは顔をしかめて、改めて男たちを眺めた。シロが腕を掴んでいるナイフを振りかざした男、イーライを押さえ付けている男たち二人、さらにその背後にもう一人、いずれも人相の悪い悪党どもが四人。
ヌガキヤ村では、もめ事といえばせいぜい収穫祭でうかれた酔っ払い同士が小競り合いを起こす程度なので、刃傷沙汰はとんと経験がなかった。
だがこんなものは、トロちゃんと間違えて別のトロールに無防備に接近してしまい文字通り死ぬ思いをしたことに比べれば、大したことがないように思われた。上背もあり体を鍛えているシロは、それなりに強そうな威厳を湛えて見えたはずである。ハッチョ屋の印半纏を着ていなければ。
「なんでえ、てめえ。どこの奉公人だ。余計なことに首を突っ込むと、てめえの店がどうなっても知らねえぜ」
ナイフの男に脅されて、シロは少し顔をしかめた。お世話になっているナカさんたちに迷惑をかけるわけにはいかなかった。
「知ったことか。店は今日で首になったんだ。好きにすればいい」
シロは半纏を脱ぐと、丸めて地面に放り投げた。
「なるほどな。道理でしけた面してやがるぜ。自暴自棄になって死にてえのか? おいおい、たかが職を失ったぐれえで、命は大事にしな」
意外と善人なのかもしれないナイフの男の言葉にシロは対話を試みる気になった。そもそも、四対一では分が悪い。
「そうしたいところだが、そこの若い男の顔には見覚えがある。何年も前に郷里の村を出て行ったきり、便りが途絶えて久しいと、善良な親御さんが心配していた」
イーライはさほど裕福ではない農家の出だったが、成績優秀だったため村からの支援で学都キンシャチに進学し、将来を嘱望されていた神童、だったはずだ。
「悪い女に引っかかったのが運の尽きよ。俺はやめておけって言ったんだぜ。あのトリシュってやつは有名なアバズレよ。こいつのようなウブな学生にどうにかできるわけもないのに」
「借金は、いくらだ」
「金貨七枚だ。あんたみたいな失業者にはどうにもできんだろう。ま、腕を切り落とすのは勘弁してやろう。そんなことをしてもこっちには何の得にもならん。だが、少々の痛い目は見てもらうし、そのあと奴隷として売り飛ばす。こんなヒョロヒョロのもやしじゃ、元はとれんだろうがな。それとも、お前さんが買い取ってくれると言うなら、金貨五枚に負けてやってもいいがな」
「それは……」シロは口ごもった。金はあるが、これは村を救うための資金で、シロのものではない。だが、息子から便りがないのは、学業が忙しいからだと自らに言い聞かせ、息子の帰りを待っている夫妻を思い出し、胸が痛んだ。
「助けてくれ、兄ちゃん」
イーライが泣き声をあげる。涙と鼻水、涎まで垂らした顔は見られたものではないが、子供の頃から森の小鳥や虫を観察するのが好きな、優しい子供だった。当時の少年の顔が浮かんできた。山に詳しく五歳年上のシロのことを「シロ兄ちゃん」と呼んでいた無邪気な少年……
「わかった。だが、俺が出せるのは金貨四枚だ。それで勘弁してくれ」
「店を首になったやつがなんでそんな大金を?」
「それは知らない方がいい」
「ほう」ナイフの男はにやりと笑った。
「お前さん、善人そうな面をしているくせに、人は見かけによらないな」
シロは金貨四枚とイーライの借用書を交換した。男たちは「今度あの女に近づいたら命がないと思え」と怯えるイーライに脅しをかけて去って行った。遠巻きに囲んでいた野次馬も興味を失って解散し、通りに残されたシロは、まだ地面に座り込んだままのイーライの腕を掴んで立たせた。
そのまま無言で立ち去ろうとするシロにイーライが泣きながら縋りついた。
「待ってくれシロ兄ちゃん」
「兄ちゃんなんて気安く呼ぶな。お前は、村の人の期待を背負って村の援助を受けてここに学びに来ていたはずだ。よくもこの俺にそんな醜態をさらせたものだ。今後は気持ちを入れ替えて学業に励め。あと、親御さんが心配しているから、手紙ぐらい書いてやれ」
「でも、連中に借金を返しただけじゃダメなんだ。学費も滞納してる。払わないと、除籍されてしまう」
シロはうんざりした顔で振り向くと、無言でイーライの顔をぶん殴った。見るからにひ弱なイーライは、吹っ飛んで再度地面に倒れ込んだ。通行人は、シロの鬼の形相に恐れをなし、関わり合いにならないよう足早に通り過ぎていく。
二人は「ここからそう遠くない」というイーライの下宿先に場所を移すことにした。
それは、特に珍しくもない話だった。田舎から出てきた学生が、酒場の女に引っかかる。女の気を引くために、女の知り合いだという男から金を借りた。法外な利息をふっかけられて、借金はたちどころに膨れ上がる。学業どころではなくなり、学費も生活費も利息の返済だけで消えていく。もはや下宿を追い出されるのも時間の問題で、大学の卒業も危ぶまれている。
「お前がそんなに馬鹿だとは思わなかった」
歓楽街の路地裏の更に奥、狭い部屋にあるのは備え付けのベッドぐらい。教科書も衣類も、売れるものは皆売ってしまったという。
シロが食べ損ねた弁当(ハッチョ屋で持たされたものだ)を夢中で頬張っていたイーライは、一瞬咀嚼を止め、大急ぎで口の中の物を飲み下した。
「じ、自分が恥ずかしいよ、オレ。でも、初めての恋だったんだ」
イーライが村を出た時まだ十六歳だったことを思い出し、シロは少し同情する気になった。そんな若さで、たった一人で頼れるものもない大きな都にやって来て今まで生きてきたのだ。
滞納している学費や宿代など、イーライが生活を立て直すのに必要な資金は金貨三枚ほどと算出された。シロは溜息をつくと、懐から金貨を取り出し、イーライに突き出した。
しかし、彼はもじもじして受け取ろうとしない。
「シロ兄ちゃん、その金は本当にお店から盗んだのか? 首になった腹いせに? こんな風になったオレが言うのもなんだけど、兄ちゃんはそんな人間じゃなかったはずだろ」
「馬鹿野郎、あれは嘘だ。ハッチョ屋には、ただ店の人の親切で置いてもらっているだけだ。首にされたわけでも盗んだわけでもない」夜は冷えるので、シロは土埃をはたいた印半纏を着込んでいた。
「そうなのか」
イーライはやっと笑顔を見せて、金貨を受け取って深々と頭を下げた。
「この金は、必ず大学を出てから働いて返すよ。今日から心を入れ替える。もう二度とスカートの短い女には引っかからない」
それはどうだろうな、とシロは内心思いつつ「だが、その金は、俺のものじゃないんだ」と言った。
シロから事情を聞いたイーライは、青ざめた顔をしてシロに金貨を突き返した。
「なんて馬鹿なことをしたんだ、兄ちゃん。オレはどうなっても自業自得だが――」
「村を救ってくれるドラゴン・スレイヤーなんか、見つからないかもしれない。だったら、せめてお前ひとりでも助かってくれたほうが」
「キンシャチに来てまだやっと一日だろう。それでそんな弱音を吐くなんて」
イーライに怒られて、シロは苦笑した。イーライはバツが悪そうな顔をして言う。
「た、確かに、オレがそんなことを言えた義理じゃないけど、シロ兄ちゃんが諦めたら、ヌガキヤ村はどうなるんだよ」
「そう言われてもなあ」
酒場や宿屋で情報を得る方法は望み薄だと思った。目下の頼みの綱は、大教会の神父と善良な信徒の人々だ。彼らの横のつながりは侮れない。だが――
「ドラゴン退治なんて特殊な任務じゃなあ」
二十年ほど前に王都に住んでいた者がいれば、実際にドラゴンに襲撃を受けた経験について尋ねることができるだろう。だが、尋ねてどうなる? その時の英雄ヘルシはどんまい食堂で前後不覚だ。しかも、あの肥満。年齢のこともあり、たとえ素面に戻ったとしても、使い物になるとは思えなかった。
「そうだ! そういう時こそ、大学の研究者を頼るべきだ」
イーサンが顔を輝かせて言った。
「ドラゴン学とか、魔法使いの歴史とか、そういう古い学問を研究しているグループがあると聞いた。明日大学に行って相談してみるよ」




