第六話 どんまいシスター
「痛いです!」
体を鍛えているからと言って、ひっぱたかれればやはり痛い。シロは非難のまなざしで女に訴えたが、全く通じた気配がない。女は快活に続ける。
「もちろん、失業は大痛手ですよね。でも大丈夫。あなたの若さなら、人生どれだけでもやり直しはききますよ。どんまい、どんまいです!」
「いってえ! あの、叩くのやめてもらえませんか」
「ええっ。ここに来るお客さんは、みんな励ますと喜んでくれるのに」
「俺にはそんな趣味はないので。励ましていただかなくて結構です。第一俺はハッチョ屋の奉公人じゃない」
シロは誤解の元であるえんじ色の印半纏を脱ぐと丸めて脇に抱えた。
「あらっ! いい筋肉してますね。これなら、建築現場で引く手あまたでしょう。今丁度、歓楽街に新しい酒場を建てているところで作業員募集中です。どうですか?」
「どうですかって、俺は失業者じゃないので」
「ああーそうですか。ご家族にはまだ話せてないんですね。了解です。妻と幼い子を養わなきゃいけないのに、職を失ったなんて、大の男が言えませんよね。どんまーい!」
「ぐあっ。どんまいするのやめてください!」
再度背中を叩かれて悲鳴を上げたシロは、女から数歩遠ざかった。細い体と腕からは想像もつかない力が込められており、かなり痛い。
「それに俺は結婚してませんから」
「あららら。奥さんにも愛想をつかされたんですか。それはお気の毒に。どん」
シロが警戒して更に女との距離を広げたので、女は途中で言葉を切った。
シスター・ウーヤというのがどんまい女(とシロが密かに名付けた)の名で、大教会から派遣されているという。他にも大教会所属のシスターとボランティアの信徒でこのどんまい食堂を運営しているのだが、食事時のピークを過ぎたこの時間帯、シロにとっては不運なことに、スタッフは彼女しかいなかった。
シロが早口に事情を説明すると、シスター・ウーヤの顔から笑顔が消えた。
「そうだったんですね。とても惨めでうち捨てられたご様子なので、てっきり失業者の一人かと……」
一応昨晩は湯に浸かり旅の垢を落としてきたのだが、それほどしょぼくれて見えるのだろうかとシロは不安を覚えた。
「お捜しの元スレイヤーさんは、あちらの奥で寝ている体の大きな男性です」
シスターが指さしたのは、入口から最も遠いテーブルの端だった。
「でも……お話ができる状態かどうか」
シスターの後について男に近づくにつれ、シロの不安は絶望にとってかわった。
確かに、大きな男なのだろう。テーブルに突っ伏しているので定かではないが、身長も高そうだ。そして、目を見張るのは横幅だ。食堂内の椅子はどれも簡素な背もたれのない丸椅子だが、彼はそれを三つ尻の下に敷いていた。それでも椅子の脚が軋み悲鳴をあげているのが聞こえる気がする。
「今日はお昼も食べずに、ずっとあの調子で」
「どこか具合でも悪いのでしょうか」
小山のような巨漢に近づくにつれ、シスターの言う「あの調子」の意味がシロにも理解できた。アルコールの臭いだ。たっぷり肉のついた背中に目を奪われ気付かなかったが、酒瓶がいくつもテーブルの上や男の足元に散乱している。
「ここでは、酒も提供するんですか?」
失望と怒りの混じった声でシロは尋ねた。
「必要に応じて提供することもあります。でも彼の場合は……」
「必要に応じて」シロは不快感を隠そうともせずに言う。
「俺の親父も酒飲みだった。酒を出さないと暴れる、『必要』というのはそういうことなんですか。アル中を大人しくさせるために酒を飲ませると」
「あなたはお酒を飲まないのですか」
シスターはシロを振り返らずに言った。先ほどまでにハイテンションが嘘のように、声の調子が沈んでいる。
「飲みませんよ。親父みたいになりたくないので」
「それは、幸いかもしれません。私も、幼少より神に仕える身なので飲んだことがありません。そんなことは別に強い意志がなくとも、簡単なんです。私や、そしてあなたのような方には」
シスターが小山のような背中に手を置いても、男は微動だにしない。
「ヘルシさん、お客様ですよ。あなたに取り急ぎの用事があるそうです」
シスターが揺さぶるが、それでも反応はない。
「一体、どれだけ飲ませたんです。これじゃあ、早く死ぬよう手を貸しているようなものだ」シロが男の周りに転がる酒瓶を見て嫌悪感も露わに言う。こんなところまできて、時間の無駄だったのではないかと後悔の念が押し寄せる。
「こちらが供給するのは、手の震えを止めるためとか、深刻な禁断症状を緩和させるためですが、それとは別に、彼に大量のお酒を供給する『崇拝者』がいるのです」シスターは溜息をついた。「仕方がありません、最終手段です」
シスターは静かに言うと、軽く咳ばらいをしたあと、叫んだ。
「ドラゴンだ! ドラゴンがやって来たぞう!」
それは、がらんとした食堂内に響き渡り、傍らに立つシロをはじめまばらな客たちの度肝を抜く大声だった。




