第十話 シロは激怒した
「いい加減なことを言わないでいただきたい!」
シロは激怒していた。温厚な男でも怒る時は怒るのである。
「うん?」
老人が怪訝そうな顔をするのが一層シロの怒りをかきたてた。
親切に水を汲んでやったというのに、見返りがこれだ。見返りなど別に求めていなかったが、このようにからかわれるとは。
「そんな心配は無用だ。女どもは俺に見向きもしない。ヌガキヤ村の女たちがそうだった。キンシャチで女が群がって来るというのであれば、それは俺が騙しやすそうな田舎者に見えるからだ。俺だって男だが、この緊急事態において、その種の見え透いた誘惑を跳ね除けられるだけの理性は立派に備わっていると思いたい」
シロの脳裏を思い出が走馬灯のように駆け巡った。
村長の三人の娘の内長女のカイリーはシロより一つ下の快活な少女だった。彼女は三女のデイジーと同じスミレ色の瞳をしていた。そのスミレ色の瞳は、シロがどんなに願っても、彼の方には向かなかった。異性に関して彼の胸を今も苦しめるのはその記憶だけだが、それ以外の女性も、やはりシロには無関心であった。これまでただの一度も、女性からちやほやされた経験はない。
「ああん?」
老人は改めてシロの顔をまじまじと見た。
年の頃は二十代の半ば、背は高く、屈強な体つき。鼻筋の通った横顔は今は怒りの形相だが、普段の子犬を思わせる黒目がちな瞳は親切そうで、この男の性質を表していると言える。控えめだが、ハンサムだ。これで女に見向きもされないとは、謙遜しているのだろうか。それとも――
老人ははっとした。
「なんと、既に魔法にかけられておったか」
「はい?」
老人は重く垂れ下がった瞼を見開いて、シロを凝視した。
最近めっきり耄碌しているのと、男にかけられた魔法があまりに微弱なため気が付かなかった。かけられたのは恐らく十年かそれ以上前の話で、既に魔法がその男の元来の性質であるかのように馴染んでしまっている。だから気付かなかったのだ。
「わしとしたことが。お前は、ずっと前から守られていたのだな。しかしだ。少年のお前ならそれでどうにかなったかもしれんが、今やお前は成長した立派な大人だ。長い年月の間に薄まり消えかかった魔法は、キンシャチの女たちには効果がないだろう。だから、非常にまずいことになるぞ」
「状況がよく呑みこめないのだが、その魔法とやらのせいで俺は女性から見向きもされなかったのか。想い人からも、そうでない人も」
実際には、シロには魔法にかかっていなくとも元々鈍感なところがあり、デイジーの姉以外の女性から好意を寄せられることがあっても全く気付いていなかったのだが。
「まあそう怒るな。その魔法は、不十分ながらこれまでお前を守って来たのだ。想像してみろ。数々の女がお前のために狂い、身を亡ぼす。既に恋人や夫があろうともお前の魅力に抗えず、堕ちる。そのせいで男衆から恨まれ、妬まれたが故につまらない死に方をするのは本意ではないだろう。お前には、他に成し遂げたいことがあるはずだ」
老人に諭されても、シロは今一つ釈然としないものを感じていた。確かに、彼が欲したのは不特定多数の女ではなく、彼の側にずっといてくれる誠実な恋人・妻ただ一人であった。しかし、その一人とて寄せ付けない魔法の力を借りて、孤独に苛まれながら成し遂げなければならない事とは一体何か。ドラゴンが襲ってくる以前は、炭焼きとして生涯を終えるはずだったこの自分が。
「文句の一つも言わずに水汲みをしてくれた礼に、お前が望むのであれば、より強力な女人避けの魔法をかけてやろう。それでも、お前の顔に出ている強力な女難の相には打ち勝てんかもしれんがの」
「はあ、それは、ありがとうございます。しかし、その強力な魔法というのは――」
「うん。生涯有効だから、お前は一生女性から遠ざかる人生を送ることになる」
シロはがっくり頭を垂れてしばらく呆然としていたが、やがて覚悟を決めた顔で老人に言った。
「それでも構いません。どうせ俺は例えこの任務に成功したとしても、偏屈な炭焼きとして山の中でトロールの友と語らいながら暮らすことになると思うので」
どうせカイリーは八年前に浮ついた村一番の男前と結婚し、今では三人の子持ちだ。俺にはもう失うものなど何もない、とシロは心の中で付け足した。
「そうか。では、目を閉じよ」
老人に言われるまま、シロは固く目を閉じた。
「ほいっ」
老人は気の抜けた掛け声とともに、こぶ状になった長い杖のてっぺんの少し出っ張った部分でシロの額を小突いた。
「あいっ――」一体何をされるのかと緊張して待ち構えていたシロは、地味な痛さに思わず声をあげた。「――た!」
目を開けて見れば、老人は既に踵を返し、シロが苦労して水を汲んだ皮袋を肩に下げ、ゆっくり歩き去るところだった。
「もう済んだのか? 呪文とか唱えないのか? 杖から雷がばりばり出るとか?」
「そんなパフォーマンスをするのは三流の魔法使いだよ」
老人は振り返りもせず、杖を少し上にあげて振って見せた。
「魔法は、完全じゃない。油断するな。とにかく、キンシャチでは女人に注意せよ。あと、その秘薬は、いよいよもう駄目だ、と思った時に飲みなされ。ただし、丸一日しか効果は持たん」
そう言い残して老人は、シロが瞬きをした次の瞬間には姿を消していた。ふと胸元で握りしめた手を開いてみると、小さな瓶が現れた。




