第九話 女難の相
水を汲んでほしいと老人は言った。
老人は腰が曲がって長い杖に縋るようにして立っていた。埃っぽいグレーのローブの裾は引きずって歩くせいでぼろぼろだ。
シロは快く引き受け、老人が肩に担いでいた動物の胃袋でこしらえたと思われる皮の袋を受け取った。
井戸は木製の枠で四角く囲んだ上に、滑車を設置し二つの釣瓶(木製の桶)で交互に引き上げて水をくみ上げる仕組みだ。
ロープをぐいぐい引き、釣瓶に一杯の水を、老人が口を広げて支える皮袋の中に注ぎ込んだ。もう一回、さらにもう一回とロープを引き汲み上げた水を皮袋に流し込むのだが、袋はへこんだままで、一向に満たされる様子がない。
「うん?」
シロはなるべく水をこぼさないよう慎重に皮袋の口に注ぎ込んでいる。流れ落ちて地面に黒い染みを作る水はほんの僅かだ。それなのに、見た目では、釣瓶の水一杯分でほぼ満杯になりそうな皮袋が、さっぱり膨れない。
皮袋に穴が開いていており、水漏れしている様子もない。
おかしいと思いながら、シロは更に数回水を汲んで皮袋に流し入れた。水が満杯に入った木の桶をロープで引き上げるというのはなかなかの重労働だ。ほんの数回でもシロはうっすらと汗をかいていたが、皮袋の方には一向に変化がない。
「じいさん、あんた、魔法使いなのかい?」
そう尋ねたシロに、老人はふぉっふぉっふぉっと皺だらけの口元をすぼめて笑った。
「そうだよ。だが随分と耄碌してしまってね。今じゃ井戸水を汲むのも一苦労さね」
「そうか。魔法で大量の水を蓄えておけるというのは便利だね」
シロはそう言うと、それからは無言で水を汲む作業を続けた。
「もういいだろう」
老人がそう言った時、シロは汗だくで、へとへとにくたびれていた。
皮袋はあいかわらずべしゃんこなままで、シロが注ぎ込んだ水を全て蓄えているようには到底見えなかった。
「助かったよ。これで当分水の心配はいらない」
「それはよかった。それじゃあ、俺は先を急いでいるから、そろそろ行くよ。出発だ、クロ」
シロはそう言ってのんびりと草を食んでいた馬の背を優しく叩いた。
「急ぎの用事の途中に、悪いことをしたね」
「いや、いいんだ。馬に休憩させたかったから」
シロは荷馬車の御者席に乗り込んでから、ふと思いついて老人に尋ねた。
「魔法使いは、ドラゴンを退治できるかい?」
「お前さんの村を襲ったデカいやつのことか? あれはお産をしたばかりで気が立っていて格別に獰猛だ。あれをやっつけるのは、わしのような老いぼれには無理だね」
老人は造作もなく言った。シロは少しあっけにとられた。海猫とタニシ亭の女将から発せられた伝令が既に届いたとも思えないし、やはり老いても魔法使い、並の人間とは異なる情報網を持っているのだろうか。
「そうか。でも、知り合いで倒せそうな人はいないかな。魔法使いでも、ドラゴン・スレイヤーでもいいんだが」
「魔法使いも後継者不足でね。今時の若者は魔法なんて鼻で笑って科学だ化学だっていうだろう。この界隈にアレを倒せる強力な魔法使いはいない。わしがもう少し若ければ、お役に立てたかもしれんがね」
「そうか。それは残念だ」
シロは老人に頭を下げて、クロに出発の合図をしようとしたが、老人が声をかけてきた。
「おぬし、キンシャチに向かうのだな」
「そうだよ。無理でもなんでも、誰か見つけないと、俺の村は焼け野原にされてしまうかもしれない」
「おぬし、女難の相が出ておるぞ」
「――は?」
「お前は、女のために大変な目に遭う運命にあると、顔に出ておる」
「ああっ」
シロは思わず金貨を用心深く仕舞ってある懐に手をあてた。
田舎者の自分が、古都キンシャチのような大都会を呑気に歩いていたら、その手の女にたちまち捕まって餌食にされてしまうのだろうか。自分には村人を救う重責を担っているという自負があるが、そんな覚悟は、都会の手練手管に長けた女の手にかかればたちまちその色香に惑わされ、あっという間に有り金を巻き上げられて俺は――
「これ、勝手に悪い想像を巡らすんじゃない」
老人の声で我に返ったシロは、胸元をきつく握りしめていた手の力を緩めた。
「実は、心配だったんです。自分では真面目なつもりでも……」
「お前自身は、正直な上、真面目でクソ面白くない男だよ。皆にそう言われるだろう」
「はあ」
「問題はな、お前の意思の強さ云々ではない。お前は男前で、多くの女たちにとって魅力的に映る。お前にその気がなくとも女の方が放っておかないから、色々面倒なことになると言っているんだ」
「はあ?」




