第2夜 記憶
目覚めたこの場所は直径500mにもおよぶ広大な広場だった。舗道を歩いて約3分、広場の出口にたどり着いた俺はその先の景色を見るや否や回れ右をしてストーンテーブルまで帰ってきた。カタチのせいかこのテーブルには謎の安心感がある。
「冷静に考えてこの暗闇の中で見知らぬ場所を移動するのは自殺行為だよな……」
訳が分からないことばかりで思考回路はショート寸前、でも精神は未知への好奇心で興奮状態。考える前に動いた結果だった。
「とりあえずこの身体のことを少しでも知っておくか」
この身体はかなりのハイスペックらしい、それもチート級の。情報源は光を失ったよくわからない紙切れのみ。状況が状況なだけに信じたくなるが、確認できる余裕があるなら確認しておくべきだ。
「こんなにも立派な双剣を携えているしこれがメイン武器だろうな」
両腰から1対の双剣を引き抜く。眼前に掲げると一瞬の間ののち小さなため息が出た。綺麗な漆黒で統一された見とれるほどの美しいデザイン。形状としては日本刀ではなく西洋剣の形をしている。ブレードの長さは50cmほどでグリップには革が巻いてあり握りやすくなっている。ぱっと見では左右の剣の違いはわからなかったが、よくよく見るとガード(鍔)部分の模様が異なっていた。
そしてこれが最も大事なことだが、戦い方を思い出した。
「さっきの紙といい、この剣といい、いったいなんで……」
正確な表現をするならばおそらく、剣に蓄積された先人の経験値が流れ込んできた、という具合だろう。なにしろいま人生で初めて剣を握った俺が思い出すというのは表現がおかしい。でもそうとしか言えないぐらいしっくりとした感覚だった。
右手の剣で前方を薙いでからひと通りの動きを試してみる。ひと呼吸の間にいくつもの斬撃が繰り出される。慣れてきたら身体強化の魔法をかけてさらにスピードを上げていく。おそらくここまでくれば大半の冒険者では追うことさえできないだろう。ここからさらに魔法で双剣に属性付与をして物理ダメージ以外の攻撃も可能だった。ひと通りの戦闘シミュレーションを行って気が済んだので、納刀してからテーブルに腰かける。
「戦闘能力はたぶん問題なし。魔法も念じるだけで発動するのは助かる。あとは心の問題だな。魔法については自分から離れたところへ飛ばすのがこの身体は苦手なのか。自分と触れているものにしか魔法が効かないのは少し厄介だな」
魔法による遠距離攻撃ができない以上、すべての敵はこの双剣で切り倒す必要がある。つまりこの手で肉を絶たないといけない。こればかりはいくら戦闘能力があろうと心が強くないとできないことだ。転生前の世界で人を殺したことも無ければ殺されたことも無い。目下の心配事は身体から精神へと移り変わった。
「……悩んでも仕方がないし朝まで寝るか」
テーブルの上にのぼり目覚めたときと同じような大の字の格好になって空を見上げる。雨雲はすっかりなくなっていてそこには綺麗な満月と星空があった。目覚めてからたいして時間は経っていないと思っていたが、もしかしたら何かのタイミングで予想以上に時間を費やしていたのかもしれない。
「……みんな、元気にしているかな……」
転生前はごく普通のサラリーマンエンジニアだった。大卒でメーカーに就職して約7年、辛いこともあったけどそれなりに楽しくやっていた。プライベートも趣味でつながっている友人が多くいて充実していた。趣味といえば漫画はかなり好きだった。異世界転生ものもたくさん読んでいたけど、まさかその状況に自分がなるとは思いもしなかった。年齢的には30歳が近づいてきてそろそろ結婚を考える年になって、5年間付き合っていた……彼女……と……。
「……おかしい」
彼女の顔だけ思い出せない。靄がかかったようなあやふやな輪郭、モザイク、そして欠落。他の人の顔は思い出せるのに、彼女の顔だけ思い出せない。思い出させないように意図的に細工がしてあるのがありありと実感できる。声は辛うじて脳内再生できた。
「もしかして……」
いや、もしかしなくてもこれは次第に存在を消されて記憶から忘れ去られてしまうやつだ。5年間も付き合っていたのにいま思い出せることが極端に少ない。そしてそのすべての思い出の中の彼女の顔には靄がかかっている。
「さくら……」
この名前もあとどれくらい覚えていられるのだろう。……と、その時ふとナイスアイデアが浮かんだ。急いで上体を起こして胡坐をかくとアイテムボックスから先ほどの紙を取り出す。幸いにしてアイテムボックスにはペンとインクもあったので、それを利用して紙に”さくら”と書き留めた。
「これでよし。忘れてもこれで思い出せるはず」
綺麗に四つ折りにして再びアイテムボックスの中へ収納する。これできっと大丈夫。今できることはした。毎日取り出して見返せば忘れることもきっとない。
その後は何かにせかされるように眠りについた。
そして、その紙を再び目にするのはかなり先のことであった。