エーリカさんは幼馴染 〜自称幼馴染のハーフ美少女が色々な思い出話を捏造してくる話〜
「ねぇウレシノ君、覚えているかしら? 私たちが初めて行ったお祭りのこと――」
隣を歩くエーリカ・キヨミ・古川さんがまた例の如く話題を振ってきた。
「私たちが七歳の夏だったわね……懐かしい。私とあなたは近くの神社で待ち合わせをしてお祭りに行ったのよね。そこらじゅうで電飾が輝いていてとても綺麗だった……」
俺は空を見上げた。
大きな大きな夕日が西の空に傾いていた。
「そのとき私が金魚すくいを見つけて、どうしてもやりたいってあなたにせがんだのよね? 私は頑張りすぎて浴衣の袖が濡れちゃったの。私ったら昔からそう。集中すると周りが見えなくなっちゃうから――」
住宅街のどこかからふわふわと、何か揚げ物の匂いが漂ってきた。
エビフライかな、それともコロッケかな。
考えているうちに、ぐう、と腹が鳴った。
「水槽の中で一番大きな金魚はカスピ海産の金魚で、大きさが三十センチぐらいあって――私はそれを必死になって狙ったけど獲れなかった。私は悔しかったのに、あなたは笑ってた。……今まで言ってなかったけどね、あの時の私、ちょっと真剣に怒ってたのよ?」
今はもう怒ってないけどね……とエーリカさんが空を見上げた。
カラスが、くわー、くわーと鳴いた。
この間までは、にょーん、にょーん、と鳴いていたのに、気がつけば随分腕を上げた。
「店のおじさんが、ガッカリする私に呆れて、金魚をオマケしてくれて――そのうちに祭りのフィナーレが始まった。ニンジャが出てきてハラキリショー……まだ子供だったから私はそれを見るのが怖くて駆け出した。そしたら履いていたヒールの踵が折れてしまって――」
エーリカさんがその先を少し言い淀む気配がした。
「あなたは私を背負って神社裏に行こうと言い出した。そこであなたは私を座らせて、靴を脱がせた後、何を思ったのかその素足にそっと頬を寄せてきて、私の足を舌で丁寧に――」
エーリカさんの顔が赤くなった。
「私は正直、びっくりしたけど――いやじゃなかった。ううん、あなたとだったらいいかもしれないと、子供心に――ああ恥ずかしいわ、女の子の私にこんなこと言わせるのね、相変わらずあなたは酷い人――」
エーリカさんの顔は今や夕焼けより真っ赤だった。
エーリカさんはこう見えて乙女なのだ。
ただちょっと、盛り上がってくると先走る傾向があるだけで。
「そのうちあなたは野獣のような目で私を押し倒してきて――私は帯も裾も脱がされて人気のない神社裏で素裸に剥かれてあられもない姿にされちゃって――あぁ、激しい! 凄く強引――!」
「金魚は淡水魚なのでカスピ海では生存できません」
俺――嬉野空海はそこで初めて反論した。
一人ふしだらな妄想で盛り上がりつつあったエーリカさんがハッと口を閉じた。
「それに日本の祭りにはニンジャなんか出てきませんしハラキリショーなんてやりません。第一ハラキリはサムライがやることであって、ニンジャは多分ハラキリしませんよ」
俺はズバズバと指摘した。
それとともにエーリカさんの顔から潮が引くように興奮が引いていった。
「それに普通、浴衣にハイヒールは履きません。まぁエーリカさんなら何履いても似合うでしょうけど……でも、普通は草履とか草履とか履くと思います。それに」
俺がじろりと見ると、エーリカさんがちょっとギクッとした表情を浮かべた。
「エーリカさんは高校一年生の夏にうちの学校に転校してきた生徒なので俺と七歳の頃に祭りに出かけることは出来ません。なぜならその時、あなたはまだ母国であるリトアニアのカウナスに在住で――日本にはいなかったからです。そうですよね?」
俺が指摘すると、エーリカさんがシュン、と落ち込んだ。
「今回はイケると思ったのに……」
「いや、正直全然騙されないから。第一人の記憶の改竄とかいくらなんでも無理っスよ、エーリカさん」
俺は即座にそれを否定した。
「あの……こんなこと言うのもナンですけど、普通に僕たちってお話できません? 昔じゃなくて、今のこととか、週末の予定のこととか、スリーサイズの話とか」
「日本ではオサナナジミという男女の関係が一番強いって知ってるでしょ!」
エーリカさんは白い頬をぶうっと膨らませた。
「折角あなたのガールフレンドになったんだもの! ともかくオサナナジミぐらいにはならないと私がとんでもない甲斐性なしみたいじゃない!」
甲斐性なし、か。その単語は知っているのにその理屈はおかしい。
どうもエーリカさんは根本的に幼馴染という関係を根本的に勘違いしているようだ。
幼馴染とは「属性」ではなく「状態」の話であって、後天的には獲得できない。
その、どちらかといえばアホな勘違いを少し可愛いと思ってしまう辺り、俺も物好きだ。
俺は大げさにため息をつき、言わないでおこうとした事をつい口にした。
「大体エーリカさんの物語の組み立てには無理がありますよ。その後が――なんだって? 神社の裏で俺が何をしたって言いましたっけ?」
それを指摘すると、エーリカさんの顔がハッと赤くなった。
なまじ肌が白いだけに、ポポッ、と、音がしそうな感じに。
あ、あう……と喘ぐようにエーリカさんが狼狽えた。
「まず俺が素足に頬を寄せた……って言いましたっけ? どんだけ詳しく妄想してるんですか? その後、俺が野獣のような眼光でエーリカさんが着ていた浴衣を、何? 素裸に剥いたとかなんとか……」
あああああああ! という悲鳴がエーリカさんの口から迸った。
そしてエーリカさんは奇声を上げてその場にしゃがみこんだ。
「大丈夫?」
「だいじょうばない――!」
エーリカさんは小さい膝頭に額を埋めて首を振った。
そして涙目になった状態で俺を見た。
「もう……! そんな意地悪な事しないでちょっとはノってくれてもいいんじゃないの?! 私だって色々勉強してるんだからね! 日本のカップルがどこに行くとか! 何をしたらドキドキするかとか! 昨日だって夜中まで色々なことを勉強したのに……!」
「色々ってなんですか?」
「そりゃあ色々よ!」
訊くな! とエーリカさんはますます顔を真っ赤にした。
内容はともかく、その勤勉さだけは見上げた向学心と言えるだろう。
それなのにそれなのに……とエーリカさんは項垂れた。
「それでも独学では限界があるんだもん……日本のお祭りなんて行ったことないし」
如何にもしょんぼり、という感じでエーリカさんはしょんぼりした。
「ふーん。じゃあ、実物を見たほうがいいですよね」
俺が言うと、エーリカさんは頭の上にたくさんの『?』を浮かべた。
「今は何月ですか?」
「え……八月?」
「ということは、日本は夏祭りの時期なんです。そして、今度実際に近所の神社のお祭りが開かれるんですよ、エーリカさん」
俺が言っても、エーリカさんの綺麗な緑の瞳は目は相変わらずロンドンとパリをあべこべに向いたままだ。
俺はしゃがんだままのエーリカさんに手を差し伸べた。
「俺に幼馴染であるという記憶を刷り込むために、今度本当の夏祭りを見ましょう? そうしたらある程度しっかりした情報が得られて、俺の記憶も改竄しやすいはず――そうでしょう?」
俺が言うと、ロンドンとパリを向いていた瞳が真っ直ぐ前に戻った。
わぁ、とエーリカさんは歓声を上げた。
「その手があったわね! よし、じゃあ早速準備するわ! その祭りはいつなの!?」
「来週の土曜日ですね」
「やった! それじゃユカタ用意するから! あ! あと、ハラキリショーはやるのよね? カウナスのおばあちゃんに写真送りたい!」
「残念だけど、ハラキリショーはたぶんやってませんよ」
俺はそこだけは否定した。
エーリカさんはとてもがっかりしたように、なぁんだ、と下唇を突き出した。
◆
リトアニア――という国があるので、今ここで地図帳を広げ、その国の存在を地図上に見出してほしい。
地図の右上の方、まるで大口を開けた龍のようなスカンジナビア半島の付け根、広大なロシアの隣にひっそりと肩を寄せ合うように三カ国が連なった、所謂バルト三国の中の国だ。
俺はもちろん行ったことも住んだこともないが、昔は欧州一の大国だったこともあるという、小国であれども歴史の古い国だという。
首都ビリニュス、旧都カウナス、そして女神が砂を運んで創ったという海岸の都市クライペダ――歴史とお伽噺の融合したような美しい国、そして琥珀が名産である国――それが彼女、エーリカさんの祖国についての説明である。
エーリカ・キヨミ・古川さんは、そのリトアニア出身の十七歳、日本人のお父さんとロシア系リトアニア人のお母さんの間に生まれたハーフだ。
幾つもの米を掛け合わせると美味しいお米ができるように、実に三カ国分のDNAを受け継いだエーリカさんも美人で優秀だった。
彼女は十五歳までを祖国であるリトアニアの旧首都・カウナスで暮らし、お父さんの仕事の都合で日本に戻ってきて二年。
最初は辿々しかった彼女の日本語が確実にこなれてきているのは、ひとえに彼女が勤勉な性格であることと、俺の助力の成果である。
最初はその天使のようなエーリカさんの見た目が大分騒ぎにもなったけど、彼女にとってはあくまで母国語はポーランド語、日本語は両親が話す分しか知らない。
まるで水銀灯にまとわりつく蛾のように同級生たちはエーリカさんをちやほやしていたが、カタコトの日本語では意思の疎通があまり上手く出来ないことがわかると、途端に彼女を遠巻きにし始めた。
初めて住んだもうひとつの祖国で体験した、周囲と意思疎通が出来ないという経験――。
それはエーリカさんにはとてもショックな経験だったに違いない。
その苦労を想像していた俺は、ある日の放課後、エーリカさんが涙ぐみながら小学生向けの漢字ドリルをやっているのを見て――ついつい声をかけてしまったのだった。
それから、俺とエーリカさんは二人三脚で日本語の習得に励んだ。
母国語ではないとは言え、元々日本語の素養はあったから、二ヶ月もすると日常会話にはなんとか事欠かなくなってきた。
そうなると自然に口数や笑顔も増えて――エーリカさんの周りには再び自然と人が集まるようになっていった。
なにはともあれよかった――俺は少し離れたところでそれを見ていたのだったけれど、それがエーリカさんには非常に不満だったらしい。
「私に毎朝ミソシルの作ってください!」
二人の日本語レッスンの回数も少なくなり、もう打ち切りの雰囲気さえ出てきていた、ある日の帰り道のこと。
エーリカさんは突如、思い切ったようにそう叫んで、スーパーから買ってきた仏花の花束を俺に差し出した。
白や紫、黄色などが包まれた菊の花束を、震える手で差し出す、ブロンドで真っ白な肌のエーリカさん。
その顔は花束の中にあった鶏頭よりもなお真っ赤で、俺は戸惑うとか困るとかいう以前に、思わず吹き出してしまった。
エーリカさんにはハラキリする覚悟で挑んだ告白に対するその反応が非常に不満だったらしく、後で泣かれた。
泣かれはしたけど――その結果、どういうわけだか俺はこのエーリカさんと、ささやかながらお付き合いというものをさせていただくことにはなった。
だが――その後が大変だった。
俺の彼女というか、ガールフレンドになったエーリカさんは張り切った。
それもう、漢字ドリルを泣きながらひっくり返していたときとは根本的に異なるほどの情熱で、エーリカさんは日本の文化というものを異常な勢いで吸収し始めた。
そして、その吸収した知識の中に転がっていた単語――幼馴染という概念が、彼女の中の何かのボタンを思いっきり押してしまったのである。
それからなのだ――この可憐な美少女が、俺に幼馴染であった頃の記憶を捏造しようとし始めたのは。
そもそも、エーリカさんの中で「幼馴染」とは、絶対に終わりが来ない断金の仲、魂のパートナーであるというイメージがあるようなのだ。
彼女の祖国であるリトアニアにそういう発想があるのかは知らないが、とにかく彼女はその「幼馴染」という発想に異様に固執した。
いや――固執するどころか、「日本では幼馴染でなければカップルになれない」という厄介な早合点をしてから、雲行きは更に怪しくなった。
当然、俺とエーリカさんが初めて出会ったのは十五歳の時なわけで、幼馴染ではないわけで、その事実が彼女を追い詰めたらしい。
それからというもの――彼女は俺の隙を窺っては、ありもしない「幼馴染としての記憶」を捏造しようとするようになった。
三歳の頃KGBの残党に誘拐されただの、五歳の頃一緒に小舟で海へ出て十日間遭難しただの、七歳の頃に教会で結婚する約束を交わしただの……。
最初は、よくぞこんなに思いつくなぁと関心するほどヘンテコでツッコミ所の多い捏造記憶が多かったのだが、最近ではそれでも結構リアリティが増してきた方だ。
特に今日さっきの捏造記憶は「夏祭り」を舞台に、「男子高校生は女子の浴衣姿にグッと来る」「金魚すくいに夢中になると可愛い」「ゴニョゴニョする時は神社の裏手に行く」という、妙に詳細なディティールを持っていた。
まぁ、確かにカスピ海産の金魚やニンジャのハラキリはおかしかったけど――。
それさえなければ確実に要点を衝く内容になってきていて、油断すれば俺もついつい「そうだったかな……」と思わされたに違いない。
どうもエーリカさんはその巧みなインターネット検索技術を用い、いろんなもの、それこそ彼女がひと目見たら赤面するに違いない「そっち方向の」知識も一年かかって相当に吸収しているらしいのだ。
これは遠からず俺も「そうだったねぇ」と言わされる日が近いかも知れない――。
そんな事を考えながら、俺は自宅のベッドの上で真っ赤になったエーリカさんの顔を思い浮かべていた。
◆
「これが日本の祭りなのね……!」
エーリカさんは顔を輝かせ、辺りをキョロキョロと眺めている。
あまり広いとは言えない神社の境内には、それでも色とりどりの屋台が出ていて、そこから吐き出される熱気、人々の歓声、発電機の耳障りな稼働音が一緒くたになって、これぞ祭りといえる雑多な空気を醸成している。
初めて見るのだろう縁日の風景に包まれ、エーリカさんはまるで圧倒されたかのようにその光景の中に入っていこうとする。
「凄い……なんだか夢の中にいるみたい……」
ほう、と、エーリカさんは頬を桃色に染めて恍惚のため息をついた。
「確かに――そうだね」
言葉少なに同意しながら、ちら、と俺は頭一つ分は背の低いエーリカさんを見た。
どこからどう都合をつけたものか、白地に紫陽花柄の浴衣を着て、赤い鼻緒の草履を履き、髪を大胆に結い上げたエーリカさん。
そしてその背景には、工事現場用のハロゲンライトに黄色く照らし出され、モノの輪郭が曖昧になった縁日の風景が広がっている。
なんだかその姿は、よく出来た人形が命を得て歩いているようにも、お伽噺の世界のワンシーンにも見えて、幻想的であまり現実感がなかった。
熱に浮かされた顔であちこちをふらふらと歩くエーリカさんは、そのとき、言葉通り――間違いなく夢の世界の住人だった。
「あ、金魚すくい!」
――と、エーリカさんの顔がパッと輝いた。
見ると、お好み焼き屋の隣に金魚すくいの屋台が出ていて、小学生ぐらいの子どもたちが群がっている。
思わず駆け出したエーリカさんの後を追って、俺も金魚すくいの屋台に近づいた。
子どもたちの間にしゃがみ込み、色とりどりの金魚をしばらくじーっと眺めたエーリカさんは、急に背後の俺を振り返った。
「ねぇウレシノ君! これって飼えるのかな?」
なんて楽しそうな表情――。
その表情になんだかわけもなく胸を衝かれたように感じた俺の脳裏に、ふと、エーリカさんの声が木霊した。
『――そのとき私が金魚すくいを見つけて、どうしてもやりたいってあなたにせがんだのよね?』
一週間前に聞いた、エーリカさんの捏造記憶と、それは同じ光景だった。
一瞬、自分がタイムスリップしてしまったかのような感覚に、頭が揺れた。
今は何月何日だ? 俺は何歳だ?
俺は一体この少女と何年一緒にいたんだ?
俺はあと何回、この少女と一緒の光景を見れるんだ――?
「ウレシノ君――?」
心配そうな声が聞こえてきて、俺は我に返った。
慌てて俺は頷いた。
「――ああ、大丈夫じゃないかな」
やったぁ! と快哉を叫んで、エーリカさんは嬉々としてお金を払い、洗濯バサミで挟まれたモナカを受け取る。
エーリカさんはそれを右手に持ち、屈託なく水の中につき入れて逃げ惑う金魚を追った――。
『とても嬉しかったけど、私は頑張りすぎて浴衣の袖が濡れちゃったのよね。私ったら昔からそう。集中すると周りが見えなくなっちゃうから――』
再び、目眩のような感覚を覚えた。
エーリカさんが着た浴衣の裾が水槽の濡れて、そこから水が滴っている。
それも――エーリカさんが捏造しようとした記憶と同じ光景だった。
「ああっ、ダメ……! あうう、溶けちゃった……」
エーリカさんの悲鳴に、俺はまた我に返った。
むぅ、と頬を膨らませて、エーリカさんは水槽の中に落ちたモナカを恨めしそうに見ている。
そのむくれっ面を見て、タオルで向う鉢巻をした金魚すくいのおじさんがガハハと笑った。
「そりゃ姉さん、水の中につけてそんな動かしたらモナカは溶けちまうさ! ――って、おい、そんなに死にそうな顔するなって。一匹生きのいいのをおまけしたるからさ」
そう言うなり、おじさんは網杓子で赤い金魚を掬って袋に入れ、ほれ、とエーリカさんに差し出した。
それを受け取ったエーリカさんは、わぁ、と子供のように声を上げ、小袋に顔を近づけて金魚を見た。
『店のおじさんが、ガッカリする私に呆れて、金魚をオマケしてくれて――そのうちに祭りのフィナーレが始まった』
――また、捏造記憶と一緒だと思った、その瞬間。
ひゅるるるる……という音が聞こえて、その場にいた全員が一斉に空を見上げた。
どん……と、内臓を揺さぶるような炸裂音が降ってきて、ぱらぱら……と夜空に光の粒が散った。
祭りのフィナーレ――午後八時三十分から始まる打ち上げ花火が始まったのだった。
「Fajerwerki――!」
エーリカさんがとてもいい発音のポーランド語で言い、立ち上がってふらふらと歩き出した。
まるで一歩でもその光に近づこうとするように、エーリカさんは次々に打ち上がる花火を見上げたまま、人の波を縫って俺から離れていく。
一瞬、俺は、目の前の光景がどこから夢で、どこから現実なのかわからなくなった。
目を瞬き、俺は視界に広がった薄い靄のようなものを視界から追い払おうとした。
そうする間にも、自分がなにもわからない空間に裸で放り出されたかのような、不安感と焦燥感は強くなって、気分が悪くなってきた。
目の前に広がる光景も、その中に佇むエーリカさんも――ただ綺麗なだけではなかった。
存在そのものが、なんだか危うげで、今にも目の前の光景に溶けてしまいそうに感じた。
エーリカさんが、幻想に吸い込まれて、溶けて、なくなる――そうなればもう二度とエーリカさんには会えないのではないかという気がした。
怖かった。
俺は咄嗟に、人混みに消えていこうとするエーリカさんを引っ張って戻そうとした、その途端――。
「あっ――!」
エーリカさんの身体が、危険な角度に傾いだ。
俺が咄嗟に右手を掴んで転倒を防いでやる。
「――どうしたの? 大丈夫?」
「だいじょうばない……」
エーリカさんがしょんぼりと言った。
見ると――エーリカさんの履いていた草履の赤い鼻緒が片方切れていた。
よくよく見ると、草履の裏で鼻緒を留めている結び目が解けて、穴から抜けてしまったようだ。
これならまた穴に鼻緒を通して結び目を作れば応急処置にはなる。
「大丈夫だよ、エーリカさん。これなら直せると思う」
「え、本当?」
「直せるとは思うけど――ちょっとここでは人通りが多いな」
俺は辺りを見回した。
どうにもここは人通りが多く、草履を直すのには具合が悪い。
かと言って、神社の周辺には隙間なく人がいて、落ち着いて作業ができそうな場所は見渡した限りでは多くなかった。
『そしたら履いていたヒールの踵が折れてしまって――私を背負って神社裏に行こうと言い出した』
ダメだ、それだけはダメだ。
俺は頭からエーリカさんの声を振り払った。
それは捏造された記憶で、俺が体験したことじゃない。
しかも履いているのはヒールではなく草履だ。
とどめに、その先が決定的にマズい。
神社裏に行った俺たちは、その後――。
「あの……ウレシノ君」
エーリカさんが、ちょっと無言になっていた俺の顔を覗き込んできた。
エーリカさんは少し気恥ずかしそうに、ごくっと唾を飲み込んだ。
「神社裏――あそこなら、たぶん人は来ないよ?」
ハラキリ覚悟の一言だったのは――その表情を見ればわかった。
だってその時のエーリカさんは、仏花の花束の中の鶏頭よりも、右手に持った金魚よりも――なお真っ赤だったからだ。
俺は無言で背中をエーリカさんに差し出した。
エーリカさんはおっかなびっくりという感じで、俺の背中に体重を預けてきた。
「ちょっと揺れるから――しっかり掴まってくださいね」
俺がそう言うと、うん、とエーリカさんが蚊の鳴くような声で頷いた。
◆
神社の本殿の裏手は――暗かった。
暗かったから、誰もいなかった。
俺は近くにあった朽ちかけたお堂に近寄り、エーリカさんを降ろした。
エーリカさんはお堂の階段に腰を下ろし、親指にぶらさがったままの草履を俺に向かって差し出してきた。
俺はなるべくエーリカさんの足に触れないように留意しながら、親指から草履を外した。
暗闇に目が慣れてくると、だんだんモノの輪郭がはっきりしてきた。
俺は外れてしまった草履の鼻緒を指先で細くよじって、穴に突っ込んだ。
ふたりとも――無言だった。
ふっくらと弾力ある鼻緒は、なかなか素直に直ろうとしてくれない。
早く終わらせようと躍起になるほどに手が震え、作業は捗らない。
「ねぇ、ウレシノ君。覚えてる? ――私たちが七歳の時よ」
不意に――伏せたままの後頭部にエーリカさんの声が降ってきた。
俺は答えることも、顔を上げることもなかった。
「私とあなたは近くの神社で待ち合わせをしてお祭りに行ったのよね。そこらじゅうで電飾が輝いていて、とても綺麗だった……」
俺は黙々と手を動かした。
「そのとき私が金魚すくいを見つけて、どうしてもやりたいってあなたにせがんだの、そのとき、浴衣の袖が濡れちゃったのよね。私は集中すると周りが見えなくなっちゃうから――」
そのか細い声が、まるで魔法のように頭を締め付けた。
エーリカさんの声が、体温が、香りが、俺をありもしない過去と、これから起こるかもしれない未来の間に引きずり込もうとしていた。
「水槽の中には小さな金魚がたくさんいて――私はそれを必死になって狙ったけど、獲れなかった。凄く悔しくて……店のおじさんが呆れて金魚をオマケしてくれた。――そのうちに祭りのフィナーレが始まった。花火よ。覚えてる? とても綺麗な――」
どん、ぱらぱら……と、再び夜空に花火が弾けた。
一瞬だけ、エーリカさんの白い足を照らし出した花火は、けれども数秒後には闇夜に吸い込まれるようにして消えた。
「そしたら、履いていた草履の鼻緒が切れてしまって――あなたは、あなたは、私を背負った。神社裏に行こう、あそこなら人が来ないからって――私が言ったの」
ごくっ、と、エーリカさんが唾を飲み込む音が、やけに大きく響いた。
「ねぇ、その先のことは――覚えてる?」
エーリカさんの声が、震えた。
はっ、はっ……と、エーリカさんの呼吸が浅くなっているのがわかった。
「ああ、もちろん――覚えてる」
俺は遂に白旗を上げる決意をした。
闇夜にぼんやり浮かび上がる、エーリカさんの白い右足に手を伸ばす。
途端に、びくん! と、エーリカさんの身体に力が入った。
エーリカさんがぎゅっと目を閉じた。
俺は、エーリカさんの足を手にとって――。
――修理が済んだ草履を穿かせてやった。
え? と、エーリカさんがびっくりしたように俺を見た。
俺は静かに言った。
「その後、草履を直した俺たちは、何事もなくお互いの家に帰って、ぐっすり眠ってパッチリ起きて、そしてあくる日には一緒にホームセンターに金魚鉢を買いに行って、元通りの二人に戻った――そうでしたよね?」
その言葉に――。
エーリカさんが一瞬、ぽかんとしたような表情を浮かべた。
ほとんど銀色に近い金髪も。
賢そうなおでこも。
緑色の瞳も。
白い足も。
全てが――止まった気がした。
その直後、エーリカさんの目からぼろぼろと大粒の涙が溢れ出した。
「エーリカさん――!」
「ちっ、違うもん! そんなの――違うもん! 私たちは――オサナナジミだもん! なんで、どうしてそんな酷いこと言うの――!?」
エーリカさんは激しくしゃくりあげながら、違う違うとかぶりを振った。
ハラキリ覚悟――彼女の精一杯の頑張りと覚悟を、俺はまたフイにしてしまった。
「どうして思い出してくれないの!? 私がオサナナジミになるのがそんなにイヤなの!? 私、ただウレシノ君と一緒にいたいって、これまでもこれからもずっと一緒だって、ただそれだけなのに――!」
「大好きだよ、エーリカさん。これからもずっと一緒にいてください――」
その一言に、エーリカさんが雷に打たれたかのように硬直した。
俺はその不思議な色の瞳から視線をそらし、あーあ、思い出しちゃったな……と頭を掻いた。
「ああそうだ――この言葉を忘れてました。あれは俺たちが七歳のときの、夏祭りの日でしたね。俺は初めてエーリカさんにちゃんと自分の思いを伝えることができた。教会ではなく、神社の裏手だったけど――俺はあなたが大好きで、これからもずっと一緒にいてほしいと――勇気を振り絞ってあなたに伝えたんでしたね?」
覚えてますよね? と俺は念を押した。
ぶわあっ、と、エーリカさんの顔が赤くなった。
「あれ――違ったかな?」
「違わない違わない! そうそう、そうだった!」
エーリカさんはボロボロ泣きながら、大いに慌てて首を振った。
首を振るたび、涙がちぎれ飛んで、俺の顔にかかった。
「やっと――やっと思い出してくれた! 私たちはオサナナジミ、そうよね!?」
「そうだったかも――しれないですね」
俺は苦笑しつつ、遂に観念した。
やったぁ! とエーリカさんは手を叩いて喜んだ。
「いい、ウレシノ君! オサナナジミはずっと一緒にいるし、これからもずっと一緒にいるの、そうでしょ!?」
「そうですね」
「いつかお互いのことが嫌いになっても離れられないし、オサナナジミはずっと終わらないの!」
「そうですね」
「ずっと、ずっと一緒っていうこと! そうよね!?」
「その通りです」
わぁ、とエーリカさんは、天使のように屈託なく笑った。
俺は今更ながらに恥ずかしい気がしてきて、さて、と立ち上がった。
「じゃ、エーリカさん。祭りもそろそろ終わります。帰りましょう」
うん! と元気よく頷いたエーリカさんは、ぴょん、と階段から降りた。
そして――がら空きの俺の左手を、小さな両手で包み込むように握った。
え? と俺がびっくりしてエーリカさんを見ると。
エーリカさんは得意げに小鼻をひくつかせた。
「何、その顔? 祭りが終わったあと、七歳の私たちは手をつなぎながら帰ったのよ? オサナナジミなのに忘れちゃったの?」
自信満々の渾身のドヤ顔に、俺も思わず笑ってしまった。
そうだね、そうだったね――と頷いて、俺はエーリカさんの手を引いて歩き出した。
歩き出すと――エーリカさんは一週間しか生きられないセミのような勢いで、ウキウキと話し始めた。
「あと、あれは八歳の時ね! 夏祭りの夜に永遠の愛を誓いあった後、あなたはこの神社で結婚式を挙げようって言い出したの!」
「そうだったね。懐かしいなぁ」
「そのときはまだ結婚できない年齢だったけど、そんなの関係ないもんね! オサナナジミだもの! 私はカウナスにいたおばあちゃんも日本に呼んであなたと結婚式を挙げようとしたの! 覚えてるでしょ?」
「そうそう、若気の至りだねぇ。恥ずかしいなぁ」
「でもそこからが大変だったの! 結婚式の最中にニンジャの軍団が襲ってきて、私は攫われちゃった! 悪のニンジャは嫌がる私のウエディングドレスを無理やり脱がして、新郎であるあなたの前であられもないあんなことやこんなことを初めて……!」
「その記憶はないです」
ガヤガヤと騒ぎながら、俺たちは再び夏祭りの夜に戻っていった。
思い出したように打ち上げられた花火が、どん、ぱらぱら……と夜空に弾けて、俺たち幼馴染を一瞬だけ照らし出した。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
いっぺんガッツリ幼馴染ものをやりたくてやってしまいました。
ちなみに、リトアニアというは非常に歴史が古く、キリスト教以前の文化・宗教がいまだ息づく、まるで異世界ファンタジーそのものの国です。
一度この国を取り扱った小説を書きたいと思っていましたが、こういう感じになりました。ほとんどリトアニア要素ないけど。
もしこの作品を気に入っていただけましたら、
下の★★★★★から是非評価お願い致します。
よろしくお願い致します。
【VS】
もしよければ、これらの作品もよろしくお願い致します。↓
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