9 怪力女傑、一大決戦に勝利をもたらす
戦場を、沈黙が支配した。
150年前の伝承に語られし常勝無敗の将軍「神の剣」ハーリド・アル=ワーリド。彼が一騎打ちにて敗れた。
スクル教徒であれば、アルバス帝国の民であれば。信じがたい悪夢のような光景であったろう。敵だけでなく、味方の中東騎士たちですら、どう反応していいか分からず硬直してしまっている。
よくよく見れば、わたしの放った鉄拳によって落馬した将軍の姿が、徐々に獣じみた醜いものに変わりつつある。敗北した以上、この場にいる誰もが彼を「ハーリド」だと認識できなくなったのだろう。アンジェリカの妨害の魔術の成果もあり、文字通り化けの皮が剥がれつつあるのだ。
その変化を見てとり――わたしは場の空気を一変させるべく、声高に叫んだ。
「見よ! この者は、お前たちが英雄と仰いだハーリド将軍などではない! 喰屍獣が化けていたのだ!
150年前の英雄譚に語り継がれし伝説の『神の剣』の名を騙ったに過ぎないッ!」
確かに彼は偽者であり、皆の心にある無敵の将軍の名を利用した、度し難き怪物だ。彼がかつて、帝都マディーンでハール皇子に化けていなければ……わたし達は流浪の旅などに出ずとも済んだのかもしれない。
しかしながら……この戦い自体は決して嘘ではない。アグラマンやわたしとも互角以上に戦い、全力を尽くしてなお危ういほどの難敵だった。わたし自身としては、素晴らしい戦いを体験できたことにむしろ感謝しているのだが……この場を収めるには、これしかなかった。
無敵の「ハーリド」に、敗北などあり得ない。だから「こいつは偽者だ」。
そう言わなければ、敵軍はおろか自軍の者たちですら納得せず、暴走しかねないのだ。
「そんな……そんな……! 俺たちを率いていたのは……喰屍獣……だと……!?」
「し、しかし冷静に考えてみれば……150年前の人物が今も生き永らえているハズがない……何故そんな簡単な事に、今まで気がつかなかったんだ……!?」
敵側からも正気を取り戻したと思しき声が漏れ聞こえる。気がつけば喰屍獣の王から漂っていた奇妙な紫色の炎も弱まっている。この場にいた者たちへの洗脳も解けかけているのだろう。
とはいえ……それでもなお、この勝敗に納得のいかない者も、わずかばかりいた。
「くそ……なぜこんな事に……元はと言えば、あの男だ。ハンスと言ったか?
あいつがあの女に、化け物馬を引き渡したりしなければ……!」
「そうだ。敵に塩を贈る真似をしやがって! 奴を探し出して殺せ! この敗戦の落とし前をつけさせねばならん……!」
まさか奴ら、我が従者を害するつもりか。
敵軍は統率者を失い、隊列も乱れはじめている。もともとハーリド将軍ひとりのカリスマだけで保っていたようなお粗末な寄せ集めの軍隊だ。このような無秩序な状態こそが最も危険であり、敗走する兵たちはもっとも死の危険が大きい。ましてや味方に裏切り者として追跡されるなどとなれば……
わたしは疲弊しきった身体に鞭打って、かつての従者を救出しに向かおうとした。
多勢に囲まれているハンスの姿が見えたが、距離が遠すぎる。よしんば彼の下までたどり着けたとしても、ハーリドとの激闘を経た後のわたしの身体がいつまで保つか。
「……マルフィサちゃん、気が逸ってるわ」
ふと背後から声をかけられ、肩を掴まれた。
「アグラマン! 怪我はもういいのか?」
「アナタの方がよっぽど重傷でしょうに……
まァお陰様でね。アンジェリカちゃんの応急処置が良かったみたい。
武器を思いっきり振るうのは難しいけれど、軍の指揮を執るぶんには何の問題もないわ」
アグラマンはそう言いつつ、ずいとわたしの前に出た。
「頼む、アグラマン。行かせてくれ」
「そういう訳にはいかないわ。ハール皇子もアナタの身を案じている。これ以上、無理な行動をさせる訳にはいかない。
いくらマルフィサちゃんでも本当に死ぬわよ?」
「しかしッ……!」
「アナタの従者、ハンスちゃんなら……あれを見て。少しの間だけなら保つわ」
彼の指さした先を見ると、多勢に無勢のハンスをいち早く庇う、巨漢の騎士の姿があった。喰屍獣のグレグだ。傷だらけになりながらも、数人の中東騎士を相手取り、獅子奮迅の大立ち回りを見せている。
「グレグ……!」
「マルフィサちゃんはよくやったわ。偽者が化けていたとはいえ、あの伝説のハーリド将軍を一騎打ちで破ったんだから。アナタがいなければ、この戦いはどう転ぶか分からなかった。
ここから先は、軍と軍との戦い――といっても、ほとんどもう追撃戦みたいなモノだけどねェ。
だから今は少しの間でもいいから、休んでなさい。あとはアタシ達に任せてくれるかしら?」
口惜しいが、確かにわたし一人だけでやれる事など限られている。
今はアグラマンの言葉に従うべきだろう。わたしの心に理性が戻るにつれ、内なる炎の魔神の力も鎮まりつつあった。
「……分かった。その言葉に甘えよう。助かったよ、アグラマン」
「お礼はこの戦いが終わってからでいいわ。さァみんな! 最後の一仕上げと行くわよォ!!」
アグラマン麾下の中東騎士は、指揮官たる彼の呼びかけに応じ、一斉に鬨の声を上げ――敵陣に突撃していった。
***
その後の戦いは、一方的なものになった。
敵軍は総大将が敗北した事が伝わると、我先にとバラバラに敗走していく。しかし小川を渡河した直後だった事と、大軍であった事が仇となり、逃げ出そうにも遅々として進まず、あちこちで渋滞が発生した。彼らは散々に打ち破られたが、中には味方に踏み潰されて死亡する者さえいた。
「一時はどうなる事かと思ったけれど、何とかなったわね」
自軍を指揮していたアグラマンが、安堵の溜め息をついた。
「ハーリド将軍に化けていた喰屍獣も捕える事ができたし、彼を尋問すれば帝都の情報を聞き出せるでしょう」
敵がいなくなった戦場で、わたしはハンスを庇ったグレグの下へ駆け寄った。
乱戦の中、彼はひどい手傷を負っており、地面に横たわっている。すでに喰屍獣としての変身能力も保てなくなっているのか、血とともに獣毛があちこちに浮かび上がっていた。
「グレグ、しっかりしろ」
「へへ……マルフィサの姐さん。最後の最後であっし、少しは役に立てましたかねえ……?」
「ああ、もちろんだ。お前のお陰で喰屍獣の王が敵に化けている事を知れたし、ハンスも助かった。
お前もきっと助かる。傷が癒えた時は、またお前の下手くそな盗賊詩人の歌を聴かせてくれ」
思わずそんな事を口にしたものの――グレグの傷の深さはすでに、手遅れと言わざるを得なかった。彼の「魂の炎」も弱々しく消えかかっており、ドス黒い死の色に染まりつつある。中東最高の名医でも、アンジェリカの治療魔術でも、救う事はできないだろう。
「……いいんですよ。あっしは喰屍獣だ。敵の総大将に化けた怪物と同じ種族じゃ……皆の視線も冷たいでしょうし」
「そんな事はない。わたしが説得する」
「ありがとうございやす。でもね姐さん。あっし今、けっこう満ち足りてるんですよ。
常日頃思ってました。もし死ぬんだったら、あっしが惚れた女の腕の中で死にたい――その願いが今、叶ったんですからね」
「…………グレグ」
「痛みもありませんや。むしろ心地良いくらいで、して」
もはや痛覚すら消失してしまっているのか。
「姐さん。どうか、帝都にいる侠族の、カシムとサーラを、頼み、ます……」
カシム。帝都南部のスラム街に住んでいた、ハール皇子に協力していたリーダー格の少年のことだ。もう一人の「サーラ」というのが、誰かは分からないが。
「……分かった。安心しろ」わたしは手を握り、力強く答えた。
グレグの言葉は途絶え……そのまま動かなくなった。
最初に出会った時は、粗暴なお節介焼きぐらいにしか思わなかった男だったが。振り返ってみれば、帝都マディーンを脱出した際にも、そして今回の戦でも大いに助けられた。彼にしてみれば「命を救ってもらった恩返し」と答えるかもしれないが。
ハンスは気絶こそしていたものの、救出され治療を受け、どうにか一命を取り留めた。グレグが命を賭してくれたお陰だった。
わたしはグレグの死を悼み、密かに他の戦死者たちと共に、彼の遺体も弔う事にした。
***
一大決戦に勝利した翌日。
ハール皇子は自軍の前で演説を行った。
「皆が尽力してくれたお陰で、神は我らに加護と勝利をもたらしてくれた!
こたび敵として戦う事になった者たちも、元は同じアルバス帝国の民である。
我が兄ムーサーはこの私、ハールーン・アル=ラシドに無実の罪を着せ、同胞をいたずらに扇動し、血を流させた!
私に帝国への翻意など微塵もないが……事ここに至っては、帝都マディーンへ向け進軍し、兄の真意を問いたださねばなるまい。
未だ帝都で苦しんでいる同胞たち、そして囚われし我が母ハイズラーンを、お救いするためにもッ!」
『おおッ!!』
『ハールーン皇子に、神の恩寵あれ!!』
倍の数を擁した討伐軍を撃破し、勢いを増した今。わたし達が目指すは、アルバス帝国の帝都マディーン・アルザラーム。
あれから二週間近くの行軍が続き、「母なる大河」エウプラテス川を渡り終え、とうとう巨大な帝都の姿が目に映った。
かつて訪れた時とはまるで違う――奇妙な瘴気とでも呼ぶべきモノが、百万都市の全域を覆っている――そんな錯覚にすら陥ってしまう。
「いよいよね、フィーザ」魔法少女のアンジェリカが感慨深げに呟いた。
「……ああ。白仮面がどんな罠を張り、待ち構えているか分からないが。
頼りにしているぞ、アンジェ」
「まーかせて!」
わたしにとっても、ハールにとっても、そしてアンジェリカにとっても――因縁の敵にして、今回の事件の全ての発端――邪悪なる魔術師白仮面と最後の決着をつける時が、間近に迫っていた。
(第七章 了)




