8 怪力女傑、酔魔(アエーシュマ)と戦う
今回、やや過激な流血描写がありますので注意。
「我が言葉に賛同する諸君! その酒は、私からのせめてもの心配りだ。遠慮せずに飲んでくれ!」
演説していた男は、おもむろに杯を高く掲げた。
「ちょっとアンタたち! その酒に口をつけちゃダメ!」
人々が酒を飲み干そうとしたとき――甲高い少女の声が響いた。
皆が振り向き、注目する先には……十二歳前後の、金髪で色白の、赤い衣服をまとった少女。
「ん? あの娘は……」
「知り合いか、マルフィサ?」
「ええ。昨日の昼に出くわした事が。名前は確か、アンジェリカ」
「アンジェリカ……アンジーか。うーん……悪くはないし、あと十年もすれば、とびきり美人になりそうだけど。僕はお子様には興味ないなぁ」
ハール皇子の場違いな感想。好色な皇子さまらしく、とんでもなく上から目線である。
そんな話をしている場合ではないので、わたしは無視する事にした。
「あん? なんだァ……お嬢ちゃん。まさかとは思うが、そんなナリでスクル教徒か? 『禁酒』の戒律を守れってか?」
「違うけど……その酒はヤバいものよ。ここ最近の魔物事件とも関係があるんだから!」
「はっはっは、何を言い出すかと思えば! どこにそんな証拠があるよ?」
「……それは、その……!」
「なら黙ってな。ここは大人の酒場だぜェ? 子供は帰ってネンネしな」
途端に人々から笑い声が上がる。まあ、当然の反応だろう。
わたしが割って入る事もできるが、いかんせん人数が多すぎる。この場の全員の飲酒を未然に防ぐなど不可能だ。
アンジェリカの言葉に耳を傾けた者はごくわずかで、ほとんどの人々は構わず杯をあおった。
演説していた男の顔がニヤリと笑う。変化はすぐに起こった。周囲から不穏な空気が漂い始めたのだ。
「うう……許せねえ……やっぱあいつらは許せねェ!」
「てめェ何ガンくれてんだ! ブッ殺すぞ?」
「上等だコラァ! 気に食わねえってんなら決着つけたらァ!」
酒を飲んだ聴衆は、いつにも増して暴力的になり……周囲の人間と諍いを起こし始めた。
単なる悪酔いで片付けられなくもない事態だが、それにしては早すぎるし、酔った人々の行動は常軌を逸している。些細なきっかけで、たちまち殴り合いの喧嘩に発展してしまった。
「な、何だこいつら。いくら酒に酔ったからといって、揃いも揃って幽精憑きになったみたいに……!」顔をしかめるハール。
それだけではない。酔っ払った聴衆の中には、明らかに獣じみた剛毛を生やした者も何人か混じっているのだ。
「妙な連中だ。喰屍獣にしては中途半端だな……?」わたしも首を傾げた。
「くっくっく。いいぞ。争え……もっと争え……!」ここまで只ならぬ事態になったというのに、演説した男は悦に浸って勝ち誇っている。
「この症状……アンタ、酔魔の酒を飲ませたわね……!?」唇を噛むアンジェリカ。
酔魔。わたしも聞いた事がある。アルバス帝国の大多数を占める民族・パルサ人の神話に伝わる、酒に酔って暴行するという悪魔の名だ。
「ほう、知っているのか。ガキのくせに、多少は魔術の知識があるようだな」男は蔑むように笑った。
「酔魔の酒は、飲ませれば狂暴になるが、それだけではない。人を殺めた事のある者が飲めば、その数に応じて酔魔に近づき、やがて本当の化け物に成り果てるのだ!
まァだが気に病む事はあるまい? 下層民のクズどもなど、何人死のうが障りないではないか」
余裕ができたのか、謀が成功し気分がいいのか。あっさりと下種な本音を吐いたものだな。
「聞いたかマルフィサ! 奴は今この瞬間、大悪党に大決定だ!
アルバス帝国皇子ハールーンの名において命じる! マルフィサよ、こいつをひっ捕らえろッ!」
……ハール皇子。いきなり身分バラして声高に言い放つか、普通……?
突然の彼の宣言に、男はおろかアンジェリカまで硬直し、目を丸くした。わたしの存在にも気づいたようだ。
「……フィーザ……? アンタなんでこんな所に……
それにその隣にいる、生意気そうな子供が……もしかして、ラシド皇子……?」
ハールとアンジェリカは、お互い不思議そうな顔をしている。
「ちょっと待て。僕は君と面識はないハズだが……なんでその名を知ってる?」
「ウッソでしょ……身なりも粗末だし、イメージぶち壊しなんですけど!」
「誰が子供だっ!? 随分失礼な物言いだな! この格好だって変装してるに決まってるだろ!
それに少なくとも君よりはずっと大人だぞ、僕はっ!」
酒に酔った人間たちがあちこちで取っ組み合いをしている時に、ハールとアンジェリカは呑気に言い争いをしている。ちょっと緊張感がないんじゃないか?
「あの男が事件の首謀者っぽいから、捕らえる事はやぶさかじゃあないが……
今はまず、安全な場所に避難した方がいいと思うが。酔っぱらいの喧嘩に巻き込まれるぞ」
「それなら心配要らないわ! この偉大なる魔法使い・アンジェリカ様に任せなさーいっ!」
魔法使いの少女は、薄布を広げつつ――舞うような動きを見せた。心なしか、彼女を中心として心地よい香りが漂ってくる。
これも魔術のひとつだろうか。やがて彼女の周辺で争っていた者たちの動きが止まり、呆けたような顔になってその場に突っ伏していく。
「なッ…………小娘、いったい何をした!?」演説の男が狼狽した。
「ふっふん! 酔い覚ましのお香を炊いたのよ! 酒の毒気を抜きさえすれば、気持ちよく眠らせてあげるわっ!」
「おのれ……者ども! 一斉にかかり、あの小娘の踊りを封じろッ!」
男が命令すると、まだ酒を抜かれていない者たちが振り返り、アンジェリカに向かって殺到してくる。
「え。一度にそんなたくさん来たら……やばっ」
さしもの魔法少女も、この場にいる全ての人間から酒を抜くのには多少時間がかかるらしく、焦りの表情を浮かべた。が――
「女の子ひとりに、よってたかって掴みかかるなんて……無粋な男はモテないよ?」
意外な事に、アンジェリカを守ったのはハール皇子だった。護身用の短刀を抜き放ち、敵を傷つけず寄せつけず……細やかな戦い方である。彼が時間を稼いでいる間に、アンジェリカの香が効き始めたのか、連中は次々と力なく倒れていく。
思った以上に、二人はよくやってくれていた。最悪の場合、二人を護衛するのにかかりきりになるのも想定していたが――ごく少数の獣化しかけている輩を、先んじてブチのめすだけでいい。これで遠慮なく、事件の首謀者を叩きのめせるというものだ。
「どうやらお前の計画は失敗のようだな。観念したらどうだ?」
「うぬぬぬ……かくなる上はッ!」
演説の男は勝ち目がないと見て、酒場の外へ駆け出していったが――突如、その身体は横薙ぎに引き倒された。
一瞬、一撃の出来事。暗くなった地面に、黒ずんだ血だまりが広がっていく。逃げた男を引き裂いたのは、大人の背丈の倍ほどもある、黒く醜い翼の生えた歪な獣。おそらく先日、公衆浴場前でわたしを襲った化け物と同一の存在だろう。
「そんなッ……こんな巨大で不吉な酔魔、見た事ないわ……」
アンジェリカは青ざめつつも、悔しげだった。
「どれだけの人間を殺めて血を啜れば、ここまでの存在になるってのよ……!」
ぐるるうるるる……
眼前の怪物――酔魔は不気味なうなり声を上げ、口元から鮮血を滴らせた。あちこちに転がる「残骸」から、すでに何人か犠牲になった事が分かる。
「コイツを元の人間に戻す方法はないのか?」
「ダメね。一度でも生き物の血を啜った酔魔は……二度と人間には戻れない」
「そうか。なら倒すしかないな」
ずい、と前に出たわたしを見て、アンジェリカは血相を変えて止めに入ろうとした。
「……! ちょっとフィーザ、無茶よ!」
「心配無用だ。ああいう手合いには慣れている」
次の瞬間、酔魔は弾かれるように動いた。
「!? 速ッ――」
風鳴りだけが響く。凄まじい速度だ。素人目には一瞬消えたように映っただろう。
しかもその動きはフェイントだった。まっすぐわたしに向かってくると見せかけて、屋台の天井を蹴り方向転換。その牙の狙いは……少女の細い首筋!
予想外のスピードだったのか、アンジェリカは戸惑うばかりで、咄嗟に反応できない。
がぎんっ、という鋭い音がして――怪物の乱杭歯は、わたしの左手甲に遮られていた。
(なかなかの動きだが……アグラマンに比べれば、遅い!)
わたしは怪物の首根っこを掴み、締め上げる。そして間髪入れず、雄叫びを上げて地面に引き倒した。
血と涎を撒き散らし、耳障りな咆哮を上げ抵抗する酔魔。
「ふんッ」
体格も重量も相手の方が遥かに上だ。手加減していてはこちらが殺られる――そう確信したわたしは短期決戦のため、あらん限りの力を両腕に込め、酔魔の頸椎を外した!
グキリと骨の砕ける音と共に、怪物の全身から力が抜け――ピクリとも動かなくなった。
「……ウッソでしょ……」アンジェリカはわたしの戦いぶりに驚いたのか、口をぱくぱくさせていた。
「普通、あんなデッカい酔魔の牙を素手で受け止めたりなんかしたら、腕ごと千切り飛ばされるわよ!?」
「並みの人間だったらな。あいにくわたしは、そんなヤワな鍛え方はしていない」
「いやいやいやいや! 鍛えてどーにかなるレベルな訳ないし!? それにあんなぶっとい獣の首、ヘッドロックでねじ切るとかあり得ないし!? どんだけ怪力なのよアンタ! 実はホントは男だったり!?」
「一緒に公衆浴場にまで入っておいて、その言い草はないんじゃないか?」
やれやれ。男女で筋力の差はもちろんあるが、それ以上にモノを言うのは体捌きや力を入れるタイミングなのだが。
彼女は魔術や魔物には精通していても、恐らく格闘技や体術の心得はあるまい。口で説明しても納得はしてくれないだろう。
「え? きみ達もうそんな仲なの? 今度僕も誘ってよ。一緒に楽しもう――ぐえッ」
くだらない戯言を真顔でのたまう好色皇子を、わたしは軽く小突いて黙らせる事にした。