18 怪力女傑一行、ダマスクスへ旅立つ
「話はまとまったのか? ハール」
「ああ。大枠の部分はね。細かい所となると僕も流石に判断がつかないから、詳細は後日、手紙に書いてダマスクスへ送ってくれと言っておいた。
ヤフヤー殿やジャハルだったら、彼女の希望や要求も納得のいく形を取ってくれるだろう」
あれから、どうにかヒュパティアとトートの和解は成立したようだ。
ひとまずの決着がついた、と安堵したのも束の間――ハール皇子の元へ、一羽の鷹が舞い降りて来た。
「おお? シャジャじゃないか、久しぶりだな……きみの方からやってくるなんて、珍しい事も――」
口元をほころばせたハールだったが、シャジャの足首に巻かれた絹紙に気づき、すぐさま紐解いて中身を確認した。すると見る見る表情がこわばっていく。
「……どうした?」
「ジャハルからだ。まずい報せだ――とうとう兄上が、ダマスクスを追討するため軍を動かしたそうだ」
唇を噛む青年皇子。いつかこの日が来ると思っていたが……むしろ今までよく、派兵を思いとどまらせていたものだと考えるべきか。
「この手紙の日付じゃ……厳しいな。僕らが今いるアレクサンデラからなら、地中海を船で突っ切るのがダマスクスへの最短ルートだが……あの海は年がら年中ベタ凪で、ガレー船以外まともに運用できない。
足が遅く漕ぎ手も大勢雇わなければならないガレーじゃ、今から大急ぎで向かったとしても……最悪何もかもが手遅れになっているかもしれない」
わたしの見立てでは、ダマスクスの周辺諸侯への懐柔工作が上手くいっていれば……恐らく帝都マディーンとの戦力差は拮抗している。
だからまともにぶつかれば、少なくとも負ける事はないだろう。ダマスクスは歴史ある鍛冶職人の街であると同時に、兵士の街でもある。いざ戦いとなれば頼もしき屈強の戦士たちがいくらでもいる。何より今は、わたしが最も信頼する歴戦の中東騎士アグラマンが防衛の任を担っているのだ。あの男がいれば、万に一つも敗北はありえない。
――しかしその予測は、あくまで人間同士が戦った場合に限られる。
唯一にして最大の懸念材料は、今の帝都マディーンには、人ならざる異形のものたちがひしめいているという点だ。
アグラマンと故アブドゥル殿のもたらした情報によれば、ハールの兄ムーサーはとうにこの世を去っており、あの邪悪なる魔術師白仮面が、ムーサーの姿になりすまし代わりに聖帝の座に就いているという。それが事実だとすれば……今派遣されているアルバス帝国軍はただの軍隊ではあるまい。白仮面の差し向けた魔物の存在や、超常の魔術の加護を受けている恐れがある。わたし達が間に合わなければ……ハールの抱く懸念は、現実のものとなってしまうだろう。
「大丈夫よ! こんな事もあろうかと――あたしには天才的なナイスアイディアがあるわ!」
突然元気よく声を上げたのは……言わずと知れた、魔法少女のアンジェリカであった。
「あたしもちょっと考えたのよ。いずれダマスクスに戻るにしても、船に乗ったら悪夢の船酔い地獄の再来よ!」
「アンジーほど船旅に弱い人もそうそういないと思うけどね……でもどうするんだい?
空飛ぶ絨毯は確か、しっかりした地面の上じゃないと飛行できないってこの前自分で言ってただろう」
「……ふっふっふん、甘いわね皇子! 今やその弱点も恐れるに足らず!
ちょっと出てきて! 風の魔神!」
アンジェリカが呼びかけると、なんとハールの持っていた魔法のランプからたちまち、青い肌の魔神が姿を現す。
「おい待て。なんでお前アンジーの呼びかけに応じてるんだよ? いちおう主人は僕なんじゃないかったのか?」
『へっへっへ、申し訳ありやせんが……まあ色々ございましてね?』
何があったのか不明だが、アンジェリカは何らかの魔術か契約を施し、他人に仕えているはずの風の魔神を使役できるようになったらしい。
「さっそくで悪いけど、こないだあたしに教えてくれた奴やって!」
『へいへい。風の地面ですね……しばしお待ちを』
魔神がパチンと指を鳴らすと……わたし達の目の前に、無数の小さな竜巻が出現した。目を凝らさないと認識できないが、まるで透明な絨毯模様のように、見えざる風が渦を巻いているのが分かる。
「このぐらいの小さな竜巻だったらそれなりのスピードで動かせるし、丸一日はずっと出していられる。ちょっと魔力を補充するだけで継続できるそうよ。
コレに人間が直接乗るのは無理だけど、この上に空飛ぶ絨毯を乗せれば……ホラ!」
アンジェリカが取り出した高級パルサ絨毯を「風の地面」に向かって投げると、いつもより高い位置にふわりと浮かんだ。
「……確かにこれなら海の上にも出られるかもしれんが、大丈夫なのか? さっきから絨毯じたいが風に煽られ揺れているが」
わたしが指摘したように、普通に地面に浮かべた場合に比べて何やら不安定な気がする。これでは船に乗るのと大差ないのではないか?
「風で揺れるのは、魔神の起こした風がそれぞれ出力が違うからよ。だったらあたしが補助すればいい」
そう言ってアンジェリカは、新たな呪文を唱えつつ――例の「赤いネペンテス」の実を一口ほおばった。
すると突然、思い思いに渦巻いていた無数の竜巻は静かになり……浮かんでいた絨毯はピタリと水平になった。
「……これで大丈夫。さ、乗ってみて皇子」
「え、僕から乗るの……? まあいいけど」
少々おっかなびっくりという風ではあったが、促されたハールは絨毯の上に飛び乗った。
絨毯はびくともしない。しばらくは慎重に感触を確かめていたハールだったが、やがてすっくと立ち上がり、歓声を上げた。
「おおっ! ホントに安定してる!」
「でしょ? あたしが風の魔神に働きかけて、全部の竜巻を同じ強さにしたの。本来この手の複数の力を使う術は調整が難しいんだけど……ネペンテスの実、ひとつ口に入れただけで、頭がスッキリ冴え渡って、術に集中できるようになったわ」
難しい原理はよく分からないが、わざわざ西エチオピアの奥地にまで行って実を入手した甲斐はあったようだ。
「という訳で、わざわざ船に頼らなくてもコレに乗って地中海を渡れば問題なし!
竜巻を使って蜃気楼も出せるから、よっぽど近づかれない限り他の船からあたし達の姿は発見できないハズよ!」
「敵から身を隠せる力まであるのか! そいつは凄いな」
アンジェリカは船酔いを回避できるし、ハールは余計な出費を抑えられる。今この瞬間、二人の利害は一致した。
そしてそれはわたしも同じ事。一刻も早くダマスクスに戻れるのであれば、この際何だっていい。
かくしてわたし達は、空飛ぶ絨毯に乗って地中海を通過するという、前代未聞の旅をする事になった。
目指すはダマスクスの地。わたし達の背後で、あれほど巨大だったアレクサンデラの街並みも、見る間に小さくなっていく。やがて残ったのは、世界の果てまで届くとされるヴァロス大灯台が発する炎の光のみだった。
「……わたし達が帰還するまで待っていてくれ。アグラマン」
(第6章 了)




