17 怪力女傑、皇子の仲裁を見守る
日が沈むのを見計らってから、皆で大翼鳥の背中に乗り――西エチオピアから地中海のアレクサンデラまでの長い距離を、夜が明けぬ内に戻る事となった。
例によって高所恐怖症のハール皇子が、死んだ魚みたいな表情のまま過ごす事になったが、我慢してもらうしかない。
目的の品である「赤いネペンテス」の実を入手する事には成功したが、結局一週間近く留守にしてしまった。
こうなると気がかりなのは……わたし達の旅に同行したヒュパティアである。
「心配して下さるのはありがたいですが、ワタシが実地調査で街からいなくなる事なんて、珍しくもないです。両親にだって婚約者にだって、文句は言わせませんよ」
「いやその……ヒュパティア。差し出がましい話で申し訳ないんだが……
あなたの生き方そのものを否定する気はない。わたしだって女だてらに戦士として放浪しているような身だからな。
ただ……あれから少し考えたんだが、もう少しあの、トートとやらと話し合ってみた方がいいんじゃないか?」
この街で初めて遭遇した時、トートとかいう男の第一印象はあまり良くなかった。
服装も時代錯誤だったし、ごろつきめいた男たちを引き連れていたので、無理矢理ヒュパティアを連れ戻そうとしていた風にしか映らなかったからだ。
しかしあの後、ヒュパティアから話を色々聞いてみた限りでは……トートがあれこれ世話を焼こうとするのは、いささか奔放すぎるヒュパティアの行動にも原因があるように思えてきた。
「話し合うと言っても……あの方、何かとワタシの活動の邪魔ばかりしてきますし。
遭遇すれば決まって『とにかく来てくれ』『話を聞いてくれ』としか言わないものですから」
「…………やはり、そんな事なんじゃないかと思った」
ヒュパティアもトートも、立場も地位もある身であり、お互いに忙しいのだろう。
一番の問題は、ヒュパティア自身にトートと話し合う気がなく、そのための時間を作る必要性を感じていない点だ。だからこれまで十三回もすれ違いが発生してしまったのだ。
「ヒュパティア。ひとつ提案がある。あなたにとって受け入れれば、将来のために有益となるものだ。
あなたは最初に言っていただろう? アレクサンデラにおける学園の活動を、聖帝に承認して欲しいと」
「? ええ。確かに言いましたけれど……」
それならば話は早い。
「ハール。そういう訳だから、是非とも協力して欲しい」
「……なるほどね。そういう事なら僕も力を貸すのにやぶさかじゃあないよ。
円満な夫婦の仲を取り持つのも、スクルの教義に適った善行だからねえ」
***
翌朝のこと。
ヒュパティアの名を出し、学園の人間に用件を取り次いだところ、トートは待ち合わせ場所に指定した家にのこのことやってきた。
どうやら今まで、彼女の方からトートを名指しで呼び出した事など一度もなかったらしい。初めての事に戸惑ってはいるものの、ヒュパティアの方から会いたいと言ってきた嬉しさの方が勝ったのだろう。服装も以前のような時代錯誤の長衣ではなく、中東世界で裕福な者が着る標準的な高位服になっている。まともな恰好をしようと思えばできるらしい。
ヒュパティアとトートの話し合いの場に同席しているのはハール皇子。わたしとアンジェリカは近くの物陰に待機だ。
「……そちらから呼んでくれるとは予想外だったよ、我が叡智の女神」
「こっ恥ずかしいので、その名前で呼ぶのは控えてくれませんか? 皆が呼ぶように、ヒュパティアと呼んでいただければ」
のっけからトゲのある言い草のヒュパティア。トートが鼻白んだのを見て、ハールはわざとらしく咳払いした。
「あー、ゴホン。このたびヒュパティアさんの活動と功績が認められ、アルバス帝国から直々に彼女の学園に資金援助を行ってもいい、という申し出があった。
しかし彼女が今後も支障なく学問に打ち込めるよう、当面の問題を解決して欲しくてね。きみ達は将来、夫婦になるそうだが……今後について、じっくり話し合いの場を持つべきだと思ったんだ」
「……はい。そういう事ですので、仕方なくこちらから呼び出させてもらいました」
「それはそれは、ありがたいお話で。一体どのような提案をしていただけるのかな?」
トートの顔は露骨に険しくなっていた。帝国からの援助目当てに、仕方なく関係改善をしてやろう、みたいな言い方では無理もないかもしれない。
「今まで通りでいいんですよ。わたしの学芸活動に口を挟まず、事ある毎に会いに来て妨害しなければ、それで」
「そういう訳にはいかない! メ……いや、ヒュパティア。きみの奔放すぎる活動には皆、振り回されて困惑している!
僕だけじゃない、きみのご両親もだ! きみはもう、きみひとりだけじゃない! 周りの人々の事も少しは気にかけるべきだ!」
そこから先は酷かった。売り言葉に買い言葉で、互いに言いたい事を相手にぶつけまくる。
そんな二人の様子を、ハール皇子は沈黙したまま、しばらくの間達観したように眺めていた。
(ちょ、ちょっとフィーザ。これ止めなくていいの? 思いっきり喧嘩別れしちゃいそうなムードじゃない)
(…………ハールに任せよう。あいつは少しも慌てていないしな)
しばらく口喧嘩はヒートアップしていたが……やがて二人とも、ぜえはあと息を荒げて押し黙ってしまった。
言いたい事を言い尽くしたのだろうか。それにしても、あそこまで感情をむき出しにしたヒュパティアは初めて見たな。
二人から言葉が出なくなったのを確認したハールは、ゆっくりと口を開いた。
「そんなにお互い気に食わないのなら、いっその事すっぱり縁を切った方がいいんじゃないか?」
ハール皇子の言い放った、冷淡とも取れる言葉に――トートもヒュパティアもやおら色めき立った。
「は…………?」「え…………離縁しろ、と?」
「だってそうだろう? これだけ話し合っても、きみたちは落としどころを探るどころか、自分の主張を繰り返すばかり。これじゃいつまで経っても平行線だ。
無駄な口喧嘩に何時間も付き合う気は、こっちにもないよ。だったらキレイさっぱり、後腐れなく! 婚約など破棄してしまえばいい。それがお互いのためさ」
「馬鹿言わないでくれ! 僕らの婚約は家同士で決めたものだ! 僕ら二人だけの問題じゃあない!
それを僕らの都合だけで白紙になど戻したら……お互いの家の面子は丸潰れだ! 一体どれだけの人間に迷惑がかかるか……」
「そ、そうです。確かにトートは鬱陶しい事この上ない殿方ですが……婚約破棄はその、導き出される結論としては早計なのではないか、と……」
ハールから極論を突きつけられた途端、二人のそれまでの強気な態度はどこへやら。
瞬く間にしどろもどろになり、何かしら理由をつけて彼の提案に難色を示している。
「……ふぅん。そこはお互い、譲れない訳だ。婚約破棄をしたくないのであれば……互いの不満を言い出しあって、できる所は譲歩していくしかない。
そもそもヒュパティアは、彼のどこが気に入らないんだい?」
「そりゃもちろん、何かとわたしの行動を縛ろうとする所です。ワタシにとっては学芸活動に必要なものですのに」
「だからって出張が長引いたり、急にふらっといなくなるのはやめてくれ! 気が気じゃないよ。
あなたの両親からもきつく言われているし……それに何より、あなたの身の安全が心配なんだ!」
「そうやってもっともらしい事をおっしゃいますが、あなたの言葉に従っていれば、ワタシはその内、家から一歩も出られなくなりそうで嫌なんですよ」
段々分かってきた。トートとしては、妻の安否が気がかりだから束縛したがる。
しかしヒュパティアにしてみれば、彼の言葉に従っていれば、行動の自由どころか外出の自由すら侵害されると思い込んでいるようだ。
「そこらへんの詳細は、もっと二人でじっくり話し合った方がいいと思うよ。
お互い、家はそれなりに金持ちなんだろう? だったら実地調査をするにせよ、十分な護衛を雇うなり何なりした方がいい。ヒュパティア的には窮屈な思いをするかもしれないが、トートがきみの身を案じる気持ちも少しは考えるべきだ。……それに何だったら、二人で一緒に調査とか行ったら? 新婚旅行だと思えばきっと楽しいと思うよ」
「…………」
二人が押し黙ったのを見て、ハール皇子は笑みを浮かべて続けた。
「特に反対しないという事は……ヒュパティアも案外、彼の事をそんなに嫌ってなさそうだね?」
「べ、別に嫌いという訳ではありません。ただ……やり方がいちいち極端というか。トートはなんで、似合わない長衣とか着てたんです?」
「それは、きみが古代グリジア好きと聞いて……それでああいう格好してみれば、少しは気が引けるかな、と……」
「……そんな理由だったんですか。わざわざあんな奇をてらわなくても、元が整っているのですから普通にしていれば良いと思います」
いざこうして、面と向かって腹を割って話をしてみれば。
ハール皇子の提案がきっかけで、二人は互いの希望を言い合い、すり合わせ、どうにか妥協できるラインを模索できそうであった。
もともと二人とも、今の関係のままでは良くないとは薄々思っていたのだろう。ただ、互いに意固地になって素直に言い出せるチャンスを逃していただけだったのだ。
「……なんのかんの言って、意外とお似合いだったりする? あの二人」
「そうかもな。まったく……『夫婦喧嘩は犬も食わない』とはよく言ったものだ。
ハールはよくもまあ、あんな面倒な話し合いの仲裁など好きこのんで引き受けられたものだな」
何にせよ、二人のわだかまりが消えるのに越した事はない。
彼らの将来の方針があらかた決まったところで――今度はヒュパティアからハール皇子へ、学園の具体的な援助策についての交渉が始まった。




