15 怪力女傑、幻獣カトブレパスと対決する・後編
決して見通しは良くない密林地帯。
荒い息とむせ返るような獣臭と共に、巨大な幻獣は姿を現した。
牛のように力強く、鈍重そうな体躯。しかし一般的な牛より二回りも大きく、首は異様に長く太い。首の先にはざんばらになった真っ白い毛で覆われた頭があり、口から不気味なほど涎を垂らし、はっきり白煙が見えるほど息遣いが荒い――これが視線を合わせたが最後、いかなる勇者の命をも一瞬で奪うという、伝説の幻獣カトブレパスか。
わたしは奴の瞳を見ないために、目を一瞬そらした。その先には……奇妙な石の残骸がいくつも転がっている。形から察するに……もともとは、人間の身体の一部だったのだろう。わたしより先に挑み、散った――現地の勇者たちの成れの果てだ。
ごおああるるる――
カトブレパスが吠えた。大きく開いた口から、この世のものとは思えぬ重低音の咆哮が轟く。並の戦士であれば瞬く間に足がすくみ、なす術もなく貪り食われてしまうだろう。
次の瞬間、巨大な幻獣はこちらへ向かって突進してくる。完全にわたしを標的とした動きだ。
カトブレパスの動きは鈍重だと、ヒュパティアは言っていたが……体格に似合わず凄まじい速さである。これも「赤いネペンテス」を食し、興奮状態にあるが故だろうか。
(どんな事情があったのかは知らない。群れからはぐれ、飢えたのか……お前も生き抜くために必死なだけなのだろう。
だがお前は何人もの人間を殺してきた。これ以上猛威を振るうというなら……排除せざるを得ない)
いずれにせよ、今は迎え撃たねばならない。
「来いッ!」
わたしは身を低くかがみ、巨獣の前脚の間に転がり込むような姿勢を取った。ギリギリまで引きつけ、敢えて前へと踏み込む。カトブレパスは長すぎる首がかえって仇となり、赤い凶眼がわたしを射抜く事はなかった。わたしは獣の左前脚を掴む。巨体に相応しい超重量が、ずしりと全身に伝わってきた。こいつとまともにぶつかり合うのは、いくら何でも無謀に過ぎるだろう。
「だああああッ!!」
わたしはあらん限りの雄叫びと共に、カトブレパスの巨体を背負い投げの要領で投げ飛ばす!
小さな山ほどもある岩の塊を持ち上げるようなもので、奴の突進力を逆に利用しなければ、投げるどころか持ち上げる事すら不可能だったに違いない。
しかし結果として、巨大な幻獣は宙を舞った。叩きつけた先の巨木が、衝撃に耐え切れずあっけなく貫通、粉砕される。そのまま地面へ勢いよく落下し、凄まじい衝突音が上がった。
カトブレパスは地面にめり込み、奇怪な叫び声を上げる。かなりの衝撃だったはずだが、岩同然の表皮にはさしたる損傷はなかった。さすがは伝説の幻獣といったところか……ひょっとすると頑丈さだけなら、ペトラ遺跡で戦った大地の魔神よりも上かもしれない。
ともあれ、好機である。転倒した今の状態なら、無防備な下腹部がこちらにがら空きだ。わたしは炎の魔神の力を借り、さらなる怪力を得るため炎熱を右拳に宿した。そして奴が態勢を立て直す前に……得意の拳撃を三発、腹に向かって打ち込んだ!
「…………く、おッ」
しかし、右腕を通して伝わってきたのは……想像していたよりも異常に硬い、カトブレパスの皮膚であった。普段見せない腹なら、多少は装甲が薄いのではないか――そんな楽観的な予想はもろくも打ち砕かれてしまう。炎で多少、焦げ跡は残ったが……それだけだった。
「!?」
猛烈に嫌な予感がし、わたしは咄嗟に左腕のダマスカス鋼の手甲で防御姿勢を取る。
次の瞬間、猛烈な衝撃が襲った。カトブレパスが後脚を振り上げ、邪魔者であるわたしを突き飛ばそうとしたのだ。手甲で直撃こそ防いだものの、重い打撃は全身を蝕み、わたしはたまらず吹っ飛ばされていた。
一回転がった後、どうにか立ち上がると……幻獣はすでに起き上がっている。
再びこちらに向かって突進してくるカトブレパス。しかし今度は直進ではない。円弧を描くようなコースで、わたしに突進力を利用されないための動きだ。凶暴性はそのままに、こちらの裏をかこうとする狡猾さはかろうじて残っているらしい。厄介だ。
(まずいな。今度は受け流して投げ飛ばすなど、できない)
おとなしく直撃を食らうか、それとも回避するか。速度が上がっているとはいえ、かわす事は不可能ではない。だが先ほど投げ飛ばした感触では、奴は張り巡らせた包囲網を突破するのに十分すぎるほどの重量を持っている。巨木も容易くなぎ倒せるような怪物を、急ごしらえの荒縄程度で抑えつける事など不可能だろう。
(つまり……逃げる訳にもいかないという事だ)
かなりの覚悟が要るが――かくなる上は、取るべき手段は1つしかない。
わたしは包囲網を形成するロープを背にして、突撃してくる巨大な幻獣に対し、仁王立ちになった。
そして互いがぶつかり合う!
「があッ」
真正面からもろに突進を受けた――かに見えたかもしれないが、厳密には違う。衝突する寸前を狙い、衝撃をある程度逃がすために、わたしは後ろに跳んでいた。
わたしの真の狙いは、怪物の頭上に乗り上げる事。しかしただジャンプするだけでは目標に届かないので、一計を案じた。カトブレパスの突進力を逆に利用し、張り巡らされたロープを踏み台にする事で――奴の背丈のさらに上まで跳躍したのだ。
カトブレパスの細長い首を越え、頭頂部のたてがみを掴み取った。と同時に、わたしの身体に激しい痛みが走る。衝撃を逃がせたとはいえ、幻獣の突進力を完全に受け流せた訳ではない。軽減してもなお、全身がバラバラになりそうな一撃に、意識を持っていかれそうになる……だが、堪えねばならない。ここで気絶してしまっては、全ての覚悟が無駄になる。
幻獣は狂ったように暴れ回ったが、わたしはどうにか振り落とされず、奴の巨大な頭上にしがみつく形となった。
ぶるるおおおおッ!!
脳天を叩ければ良かったのだが、ここまで暴れられると、たてがみにしがみつくだけで精一杯だ。
やがて――掴んでいた奴の毛髪がちぎれ、わたしの手からすっぽ抜けた。わたしの身体は宙を舞い、奴の真正面を向く形となる。
怪物は振り乱した髪の毛の間から、凶悪な赤い光を放つ瞳でこちらを睨んできた。邪眼。この至近距離で死の眼光を浴びれば、いかなわたしとて抗う術はないだろう。
(やれやれ、少々予定が狂ってしまったな……
しかし待っていたぞ。その目をこちらに向けるのを)
わたしは左腕の手甲の、手のひら部分に仕込んでいた「モノ」を、幻獣の邪眼に向かって突きつけた。アンジェリカが授けてくれた「お守り」だ。
カトブレパスの赤い瞳が視界に捉えたモノ――それは、自分と同じ光を放つ物体――すなわち、鏡であった。
怪物の放った赤い光が反射され、逆に怪物自身を飲み込んでいく。
結果として、磨き抜かれた魔法の鏡を宿した護符は、伝説の幻獣の死の邪眼の力をも跳ね返した。
わたしが地面に叩きつけられたのと同時に、巨大な幻獣の動きは止まった。黒ずんだ牛のような巨体は完全に硬直し――不安定な体勢から派手に転倒する。
カトブレパスの肉体は――邪眼を浴びた時点で絶命したのだろう――ひどく脆いものになっていた。落下した石像のようにひび割れ、砕け散ってしまったのである。




