9 怪力女傑、「赤いネペンテス」の存在を知る
それまで眠っていたアンジェリカ、ヒュパティアたちが目覚め、起き上がった。
二人が意識を失っていたのは、せいぜい2分にも満たない短時間だった。「二人の護衛をする」と約束した手前、相当な時間を見張りに費やす覚悟をしていたのだが……思った以上に事はあっさり片付いてしまったようだ。
「アンジェ。ヒュパティアさん。大丈夫か? いにしえの大図書館とやら……無事に入れたのか?」
「……赤い……ネペンテス……」
「……?」
起き上がった魔法少女が最初に口にした単語は、わたしも聞いた事のないものだった。
「赤いネペンテスについて、書かれていたの。あたしもはじめて知ったけど……
もし手に入れる事ができれば、想像を絶する魔術への集中力を得る事ができるって」
「……なんか、夢みたいな話だな」
「赤いネペンテス、ですか。『オデュッセイア』に登場する飲み物ですね」
口を挟んできたのは、ヒュパティアだった。
「……知っているのか?」
「はい。古代グリジアの超有名叙事詩にその名が出てきます。記述によれば、赤いネペンテスをひとたび飲めば、どんなに悲しい事があってもたちまち笑顔になれるとか」
「……字面だけ聞くとうっかりスルーしそうだが、それ思った以上にやばい薬か何かじゃあないのか?」
わたしは不安になってしまった。
例えばケシの実の汁は、少量なら人間に幸福感を与えるが、常用すると中毒性が強くなる、という話を聞いた事がある。「赤いネペンテス」もその類なのではないだろうか。
「実際に作ってみないと分からないけど、よほどの劇薬でもなければ、用法用量を守っていれば問題ないハズよ!」とはアンジェリカの弁。
「そもそも、それが本当に必要なのか?」
「……できれば、試してみたい。結局、ペトラ遺跡に眠っていた地の魔神の力は、白仮面に奪われてしまった。
次に相対した時、強大になった奴の魔術に対抗するためにも……どうしても手に入れてみたいのよ」
アレクサンデラまで来る事になったのは、アンジェリカがこの情報を得るため、だったのか。
時の幽精が見せてくれた未来の幻視には、少なくとも価値があったのだ。
***
公衆浴場を出た後、ハール皇子とも合流した。
「ふうん。『赤いネペンテス』ねえ……それ、具体的にどこに行けば手に入るんだい?」
ハールがもっともな疑問を口にすると、アンジェリカは「うっ」と痛い所を突かれたかのように硬直した。
「…………わかんない」
「えっ」
「ごめんなさい。書物にはネペンテスの実の割り方とか、中身の煎じ方とか……細かい実験方法はバッチリ載ってたんだけど。
肝心の原産地については……記述が見つからなかったの。高山に生えている、とは書いてあったんだけど……」
「いやいやいや。そんな曖昧な情報だけじゃあ、いくら必要と言われても……手に入れようがなくないか?」
「アンジェちゃん」口をつぐんだアンジェリカに代わり、ヒュパティアが口を開く。
「同じ名前ではありませんが、似たような木の実の話でしたら、聞いた事がありますよ」
『!?』
わたしも含め、その場の誰もが女学者の言葉に目を瞠った。
「……知っているなら、さっきの時点で話してくれたらいいのに」とアンジェリカ。
「一応、ハールさんもご一緒の時に説明をした方が良いかと思いまして。
それに話といっても、噂程度のものですし……場所も非常に遠い。ここから遥か南に位置するという、『神の国』のお話なのです」
「…………神の国?」わたしは怪訝そうに尋ねた。
「ご存知でしょうか。かつてスクル教が興ったばかりの頃、信徒たちは各地で迫害を受けていました。
そんな彼らが避難し、庇護を受けた国があったのです。それが『神の国』。その国の王は言いました。『同じ一神教のよしみだ。ごゆるりと滞在されよ』と」
「ああ、有名な話だね。スクル教の経典にも書かれている」とハール。
その国とは――雨に恵まれ、豊かな土地を持ち。紅海を経て数多の船と民を受け入れし国。
アフリグス大陸にて、もっとも古くから西方異教を受け入れながらも、その成り立ちから他の宗教にも寛容。
神話の時代、天馬に乗った英雄に救われ、結ばれた美しき王女がいたとされる――
「……エチオピア、か」
「ご名答。エチオピアの伝承では、こうです。ヤギ飼いの少年が、夜中に赤い実を食べたヤギを見た。
そのヤギは恐ろしく興奮し、ヤギ飼いが止めるのも聞かず、山野を駆け巡り……一晩中、暴れ回ったとの事です。
どうです? 赤いネペンテスの話に似ていると思いませんか?」
ひょっとしたら、エチオピアまで行けばその「赤いネペンテス」に酷似した実を得る事が、できるかもしれない。
だがそれは……あまりにも非現実的なプランだった。帝都マディーンからアレクサンデラまで旅した事でさえ、三ヶ月以上を費やし、危険を冒してどうにか成し遂げたのだ。この上さらに南下し、ナイル川を上っていくなど……いったいどれだけの時間がかかるのか。よしんば実を取って戻れたとして――ダマスクスはどうなっているだろうか? 恐らくバルマク家の時間稼ぎも限界に達しているだろう。最悪の場合、帝都マディーンから追討軍が差し向けられ、全面戦争となりかねず……わたし達が戻る頃には、全てが手遅れになっているかもしれないのだ。
「流石に無茶な話じゃないかな。今からエチオピアくんだりまで、のんびり旅行する時間的余裕はないぞ。
下手をすれば移動しているだけで命を落としかねない」
ハール皇子の懸念はもっともだ。アンジェリカの「空飛ぶ絨毯」を以てしても、楽な旅路にはなるまい。
「……そうだな。確かに難しい。そんな遠くの国まで行くなら、それこそ伝説の大翼鳥の背中にでも乗っていくしかない。
――さすがにあきらめるべきだろう」
実現不可能な話だ。と、誰もが思い、納得しかけた……その時であった。
『大翼鳥の助けが要るんですかい? マルフィサの姐御。呼ぼうと思えばできますぜ』
意外な一言を発したのは、なんとハールの持っているランプに宿った、風の魔神だった。




