7 怪力女傑、南部地区へ向かう
わたしとハールは、夜の南部地区に入った。
居並ぶ建物も古びたレンガ造りや、簡素な木造の小屋ばかり。
通りを歩くと、営業している飲食店がチラホラと見えた。
「……ね? ここらの店じゃ、食事だけじゃなく酒だって売ってるんだぜ」ハール皇子が言う。
「当然だろう。帝都に住む人間はスクル教徒だけじゃない。人頭税さえ支払えば、異教徒であっても安全と信仰を保証される……それぐらい、わたしも知っている」
アルバス帝国の国教はスクル教。しかしこの宗教、戒律こそ色々あるものの、大部分は強制ではない。帝国民となる場合にも、兵役に従事するか、もしくは人頭税を納めれば、スクル教に改宗せずとも良い。意外と柔軟性のある国家なのだ。
例えば、西方諸国で主に信仰されるヴェルダン教の信徒も、帝都には住んでいる。彼らは聖なる儀式の際、赤ワインを使用しなければならない。どうしても酒が必要なのである。
「じゃあこれは知ってるかい? マルフィサ。偉大なる預言者にして、スクル教開祖スクルージは最初、酒を禁じてはいなかったんだ。父様が言ってた」
「……ほう」
「ある日、酒を飲んで酔っ払った状態で、経典を読み上げようとした奴がしくじっちゃってね。それで『礼拝前に飲酒するべからず』って話になった」
「ふむ。なるほど」
「でもこの時の禁酒令は、礼拝前に限った話でね。その後に飲むのは問題なかったんだぜ。
ただ何年か経った後、宴会やって刃傷沙汰起こしたバカが出ちゃってさ。そいつのせいで『飲酒は悪魔の仕業。心して避けよ』って戒律できちゃったんだよね」
然るべき理由があって、神の戒めとして「禁酒」が課された。実に合理的な話だ、とわたしは思う。
「つまり僕が言いたいのは、悪酔いしてハメを外すような真似をするのがいけないのであって、酒じたいに罪はないって話なのさ」
「まあ、言い分は理解できるが」
「……だから余計に許せないんだ。僕の見立てじゃ今、帝都で騒ぎを起こそうとしている輩は、酒そのものを悪に仕立てようとしている」
「…………? 酒、そのものを……?」
それまで飄々としていたハール皇子の口調に、にわかに強い意志が宿った。
***
わたしとハール皇子が入っていったのは、南部地区でも一際貧しい者たちが住むスラム街。夜闇よりもさらに暗い、廃屋特有の埃臭さが漂う一帯だった。
「僕だ、ハールだ」
ハール皇子は闇の中へ呼びかけ、勝手知ったるといった風で、物怖じせず無遠慮に廃屋の中を進んでいく。
あちこちの暗がりから、人の気配がした。敵意……というより、怯えの混じった警戒だろうか。そんな視線が主に、わたしの方に突き刺さる。
「誰だその、デカい女は。つーかホントに女か?」中から声がした。わたしを威嚇するためか、子供がわざと低い声を作っているように聞こえる。
「彼女は今日の僕の護衛さ。堅物っぽく見えるのが玉に瑕だけど、なかなかいい女だと思わないか?」
ハールが笑みを浮かべると、暗がりから足音がして、奥から数人の人影が浮かび上がった。
実際、みな子供だった。年はハール皇子よりも七~八歳は下だろうか。
「親は、いないのか?」
「……オレの父さんは先の戦争で死んだ。母さんは病で亡くなった。ここにいる連中はみんなそうさ。親のいない、みなし子さ」
わたしの言葉に、スラムの少年少女たちはさも当然のように答える。
アルバス帝国の歴史は、度重なる戦と領土拡張の歴史だ。その「聖戦」の最中、兵士として駆り出された男たちの多くは死ぬ。
「あー。アンタもそういう奴なのか? オレたちが親無しだからって、可哀想だって同情する類の!」
わたしの悲しげな表情が気に食わなかったのか、リーダー格と思しき少年が口を尖らせた。
「あ……いや、その。済まない」
「見くびってもらっちゃ困る。オレたちが可哀想かどうか決めるのは、あくまでオレたちだ。
そりゃ最初は心細かったさ。貧乏だし、運が悪けりゃ何日もマトモな食い物にありつけない時だってある。
でも同じスラムの子供と協力して、支え合って、どうにかこうにか生きていく……そんな生活だって、意外と捨てたもんじゃあないんだぜ」
わたしがオロオロしていると、スラムの少年少女たちは、ニッと笑みを浮かべる。どうやらわたしの狼狽ぶりがよほど可笑しかったらしい。
「あっはっは! まさかそんなに動揺するなんて思わなかった。気にすんなよ! 住んでる世界が違うんだからさ」
「……本当に済まない。詫びの代わりになる事なら何でもする。そんなに持ち合わせは無いが」
「だーかーら、気にすんなって。オレたちみたいな貧乏人にまで、そんな気を遣う兵隊なんて初めて見た。アイツら大概、オレらの事なんて見下してるからな。
でもアンタはちょっと変っていうか、違うね。不器用かもだけど、きっといい人なんだろうな。……オレはカシムってんだ。アンタは?」
カシムと名乗った少年は、笑顔でわたしに右手を差し出してきた。わたしも「マルフィサだ」と名乗り、カシムと握手をする。
この少年の笑顔は本物だ。決して痩せ我慢や虚勢などではない、スラムでの暮らしを楽しんでいる。外から見て、貧乏だから、親がいないからと同情するのは、一方的で筋違いな感傷というものなのだろう。
「……ん。いいカンジだね。ここにきみを連れてきて良かったよ、マルフィサ」ハールは満足げにうんうんと頷いていた。
「で、カシム。お前に頼んでいた調査だが……ちょっとは進んだかい? 状況は?」
「あァ。期待してくれていいぜハール。アンタが軍資金を弾んでくれたお陰で、確かなスジから情報を集める事ができた」
カシムの話を聞くと、ハールは「やはりそうか」と大きくため息をついたが……懐からディル銀貨の入った袋を、スラムの少年たちに投げて寄越した。
「わァ、銀貨がこんなにいっぱい!……ありがとう、ハール兄ちゃん!」
「約束の報酬を払っただけさ。みんなで分けて大事に使えよー」
スラムの少年たちと別れ、わたしとハールは廃屋を出た。
「……アイツら見てると、和むんだよな。あれっぽっちの銀貨で、あんなに幸せそうな笑顔を見せてくれるんだぜ。
円城でしかめっ面しながら金勘定してる祖神教徒の連中なんざ、百万ディル積んだって眉一つ動かさないのにね」
「そういうハールの顔も、見ていて和んだぞ」
わたしがそう言うと、ハールは気恥ずかしかったのか、少々頬を赤らめそっぽを向く。そして誤魔化すように咳払いをしながら言った。
「――嫌な予感が的中だ。カシムが言うには、ここ最近は南部地区を中心に、密造酒の取引が増えてきた。時期は魔物騒ぎが発生したのと一致してる」
「! それは本当なのか……!」
その時だ。ハールの得た情報を証明するかのように……曲がり角の先から喧騒が聞こえてきた。
***
騒いでいるのは、場末の居酒屋に集まっている連中だった。
そこにいる人々はいずれもみすぼらしい恰好で、農民、露天商、物乞い、ならず者など……北部の人間とは、あからさまな格差がある。
その中でも特に目立っていたのは、古びたターバンを被った中年男性で、熱弁を振るっていた。
「知っての通り、ここ南部地区では魔物の目撃例が多発しており、諸君の同胞が何人も惨殺されている!
なのに北や中央に住む金持ちどもは、まともに取り合ってくれやしない。我々貧乏人の生き死になど、奴らはどうでもいいと思っているのだ!
スクル教の経典にもある! 人は皆、平等であると! 富める者は貧しき者を助け、施しを行うべきであると! 奴ら上層民は、その義務を怠っているッ!」
要するに中央政府への不満を吐き出しているようだ。彼が過激な言葉を投げつけるたび、聴衆の中から「そうだそうだ!」と合いの手のような歓声が上がる。
「何かしら揉め事が起こると、ああいう手合いが増えてくるよね」ハールがぼやいた。
「別にアグラマン達だって、出没する魔物とやらを野放しにしてる訳じゃない。ただ南部地区は広すぎるし、あいつらだけじゃとても手が回らない。
そもそも中東騎士たちは、聖帝を守るために編成された軍だし。どうしたってね、税金たくさん納めてくれてる上層民の安全が優先になっちゃうさ」
ハール皇子の言い分も、分からなくはない。
皇族や貴族たちからすれば、後から勝手に円城の外側に移り住んだ下層民など――厄介事を持ち込み、都の秩序を乱す余所者でしかないという訳だ。
人の平等を謳うスクルの教えに根差しているとはいえ、上層民も下層民も「同じ帝都の人間だ」などという仲間意識は、最初から存在しないのかもしれない。
「む……しまった。どうやら来るのが一足、遅かったようだな」
「? どういう事だ、マルフィサ」
「あちこちから匂うだろう? 集まっている聴衆をよく見てくれ。彼らは全員、杯を持っている」
「え、それってまさか――」
どうやら彼らの大半は、演説そのものではなく、酒目当てで集まっていたようだ。
確証こそないが、あれがさっきカシムの言っていたという「密造酒」なのではないか?