6 怪力女傑、公衆浴場にて見張り役となる
「まあ、事情は大体飲み込めたけど」ハール皇子が言った。
「まだまだ学問研究や弟子の教育に勤しみたいヒュパティアさんにとって、許嫁であろうと彼の存在は迷惑でしかない。
それでわざわざみすぼらしい恰好をして、彼の目を欺きつつ実地調査してたって訳だ」
「その通りです」女学者ヒュパティアは、こくりと頷く。「しかし変装した程度では駄目だったようですね。なんででしょう?」
この期に及んで、自身の突飛な行動が原因だと思い至らないらしい。学識は深いのかもしれないが、意外と一般常識的な思考には疎いのだろうか。
「……ま、まあそれはともかくとして! 一旦は撃退できた訳だし。しばらくは追ってこれないでしょ」
アンジェリカがその場を取り繕うように、努めて明るい調子で言った。
いくら世間一般からすると彼女の行動が非常識だろうが、決意の固さを目の当たりにした以上、そこを必要以上に追求するのはよろしくない事だと、さすがに判断したらしい。
「あたし達としては、ヒュパティアさんに協力してもらえたら、『大図書館』の本探しもずっとやりやすくなると思うわ。
あなたは魔術的な事象にも理解があるし、幽精を見る事のできる眼鏡も持ってる。魔術的な蔵書にも詳しいんでしょう?」
魔法少女の期待を込めた問いかけに、ヒュパティアも満更ではない様子だった。
「そうですね……今はとうに失われてしまった古代の蔵書には、ワタシも興味があります。ましてや魔術に関係するとなると……確かにワクワクしますね」
「でしょ? でしょ?」
「分かりました。このヒュパティア――個人的な知識欲にのっとり、あなた達の目的に力を貸しましょう。あくまで出来る範囲内で、ですが」
意外とすんなり、協力を申し出てくれた。渡りに船というやつだろう。
アンジェリカはパッと顔を輝かせ、ヒュパティアの手を握って何度も礼を言うのだった。
***
あれからわたし達は、公衆浴場へ向かう事になった。
提案したのはわたしである。ハールを除き、わたし達は全員女性。公衆浴場の女湯であれば、トートたちもおいそれとは中に入ってこれないからだ。
それに浴場は人々の憩いの場でもある。大勢の客でごった返すので、内緒話をするのにも適した環境なのである。
わたしとアンジェリカ、そしてヒュパティアは浴場に入り、慣例通り衣服を脱いだ。ちなみにハールは男湯に入っている。
自分に露骨に好奇の視線を向けるヒュパティアに、アンジェリカは辟易していたが……他の客もいる手前、滅多な事は起こらないだろう。多分。
「…………はい」
アンジェリカはヒュパティアに手を差し伸べた。
「……? これはどういう意味ですか?」
「浴場の中で時の幽精の声を聞いてもらうために、あたしと手を繋いでってこと。
あたしには魔術の心得があるし、フィーザには魔神の加護がある。でもヒュパティアさんはそうじゃないでしょ?
まさかお風呂の中にまで、あの真っ黒眼鏡をかけて入る訳にもいかないだろうし……」
そこまで言われて、ようやくヒュパティアはポンと手を打った。納得したらしく、嬉しそうにアンジェリカの手をぎゅっと握る。純粋に喜んでいるようで、意外と微笑ましい光景だった。
そんな経緯で、わたし達が浴場に入り、一通り汗を流した後――アンジェリカが密かに持ち込んでいた指輪から、トンボの姿をした時の幽精が出現する。幸い周囲に彼の姿を見る事ができる者はいなかったようで、特にざわつく事すらなかった。
『運がいいな。この公衆浴場……大昔の図書館のあった場所から、そう離れてねえ。
オイラの力を使って、過去の大図書館に行くっつー話だったな』
今回の話は、帝都マディーンで彼が行った幻視を見せるだけ、というものとは訳が違う。
ペトラ遺跡で、今は亡きアブドゥル殿が披露してくれた、過去の世界そのものを体験する――魔術に関しては素人のわたしですら、恐ろしく高度な技術なのだろうという事ぐらいは分かる。
「ええ。お願いするわ」とアンジェリカ。
『何人で行く気だ? 言っておくが、生半可な術じゃあねえぞ。結構な魔力を消耗する。
あんまり大勢を連れてくと、それだけ消費は大きくなるし……過去の体験をしている者は、基本的には無防備になっちまう』
「なるほど……おいそれと気軽に扱える代物ではない、という訳ですか」とヒュパティア。
どのみち、大人数で過去に飛ぶのは非現実的だし、行うならばできるだけ安全な場でやらなければならない。
「そういう事なら、公衆浴場の休憩所を借り、アンジェとヒュパティアさんの二人で行ってきたらどうだ。
何しろ本の話となると、わたしは門外漢だし……術を行使している間、二人の肉体は魂が抜けたみたいになってしまうのだろう?
少なくともわたしが留守番していれば、万一の時でも二人の護衛くらいはできる」
「それもそうね……分かった。頼りにしてるわよ、フィーザ」
「わたしもだ。気をつけて行ってくるんだぞ、アンジェ」
ぐっと握った拳で、軽く触れあうわたしとアンジェリカ。わたしの提案は受け入れられ、さっそく皆で休憩所へ向かった。
わたしが見守る中――時の幽精はにわかに光の渦を帯び、その形を変えていく。トンボそのものだった姿が、徐々に羽根の生えた少年のようなものに変貌し、その身に宿す魔力も急激に膨れ上がっていた。
突如、時の幽精の姿が消えた。
寝そべっていたアンジェリカとヒュパティアの肉体から力が抜け、意識を失う。わたしは二人の身体を支え、過度の負担がかからないよう姿勢を整えた。
アンジェリカたちはこの瞬間、過去のアレクサンデラ大図書館に旅立ったのだ。
※次回はアンジェリカ視点となります。




